審査要旨 | | 犬は,人類の歴史の中で最も古くから家畜化された動物であり,実験動物として数多く用いられているにもかかわらず,その特殊な生殖器の構造と独特な性周期の故に,排卵直後の受精卵の採取が難しく,初期発生に関する研究が十分に行われていない。本論文は,従来,極めて知見に乏しかった排卵の前後における卵子成熟の過程および卵子成熟と受精との関連を明らかにすることを目的として行われた研究をまとめたものである。論文は,7章で構成され,その要点は以下のように要約できる。 第1章は序論で,研究の背景および意義について述べている。そのなかで,特に,犬の卵子が未熟な第1次卵母細胞として排卵され,そのような卵子への精子侵入像が観察されているが,その後の発生過程が明らかにされていないこと,および,犬卵子の体外受精については,未熟卵子への精子侵入を観察した報告が一つあるのみであることを指摘している。 第2章では,雌犬に対する発情誘起および過排卵誘導法について検討している。犬の性周期は単発情型と呼ばれる特殊なものであり,繁殖季節の中で一回だけ複数の卵子を自然排卵した後は,交尾および受胎の有無にかかわらず黄体が活性化され,6ヵ月以上に及ぶ無発情期に入る。1〜7才のビーグル犬を用い,血中プロジェステロン濃度が10ng/ml以上の個体には,プロスタグランジン類縁化合物の投与によって血中プロジェステロン値を基底レベルに下げ,次いでエストロン(E1)を100mg×3日,200mg×3日,400mg×3日,の最高9日間,外陰部から出血が出現するまで連続筋肉内投与し,出血確認から3日後に妊馬血清性性腺刺激ホルモン(PMSG)400i.u.とヒト絨毛性性腺刺激ホルモン(hCG)200i.u.を混合皮下投与し,3日間隔をおいてエストラジオール(E2)を2日間筋肉内投与後,スメア像が明確な発情期を示した日にヒト絨毛性性腺刺激ホルモン(hCG)1000i.u.を静脈内投与し排卵を促す方法を開発した。ホルモン処置犬に対して最終hCG投与後48,72および96時間に開腹手術を施して,排卵の状況を観察した結果,発育卵胞は,自然発情時の卵胞数をはるかに上回る過排卵状態であり,排卵はhCG投与後72時間に開始し,96時間までに終了することを明らかにしている。 第3章では,卵子の体外成熟の誘導について検討している。最終hCG投与後72時間に過排卵処置個体を開腹し,排卵直前の成熟卵胞から卵子・卵丘複合体を回収し,まず全ての卵子が卵核胞を有する第1次卵母細胞であることを確認した後に,卵子の体外成熟を試みている。マウス体外受精用培地の組成を一部修正した培地を用い、37℃,5%CO2,95%空気の気相下で成熟培養後72時間に,約32%の卵子が成熟分裂第二分裂の中期に達することを見出している。一方,無発情期の無処置個体から採取した卵子では,培養72時間までに第二分裂中期に達していた卵子の割合は,約8%に止まり,その後144時間まで継続培養しても有意な増加は示さなかったことから,犬においても,他の哺乳類と同様に卵子成熟の誘導には性腺刺激ホルモンの作用が必要であると考察している。 第4章では,体外成熟卵の体外受精について検討している。まず,繁殖能力の明確な雄ビーグル犬から精液を用手法で採取し,精漿成分を除いた後,修正マウス体外受精用培地で精子の受精能獲得誘起を試み,最適前培養時間はおよそ4時間であると推定している。次いで,前培養精子を用いて,媒精後2時間以内に卵細胞質へ精子侵入が開始することを確認し,過排卵処置後の排卵直前卵胞から得た卵子と無処置個体の未成熟卵胞から得た卵子をそれぞれ72時間の成熟培養後,体外受精に供試した結果,精子侵入卵の割合は両群間に差は見られなかったが,精子侵入卵における雄性前核形成率は,前者の37%に対して後者は僅か2%に止まることを見出し,この違いは成熟培養終了時点において第二分裂中期に達していた卵子の割合とほぼ一致していることから,雄性前核形成を伴う正常な受精の進行には卵胞内での卵子成熟と排卵後の卵子成熟の両者が重要な要因であると考察している。 第5章では,体外受精卵の発生能を検討し,媒精後48時間に培養卵の15%が2細胞期胚に発生し,96時間には培養卵の32%が2細胞期を越え発生し,最も発生が進んだものでは8細胞期に達することを確かめている。 第6章では,以上の結果を総括し,本研究によって犬における卵子成熟および受精の過程を体外培養の条件下に制御することが可能になったものと結論している。第7章は全体の要約である。 以上要するに,本論文は,哺乳類の生殖生物学において不明確な部分の一つであった、犬の卵子成熟誘導と受精に関して興味ある新知見を与え,その実験的解析を可能にしたのもであり,学術上,応用上,貢献する所が少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。 |