学位論文要旨



No 212209
著者(漢字) 横森,馨子
著者(英字)
著者(カナ) ヨコモリ,キョウコ
標題(和) コロナウイルス遺伝子の構造と発現、宿主細胞のウイルスレセプターの研究
標題(洋) Structure and Expression of Coronavirus Genes and Viral Receptors in Host Cells
報告番号 212209
報告番号 乙12209
学位授与日 1995.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12209号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,直彰
 東京大学 教授 見上,彪
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 助教授 甲斐,知恵子
 東京大学 助教授 中山,裕之
内容要旨

 コロナウイルス属のマウス肝炎ウイルスについて、その遺伝子の特徴、転写の手段、そして宿主細胞において発現されているウイルスレセプターについて研究を行なった。マウス肝炎ウイルスはプラスストランドのRNAウイルスで、全長31kb,7つの遺伝子を含むポリシストロニックな構造をとっている。5’側から、転写酵素や蛋白分解酵素を含む約800kDのポリプロテイン(遺伝子1)、非構造蛋白2a(遺伝子2)、ウイルスの表面に突出しレセプターとの結合に直接関与するS蛋白(遺伝子3)、非構造蛋白4と5a,5b,ウイルスの膜蛋白であるM蛋白(遺伝子6)、そしてウイルスRNAに結合能をもつヌクレオカプシドN蛋白(遺伝子7),と並んでいる。それぞれの遺伝子の上流にはインタージェニックシーケンスと呼ばれる特殊な塩基配列があり、ゲノムの5’末端にコードされるリーダーシーケンスと呼ばれる部分とホモロジーがある。このリーダーシーケンスの部分が転写され、それぞれの遺伝子上流にあるインタージェニックシーケンスのマイナスストランド側に結合し転写を開始すると考えられている。リーダーが遺伝子1も含む7つの遺伝子の上流からそれぞれ転写を開始すると3’末端に到達するまで転写はストップしないので、小さなmRNAがそれより上流からスタートしたより大きなmRNAと構造上オーバーラップする形になるが、翻訳されるのは遺伝子5bの例外を除き、最も5’側にあるオープンリーディングフレーム(ORF)である。感染細胞ではこれら7つのmRNAがそれぞれ3’側を共有する"nested set"と呼ばれる構造をとって存在する。

 本研究では、まず継代を重ねたJHM株で、遺伝子2と3の間に今まで知られていなかったもう一つのORF2-1を発見、その遺伝子からアセチルエステラーゼ酵素能を持つ糖蛋白が作られウイルス粒子表面に発現されていることを証明した。この蛋白はHE(Hemagglutinin-esterase)蛋白と呼ばれる。次に異なるウイルス株ではHEの発現を調べた所、多くのウイルス株では遺伝子変異によりHEは偽遺伝子として存在し、この蛋白がウイルスの複製に必ずしも必要でないことが分かった。さらに、HEを発現しているウイルス株でもその発現量がmRNAレベルで調節されていた。すなわち5’端のリーダーシーケンス内のモチーフ"UCUAA"が2つあるとmRNA2-1は多量に発現され、3つあると少ししか発現されない。多くのウイルス株はもともとこのモチーフを、3つ持っており継代により2つに減る傾向にあることが分かった。これは、リーダーシーケンスのUCUAAモチーフとインタージェニックシーケンスが深い相関関係にあり、MHV(マウス肝炎ウイルス)の遺伝子発現を転写レベルで調節する重要な機構であることを示している。mRNA2,4,5もモチーフの数により発現量が左右されるが、2a,4,5aといずれもがウイルスの複製に必要でない一種の修飾遺伝子であることが分かったのは興味深い。

 次に、HE蛋白の生物学的機能を研究した。同じJHM株でありながらUCUAAモチーフが3つあるJHM(3)と、2つあってHEを多量に発現するJHM(2)では病原性が異なり、JHM(2)は早期に神経細胞に感染しマウスを死に至らしめるが、JHM(3)はまず白質のグリア系細胞に主に感染しその後神経細胞にも広がることから全体の経過が長いことが分かった。さらにHEに対するモノクローナル抗体を作成し受容免疫実験を行なった所、抗体がウイルスの神経細胞への感染をブロックしマウスに急性脳髄膜炎のかわりに亜急性或いは慢性の脱髄を起こすことが分かった。興味深いことに急性致死を免がれたJHM(2)感染マウスでは、ウイルスは主にグリア系細胞に局在し時間を追ってHE蛋白の発現が特異的に失われてゆく傾向があることが分かった。これらの実験からHEはウイルスの複製に必要でなくとも何らかの形でウイルスの神経細胞への感染と相関関係にあり病原性に関与していることが強く示唆された。

 HEの研究からUCUAAモチーフと各々の遺伝子上流のモチーフの相互関係は確立されたが、その転写のメカニズムについては未だに完全には証明されていない。リーダーRNA断片がウイルスゲノムのマイナスストランドから作られて、それらがプライマーとして働いて転写が開始されるという仮説の他にも、細胞内にmRNAと相補的な同一サイズのRNAも存在することからこれらマイナスストランドがまず作られてそれが複製を繰り返すのではないかという説などが提唱された。そこでUV灯を用いた転写マッピングの実験を行いmRNAの転写のメカニズムの解明を試みた。UV灯により不可逆結合した塩基対はその後の複製・転写を阻害する。RNAのサイズが大きければそれだけ影響を受け易く、小さいRNA程耐性である。異なる時間にアクチノマイシンDを用いて細胞の転写を阻害しウイルスの感染過程をブロックし、UV灯でウイルスのRNA生産を阻害した所、少なくとも感染初期においては全てのmRNAが最長のウイルスゲノムと同じようにUVの影響を受けた。このことから感染初期にはmRNA転写はやはり最長のウイルスゲノムを必要とし、リーダーによる転写メカニズムを支持する結果であることが示唆された。

 ウイルスの宿主細胞への感染は、それらの細胞にレセプターが発現されているかどうかで決まる。MHVのレセプターはmmCGM1というImmunoglobulinスーパーファミリーであることが発見されていたが、このmmCGM1とホモロジーをもつ他の蛋白を探した所、異なるスプライシングにより生じたmmCGM2もレセプター能をもつことが分かった。その発現範囲はmmCGM1より広く、より一般的なレセプターであることが分かった。さらにMHVに抵抗性のあるマウス株SJLでもこれらレセプターが発現、機能していることが分かり、マウスの抵抗性はレセプターによっては説明できないことが分かった。このようなウイルスの感染性とレセプターの分布との矛盾は、ウイルスの感染の成立にはさらに他の因子が必要なのではないかという仮説を立てさせた。MHVに抵抗性があるといわれるいくつかの細胞で感染性を調べた所、A59株は感染できたがJHM株はできなかった。いずれもレセプターの発現はこれらの感染性の違いと相関しなかった。感染の様々な段階をチェックした所、ウイルスの取り込みという最初のステップがJHMでは阻害されていることが示唆された。さらにA59株とJHM株のリコンビナントを使った実験で、S遺伝子を含む3’端側のゲノムがA59株のフェノタイプに必要であることが分かった。MHVウイルスの感染にはレセプター以外の細胞性因子が必要であり、この因子こそがMHVの感染性、さらに異なる株の病原性の違いを規定する鍵であることが強く示唆された。

審査要旨

 コロナウイルス属のマウス肝炎ウイルスについて,その遺伝子の特徴,転写の手段,そして宿主細胞において発現されているウイルスレセプターについて研究を行った。マウス肝炎ウイルスはプラスストランドのRNAウイルスで,全長31kb,7つの遺伝子を含み,5’側から,転写酵素や蛋白分解酵素を含む約800kDのポリプロテイン(遺伝子1),非構造蛋白2a(遺伝子2),レセプターとの結合に直接関与するS蛋白(遺伝子3),ウイルスの膜蛋白であるM蛋白(遺伝子6),ウイルスRNAに結合するN蛋白(遺伝子7),と並んでいる。それぞれの遺伝子の上流にはインタージェニックシーケンスと呼ばれる特殊な塩基配列があり,ゲノムの5’末端にコードされるリーダーシーケンスと呼ばれる部分とホモロジーがある。このリーダーシーケンスの部分が転写され,それぞれの遺伝子上流にあるインタージェニックシーケンスのマイナスストランド側に結合し転写を開始する。リーダーが遺伝子1も含む7つの遺伝子の上流からそれぞれ転写を開始すると3’末端に到達するまで転写はストップしないので,小さなmRNAがそれより上流からスタートしたより大きなmRNAと構造上オーバーラップする形になるが,翻訳されるのは遺伝子5bの例外を除き,最も5’側にあるオープンリーディングフレーム(ORF)である。感染細胞ではこれら7つのmRNAがそれぞれ3’側を共有する"nested set"と呼ばれる構造をとって存在する。

 本研究では,まず継代を重ねたJHM株で,遺伝子2と3の間に今まで知られていなかったもう一つのORF2-1を発見,その遺伝子からアセチルエステラーゼ酵素能を持つ糖蛋白HE(hemagglutinin-esterase)蛋白が作られウイルス粒子表面に発現されていることを証明した。次に異なるウイルス株でHEの発現を調べたところ,多くのウイルス株では遺伝子変異によりHEは偽遺伝子として存在し,この蛋白がウイルスの複製に必ずしも必要でないことが明らかになった。さらに,HEを発現しているウイルス株でもその発現量がmRNAレベルで調節されていた。すなわち5’端のリーダーシーケンス内のモチーフ"UCUAA"が2つあるとmRNA2-1は多量に発現され,3つあると少ししか発現されない。多くのウイルス株はもともとこのモチーフを3つ持っており継代により2つに減る傾向にあった。

 次に,HE蛋白の生物学的機能を研究した。同じJHM株でありながらUCUAAモチーフが3つあるJHM(3)と,2つあってHEを多量に発現するJHM(2)では病原性が異なり,JHM(2)は早期に神経細胞に感染しマウスを死に至らしめるが,JHM(3)はまず白質のグリア系細胞に主に感染しその後神経細胞にも広がることから全体の経過が長い。さらにHEに対するモノクローナル抗体を作製し受働免疫実験を行ったところ,抗体がウイルスの神経細胞への感染をブロックしマウスに急性脳髄膜炎のかわりに亜急性或いは慢性の脱髄を起こした。急性致死を免がれたJHM(2)感染マウスでは,ウイルスは主にグリア系細胞に局在し時間を追ってHE蛋白の発現が特異的に失われてゆく傾向があった。これらの実験からHEは何らかの形でウイルスの神経細胞への感染と相関関係にあり病原性に関与していることが強く示唆された。

 mRNAの転写のメカニズムについてはUV灯を用いた転写マッピングの実験を行い,その転写のメカニズムの解明を試みた。UV灯により不可逆結合した塩基対はその後の複製・転写を阻害する。異なる時間にアクチノマイシンDを用いて転写を阻害しウイルスの感染過程をブロックし,UV灯でウイルスのRNA生産を阻害したところ,少なくとも感染初期においては全てのmRNAが最長のウイルスゲノムと同じようにUVの影響を受けた。このことから感染初期にはmRNA転写はやはり最長のウイルスゲノムを必要とし,リーダーによる転写メカニズムを支持する結果であることが示唆された。

 ウイルスの宿主細胞への感染は,それらの細胞のレセプターの発現の有無で決まる。MHVのレセプターはmmCGM1というImmunoglobulinスーパーファミリーであることが発見されていたが,このmmCGM1とホモロジーをもつ他の蛋白を探したところ,異なるスプライシングにより生じたmmCGM2もレセプター能をもち,その発現範囲はmmCGM1より広く,より一般的なレセプターであることが分かった。さらにMHVに抵抗性のあるマウス系統SJLでもこれらレセプターが発現,機能していることから,マウスの抵抗性はレセプターのみでは説明できない。このようなウイルスの感染性とレセプターの分布との矛盾により,ウイルスの感染の成立にはさらに別の因子が必要なことが想像された。この結果からMHVウイルスの感染にはレセプター以外の細胞性因子が必要であり,この因子こそがMHVの感染性,さらに異なる株の病原性の違いを規定する鍵であることが強く示唆された。

 本研究はコロナウイルス属マウス肝炎ウイルスJHM株を用いてヘモアグルチニンエステラーゼに関わる遺伝子を発見し,その産生物の生物学的機能を調べ,また,このウイルスの感染にはレセプター以外の細胞性因子が必要であることを明らかにした。このことはRNAウイルスに関わる病原性の発現についての知識を著しく増加させ,学術上,応用上の価値はすこぶる大きい。よって審査員一同は博士(獣医学)の学位を与えるに同意した。

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