学位論文要旨



No 212210
著者(漢字) 東,貞宏
著者(英字)
著者(カナ) アズマ,サダヒロ
標題(和) マウスにおける胚性幹細胞の樹立に関する研究
標題(洋)
報告番号 212210
報告番号 乙12210
学位授与日 1995.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12210号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 豊田,裕
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 河本,馨
 東京大学 助教授 東條,英昭
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
内容要旨

 初期胚から分離され、体外で多能性を維持したまま培養可能で、しかも初期胚に導入することによりキメラ個体を構築して、生殖細胞へも分化し得る細胞が樹立され、その特徴から胚性幹細胞(ES細胞)と名ずけられている。このES細胞の特徴を生かして、本来の遺伝子を置換あるいは欠失させることにより、直接的に遺伝子の機能をさぐる試みがなされつつある。しかし、ES細胞そのものの分離は、多分に経験的技術に依存し、実用に耐え得る細胞株は未だ少数に限られ、より、効率的な分離法の開発が求められている。そこで本研究ではまずES細胞の分離法を研究し、次いで、本研究によって得られた細胞を用いて精子の透明帯通過に不可欠なものと考えられてきたアクロシン遺伝子の標的破壊を試み、さらに、アクロシン欠損マウスの解析をおこなった。

 第1章では、マウス初期胚からES細胞を分離するための条件と分離したES細胞の分化能力を検討した。

 胎齢14〜16日目のC57BL/6NまたはB6D2F1系統マウス胎児から繊維芽細胞を作製し、マイトマイシンC処理により分裂を抑制したフィーダー細胞上に交配後3.5日目の129/SvJ系雌マウスから採取した13個の胚盤胞を播き、20%牛胎児血清、0.1mMメルカプトエタールを含むES細胞用培地で培養した。フィーダー細胞上に移して4〜6日後に内部細胞塊が増殖した胚を拾い上げトリプシン-EDTA溶液により分散させ、新しいフィーダーウェルに移した。次いで様々な形態を示す細胞のコロニーの中からES細胞様のコロニーを選び出し、細胞塊を完全に分散させて新しいフィーダーウェルに移し、細胞の増殖にともなって段階的に大型のディッシュに移した。最終的に明瞭な核と少量の細胞質を持つ細胞が密集している島状のコロニーを形成している細胞株を2株分離し、ES細胞株とした。

 次いで、ES細胞株の分離効率を高めるために、3.5日胚盤胞を胚発生用培地内で一晩培養し孵化させた胚18個をフィーダー細胞上に移してES細胞の分離を試みた。その結果129/SvJでは、胚盤胞を直接播いた場合の2株(15.4%)に対し、孵化胚盤胞では9株(50%)の分離に成功し、明かに高いES細胞の分離率が得られた。また、C57BL/6Nの場合も同様に胚盤胞を直接播いたときの0%に対して孵化胚盤胞では35%と高い値が得られた。これらの結果から、本研究で新たに考案された方法は従来129/SvJを用いても10%前後であったES細胞の樹立の効率を高め、さらに他の系統からもES細胞の分離を可能にする方法になり得るものと考えられた。

 129/SvJより得た11株について染色体数と体外での分化能を検討した結果、75〜84%の細胞が正二倍体の染色体数を有し、未分化細胞のマーカーの1つであるLeXに対して陽性反応を示した。またそれぞれの株の細胞を浮遊培養に移すことによって胚様体の形成と自律的に収縮運動をする心筋様細胞を観察した。これらのことから本研究で得られたES細胞株は未分化細胞株としての特徴を備えているものと判断された。

 第2章では、分離されたES細胞のキメラ形成能および生殖細胞への分化能について検討した。129/SvJ由来の胚盤胞、孵化胚盤胞から分離した株それぞれ1株(A3-1,A4-2.2)を用い、単一に分散させたES細胞を体外受精または交配により得たC57BL/6N系統の拡張胚盤胞の胞胚腔内に注入し、偽妊娠雌マウスの子宮に移植した。A3-1株およびA4-2.2株注入胚の移植によて移植胚のそれぞれ34%および65%が出産され、離乳に至ったもののうちキメラ個体は、A3-1株で7匹(86%)、A4-2.2株が5匹(100%)と非常に高率にキメラ個体が得られた。これらの個体はA3-1株由来の1例を除きすべてが雄の表現型を示し、用いたES細胞が生殖細胞への分化能を有することが推定された。これらの雄のキメラ個体を検定交配したところA3-1株、およびA4-2.2株由来のキメラ個体のうちそれぞれ4匹および3匹がES細胞に由来する個体を出産させた。これにより今回樹立した細胞株のうち少なくとも2株は生殖細胞への分化能を有していることが示され、本研究における分離法が、多能性をもつES細胞の樹立法として実用に耐え得ることが証明された。

 第3章では、標的遺伝子組み換えによるアクロシン遺伝子不活性化ES細胞の作製とそれによるキメラ個体の作出について検討した。哺乳動物精子アクロソームに局在するアクロシンは、そのセリンプロテアーゼ活性で卵透明帯を限定分解し精子の透明帯通過を可能にする酵素であると考えられているが、いまだに確証は得られていない。そこで前章で樹立したES細胞が標的遺伝子組み換えに耐え得るかを確かめ、さらに受精におけるアクロシンの役割を明かにするために変異遺伝子導入ES細胞によるキメラ個体の作出を検討した。

 アクロシン遺伝子のセリンプロテアーゼの活性中心をコードするExon2の一部からExon3のすべてをネオマイシン耐性遺伝子で置き換え、さらに5’側に単純ヘルペスウィルスのチミジンキナーゼ遺伝子を連結したターゲティングベクターを作製した。このベクターをHind IIIで直鎖状にして、A3-1ES細胞にエレクトロポレーションで導入し、G418とガンシクロビル(GANC)または、G418のみを培地に添加して8〜9日間選択培養を行った。生存していたコロニーを拾い、PCR法とサザンハイブリダイゼーションで遺伝子の標的組み込みを調べた結果、G418+GANCの場合は407個のコロニーのうち24個において目的の部分に遺伝子が組み込まれており、G418のみでは333個のコロニーのうち3個に目的の遺伝子が組み込まれていた。これらのコロニーのうち、G418+GANCおよびG418それぞれから形態的に正常と思われる3株の細胞を用いてキメラの作製を行った。G418+GANC耐性株から得た細胞でキメラを作製した場合2株ではキメラ個体に奇形が出現し、また1株では、正常なキメラ個体が生まれたがES細胞の寄与率が低く、交配試験によりES細胞由来の産仔は得られなかった。G418のみによる選択の場合には、3株で11個体のキメラ個体が得られ、そのうち7匹が雄であった。これらの雄を検定交配することにより、1株(AC-17)のキメラ個体からES細胞の表現型を持つ産仔が得られた。これらのES細胞由来の個体の約半数は、変異アクロシン遺伝子をヘテロに持つ個体であった。

 次いで、変異アクロシン遺伝子をヘテロにもつ個体同士を交配することにより112匹の産仔を得た。その中にはホモ接合型個体が35匹存在し、形態的にも正常であった。これらの雄個体の精巣からmRNAを抽出しExon2とExon3をプローブにしてノーザンハイブリダイゼーションを行ったところ、アクロシンのmRNAは全く検出されず、アクロシン遺伝子の機能が欠損していることが解った。これらのホモ接合型雄個体は野性型、ヘテロ接合型、ホモ接合型のいずれの雌と交配した場合でも正常な受胎および出産が可能であり、この結果からアクロシンの欠損は体内受精を阻害しないことが証明された。さらに体外受精の手法を用いて、受精現象を解析したところホモ接合型個体の精子は、野性型およびヘテロ接合型個体の精子に比較して透明帯の通過に約30分の遅延がみられたものの、受精率には有意差はなく、本質的には受精能力に支障はないことが示された。さらに精巣上体精子から蛋白質を抽出し、アクロシンの人工基質を用いてその活性を調べたところ、ヘテロ接合型個体の精子では、野性型個体の約半分の活性を示し、ホモ接合型動物の精子では、全く活性を示さなかった。そこで、アクロシン以外に透明帯を溶解して精子の通過を可能にするプロテアーゼの存在を検討するために、0.1%ゼラチンを含ませた条件下で抽出蛋白質の電気泳動を行いゼラチンを溶解するプロテアーゼのを検出を試みたところ、野性型、ヘテロ接合型およびホモ接合型の精子でアクロシン特有の活性化処理を行わなくてもゼラチンを溶解する42kDaのプロテアーゼの存在を認めた。以上の結果からアクロシンは受精に必須の酵素ではなく、それ以外に受精に関与するプロテアーゼが存在することが明かとなった。

 以上本研究では、胚性幹細胞の樹立効率を高める方法を開発し、さらに標的遺伝子組み換えを行いアクロシン遺伝子に変異を導入したマウスの作製に成功し、そのマウスの解析から、アクロシンは受精に必須のものではなく、精子にはアクロシン以外のプロテアーゼが存在することを示した。この結果は、本研究で樹立した胚性幹細胞が標的遺伝子組み換えに耐える得ることを証明するとともに、受精の研究に新たな問題を提起し、今後の研究の進展に大きく貢献するものと考える。

審査要旨

 体外で多能性を維持したまま培養可能で初期胚に導入することによりキメラ個体を構築し,生殖細胞へも分化し得る胚性幹細胞(ES細胞)株がマウス初期胚から分離され,細胞分化の機構あるいは個体レベルでの遺伝子機能の解析のための素材として注目されている。本論文は,ES細胞の分離法が,経験的技術に依存している部分が多く,特殊な遺伝的背景を持つ少数の株に限られていることを考慮し,より効率的なES細胞の樹立法の開発を目指して行った研究をまとめたものである。論文は,5章から構成され,その内容は以下のように要約できる。

 第1章は序論で,研究の背景と意義を述べている。第2章では,マウス初期胚からES細胞を分離するための条件と分離したES細胞の分化能力を検討している。交配後3.5日目の129/SvJ系雌マウスから採取した胚盤胞を,胎齢14〜16日のマウス胎子から採取し,マイトマイシンC処理により分裂を抑制した繊維芽細胞(フィーダー細胞)上に撒き,20%牛胎児血清,0.1mMメルカプトエタールを含むES細胞用培地で培養することによって,明瞭な核と少量の細胞質を持つ細胞が密集している島状のコロニーを形成している細胞株を2株分離し、ES細胞株とした。次いで,3.5日胚盤胞をフィーダー細胞を含まない胚発生用培地内で一晩培養し,透明帯から脱出させて孵化胚盤胞とした後にフィーダー細胞上に移してES細胞の分離を試みた。その結果,胚盤胞を直接フィーダー細胞上に撒いた場合の2株(15.4%)に対し、孵化胚盤胞では9株(50%)の分離に成功し,明かに高いES細胞の分離率が得られた。さらに,従来は分離が困難であるとされていたC57BL/6N系マウス胚の場合でも,胚盤胞を直接撒いたときには分離できなかったが,孵化胚盤胞では35%の胚でES細胞様の株を得ている。これらの結果から,本研究で新たに考案した孵化胚盤胞を用いる方法は,従来法に比べてES細胞株の樹立の効率を高め,さらに他の系統からもES細胞の分離を可能にする方法になり得ると考察している。なお,高いES細胞の分離率が得られた理由としては,孵化胚盤胞の場合には,内部細胞塊の増殖が速く,一つの内部細胞塊から複数のES細胞様のコロニーが出現することを観察し,これが分離の確率を高める一因であると推測している。129/SvJより得た11株は,浮遊培養に移すことによって胚様体の形成と自律的に収縮運動をする心筋様細胞の出現を観察している。

 第3章では,分離されたES細胞のキメラ形成能および生殖細胞への分化能について検討している。129/SvJ由来の胚盤胞および孵化胚盤胞から分離した株のうち,それぞれ1株(A3-1,A4-2.2)を用い,単一に分散させた10-15個のES細胞を体外受精または交配により得たC57BL/6N系統の拡張胚盤胞の胞胚腔内に注入し,偽妊娠雌マウスの子宮に移植した。A3-1株およびA4-2.2株注入胚の移植によって出産され,離乳に至った産子のうちA3-1株で7匹(86%),A4-2.2株では5匹(100%)は毛色からキメラ個体と判定され,これらの個体はA3-1株由来の1例を除きすべてが雄の表現型を示したことから,ES細胞はいずれもXY型であると推定して,検定交配を行ったところ,A3-1およびA4-2.2株由来のそれぞれ4匹および3匹のキメラ個体の子孫にES細胞由来の個体が出現した。この結果より,樹立した2株は生殖細胞への分化能を有していることが証明されたと結論している。なお,いずれの細胞株もそのアルビノ遺伝子座はc/cのホモ接合型であることが明らかとなり,アルビノ型ES細胞株としてのキメラ個体作製上の利点も強調している。

 第4章では,標的遺伝子組み換えによるアクロシン遺伝子不活性化ES細胞の作製とそれによるキメラ個体の作出について検討している。哺乳動物精子アクロソームに局在するアクロシンは,そのセリンプロテアーゼ活性で透明帯を限定消化し精子侵入を可能にすると考えられているが,十分な確証はない。そこで本研究で樹立したES細胞が標的遺伝子組み換えに耐え得るかを碓かめ,さらに受精におけるアクロシンの役割を明かにするために変異遺伝子導入ES細胞によるキメラ個体の作出を試みた。まず,アクロシン遺伝子のセリンプロテアーゼの活性中心をコードするExon2の一部からExon3のすべてをネオマイシン耐性遺伝子で置き換え,さらに5’側に単純ヘルペスウィルスのチミジンキナーゼ遺伝子を連結したターゲティングベクターを作製した。このベクターを直鎖状にして,A3-1ES組胞にエレクトロポレーションで導入し,G418とガンシクロビルまたは,G418のみを添加した培地で選択培養を行った結果,G418のみで選択された1株(AC-17)の細胞由来のキメラ個体からES細胞の表現型を持つ産仔が得られ,これらの個体の約半数は変異アクロシン遺伝子をヘテロに持つことを確認した。次いで,それらの個体間の交配によりホモ接合型個体を出産させたところ,精巣にはアクロシンのmRNAは全く検出されず,アクロシン遺伝子の機能が欠損していると推定した。さらに精巣上体精子から蛋白質を抽出し,アクロシンの人工基質を用いてその活性を調べたところ,ヘテロ接合型個体の精子では野性型個体の約半分の活性を示したが,ホモ接合型動物の精子では全く活性を示さなかった。しかし,これらのホモ接合型雄個体を検定交配したところ,正常な受胎および出産が可能であることが判明し,さらに体外受精による受精過程の解析から,ホモ接合型個体の精子は,野性型およびヘテロ接合型個体の精子に比較して透明帯の通過に約30分の遅延がみられたものの,受精率には有意差はなく,本質的には受精能力に支障はないことが明らかになった。以上の結果から,著者は,アクロシンは受精に必須の酵素ではなく,精子の卵子への侵入には他の機構が存在するものと考察している。

 第5章では,以上の結果を総合考察し,本研究で樹立されたES細胞が実用に耐え得る細胞株であると結論している。

 以上要するに,本論文は.マウスにおいて胚性幹細胞の樹立効率を高める方法を開発し,さらに,樹立した胚性幹細胞を用いて標的遺伝子組み換えによりアクロシン遺伝子機能欠損マウスの作製に成功し,受精の機構に関して興味ある知見を得たものであり,学術上,応用上,貢献するところが少なくない。よって,審査員一同は,本論文が,博士(獣医学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。

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