学位論文要旨



No 212225
著者(漢字) 鈴木,真
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,マコト
標題(和) 高齢者の移動の工学的支援の研究
標題(洋)
報告番号 212225
報告番号 乙12225
学位授与日 1995.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12225号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土肥,健純
 東京大学 教授 松本,博志
 東京大学 教授 大園,成夫
 東京大学 教授 中島,尚正
 東京大学 教授 上野,照剛
内容要旨 研究の背景

 我が国の人口構成は、欧米諸国に比べ極めて急速に高齢化している。一方、人的労働力自体は相対的に大幅に減少しつつあり、従来のような、家族に頼った高齢者介護では2020年頃に危機的状況を迎えることが予想されている。こうした状況を受けて国民の意識も変化しており、将来の高齢層では「自らの老後は子供と同居せず自力で生活していきたい」という意識が強くなっている。

 ところで高齢者は老化に伴い心身の機能が低下し、日常生活において様々な不自由を抱えるようになる。そこで高齢者が自立して生活していくための様々なサポートが必要となる。特に日常生活活動における「移動」は入浴、排泄、食事等その他の活動の基本となる重要な活動であり、そのサポートは最重要課題である。この「移動」が自立して行えることで高齢者の生活の質(Quality of Life:QOL)は飛躍的に向上する。

 家族介護以外のサポートの方法として、労働力不足により派遣ヘルパー等の人的なサービスだけでは不十分と予想され、福祉用具や支援機器による工学的支援が重要視されている。このような、高齢者の身体機能の低下を補い、施設における介護作業を省力化するための工学的支援の意義は極めて大きい。

 これまで様々な支援機器が開発されてきたが、その多くは実用化・普及しなかった。その原因としては、市場や情報の流通に関する問題と、機器の設計自体に関する問題があった。後者については我々工学者が解決すべき問題であり、そのための設計条件と、これに基づいた実現すべき工学的支援の明確化による工学的支援手法の確立が必要である。

研究の目的

 以上より本研究は、1)高齢者の「移動」を対象とした工学的支援のための設計条件の提出、2)提出された設計条件に基づいた実現すべき工学的支援の設計試作を行い、実践された設計過程の考察から高齢者の「移動」を対象とした工学的支援手法について提言することを目的としている。

「移動」の工学的支援の設計条件

 支援機器に関わる立場は、直接のユーザである高齢者、その介護者、高齢者の状況に合わせて支援機器の適合を行う医療・福祉従事者、機器開発メーカの四者がある。それぞれの立場から「移動」支援機器に望む条件を挙げる。

 1)高齢者においては、「移動」能力はほぼ歩行能力と言ってよい。工学的支援としては様々な症病により低下した歩行能力を補う必要がある。但し人間の能力は全て「使わないと退化する」特性を持っている。従って残存した歩行能力を適度に発揮させつつ「移動」させるという、訓練的な要素を含んだ「移動」支援が必要である。

 2)介護者にとっては、介護作業の省力化、即ち肉体的負担の軽減と時間的効率の向上が最重要である。高齢者に対する場合とは異なり、肉体的負担は少ないほど良い。時間的効率は、高齢者に直接に接している時間のみならず事前のセッティングや後始末を含めて考える必要がある。従って介護者からは、全く力を使わずに、短時間の操作で移動できることが求められていると言える。

 3)医療・福祉従事者は、個々の高齢者の心身や住環境の状況に応じ支援機器を有効に利用出来るように適合させる。その際はまず市販機器の利用を検討する。これは新たに製作する場合と比べ費用や納期の点で優れているからである。従って医療・福祉従事者からの要望としては、高齢者の状況にあった支援機器が、すぐに安く手に入ることである。

 4)メーカとしては利益が上がらなければならず、そのためにはなるべく大量生産しやすいものが望まれている。

 これらをまとめて考察すると、3)の「個別対応」と4)の「大量生産」の両立が支援機器の効果的な供給のための課題となっている。個別対応は多品種少量生産に短絡して考えられがちであるが、ある支援機器の持つ「対応能力」を十分に広くすることでこの課題は解決可能である。この対応能力は、老化に伴う高齢者の状態変化にも対応できるため極めて重要である。

 従って、支援機器の重要な設計条件は、高齢者の心身や住環境の状態に幅広く対応し、高齢者の残存能力に応じた補助、介護作業省力化が可能であることと考えられる。更にこの他に、安全牲や信頼性の確保、食事等の他の動作に支障を生じないといった整合性が設計条件として挙げられる。

実現すべき工学的支援の設計

 まず高齢者の「移動」能力補助について詳しく分析を行う。生体において「移動」能力を構成するのは、体重を支える筋骨格系、これを制御する神経系と、歩行の意欲を生じる心理面である。これらはそれぞれ骨折、筋ジストロフィー、痴呆等によって問題を生じ、その結果は「移動」能低下として坐位の保持、立位の保持、二足歩行の実行という各段階が損なわれる形で現れる。これらについては、高齢者本人の能力だけでなく、段差の有無など住環境が要求する「移動」能力レベルにより、その実行可能性が変わってくる。そこで高齢者の持つ「移動」能力と、環境の要求する「移動」能力の2つのパラメータを基に二次元平面として捉え(図1)、「移動」能力補助のあり方を考察した。

 前述したように、住環境の要求する能力レベルを低くするだけでは往々にして高齢者の「移動」能力低下を招き、結果としてQOLが向上しない。従って高齢者のQOL向上は、「移動」能力維持向上も含めて、図1における右上方向の状況変化として捉えられる。

 また大きな場面設定として「在宅自立」と「施設介護」の2つを考える。中軽度の心身機能低下の段階では、高齢者は「在宅自立」としてあまり人手を借りずに自宅で生活していく。機能低下が重度となり在宅自立の維持が困難となった場合には、設備と人手の備わった「施設介護」に移行する。

 図1の考え方に基づいて、高齢者の「移動」に関する状況を1)二足歩行やや困難、2)二足歩行困難、3)立位困難、4)坐位困難の4つに分け、高齢者の心身や住環境の状態への幅広い対応という設計条件に基づいて、各々に必要な支援機器を考える。

 1)二足歩行やや困難:場面としては在宅自立になる。高齢者の「移動」能力はあまり損なわれていないことから、「移動」時のバランスをとるための簡便な支援手段として杖などの使用が適している。これは高齢者の状況への対応も容易である。

図1.高齢者の「移動」能力補助のあり方

 2)二足歩行困難:在宅自立が主たる場面である。「移動」能力としては立位維持が限界であり二足歩行を行う余裕がない状態と考えられ、しっかりと体重を支えつつ二足歩行を行える支援機器が必要である。従来機器としては歩行器や歩行車が挙げられるが、これらは床面を利用するため通路の段差や幅員などの状況に幅広く対応できない。そこで天井走行により「移動」中の高齢者の体重をしっかりと支える支援機器として「天井走行式移動支援アーム」(図2)を提案する。

図2.天井走行式移動支援アーム

 3)立位困難:大まかに立位困難の程度の軽重で在宅自立と施設介護に分けられる。前者においては2)より一層しっかりと姿勢を支持する必要がある。ここでも「天井走行式移動支援アーム」が有効である。一方、施設介護においては状態が重度であることから姿勢支持では支援不可能である。そのため立位をとらなくてよい車いすが適している。しかし高齢者には手動車いすやジョイスティックによる電動車いすの操作が困難である場合が多い。そこで目的地を指示するだけの簡単な操作により電動車いすを自動走行させることで介護省力化を実現する。自動走行方式としては、施設内の部屋の配置状況などに柔軟に対応させるために、天井に設置した離散的な誘導マークを順次追跡する方法が適していると考える(図3)。

図3.電動車いす自動走行システム

 4)坐位困難:場面としては施設介護になり、坐位姿勢の保持すら困難な状態である。この場合の「移動」の工学的支援としては、坐位支持のために座面形状を高齢者の身体に合わせた車いすが適していると考える。3)と同様に簡単なスイッチで操作できる「電動車いす自動走行システム」が必要である。

 以上に提案された「天井走行式移動支援アーム」と「電動車いす自動走行システム」について、操作性と安全性の実現を念頭において試作した。「天井走行式移動支援アーム」では体重支持アームの上下動をボールねじによる機構で実現し、天井走行は高齢者の歩行意図を検出して行うものとした。

 「電動車いす自動走行システム」では、赤外光マークを用い、周囲の歩行者を超音波センサにより検出し一時停止するシステムを試作した。

まとめ

 本研究では高齢者の在宅自立生活と施設介護について、日常生活活動の中の最優先課題である「移動」に対する工学的支援手法の提言として以下を得た。

 1)利用者、医療・福祉従事者、メーカの要望を基に、効果的な実用化・普及のための重要な設計条件を、高齢者の心身や住環境の状態に幅広く対応し、高齢者の残存能力に応じた補助、介護作業省力化が可能であることとした。

 2)高齢者の持つ「移動」能力と住環境の要求する「移動」能力の2つのパラメータにより実現すべき工学的支援の分析を行い、「天井走行式移動支援アーム」と「電動車いす自動走行システム」の2つを提案し設計試作を行った。

 3)設計過程件の考察から工学的支援のための設計条件の実現手法として、

 ・概念設計段階では、在宅自立における高齢者の心身と住環境の状態への幅広い対応と、施設介護における介護作業省力化を重視

 ・詳細設計段階では安全性、信頼性の確保が課題

 ・試作評価段階では、安全性と他の動作との整合性について検討

 が明確化された。

審査要旨

 この論文は高齢者に対して日常生活における「移動」を支援する工学的手段の実現に関して、設計条件の検討と実現すべき工学的支援の概念設計を行い、試作評価の考察から設計条件の実現手法について体系化したものである。本論文を各章ごとに要約する。

 第1章においては研究の背景、意義を述べている。初めに我が国の高齢化により、高齢者の日常生活のサポートとして、入浴等の基本となる「移動」が大きな課題であると指摘している。介護労働力の不足から支援機器による工学的な支援が重要であるが、これまで支援機器が普及しなかった原因として機器設計自体に問題が存在し、これを解決するための設計条件と実現すべき工学的支援の明確化による工学的支援手法の確立の必要を述べている。

 第2章では研究の目的を、1)高齢者の「移動」を対象とした工学的支援の設計条件の抽出、2)実現すべき工学的支援の設計過程の考察による工学的支援手法の体系化と定めている。

 第3章においては「移動」の工学的支援の設計条件を検討している。支援機器に関わる立場として、高齢者、介護者、医療・福祉従事者、メーカが支援機器に望む条件を検討し、安全性や信頼性の確保、食事等の他の日常生活活動との整合性などの設計条件について述べている。更に高齢者の心身や住環境の状態への幅広い対応、高齢者の残存能力に応じた補助、及び介護作業省力化を、支援機器の効果的な供給に重要な設計条件として指摘している。

 第4章では実現すべき工学的支援の概念設計として、高齢者の持つ「移動」能力と、環境の要求する「移動」能力を基に「移動」の工学的支援を捉え、QOL(生活の質)向上のためには環境の要求緩和だけでなく高齢者の持つ「移動」能力の維持向上の必要を明らかにしている。

 次に歩行能力を分類し住環境状況との関連による高齢者の「移動」に関する状況を分析した結果、実現すべき工学的支援の代表例として、在宅自立においては「天井走行式移動支援アーム」、施設介護においては「電動車いす自動走行システム」について述べ、その概念設計を行っている。

 第5章では、前章に基づき「天井走行式移動支援アーム」と「電動車いす自動走行システム」の詳細設計と試作評価について述べている。「天井走行式移動支援アーム」では、剛性を持った機構により体重の一部を支え、脚にかかる負荷を軽減し、更に高齢者の歩行意図を検出して天井走行を行うことで、高齢者の自立移動を支援している。「電動車いす自動走行システム」では、赤外光マークによる走行誘導を採用し、周囲の歩行者を超音波センサにより検出し一時停止するシステムを試作している。

 第6章においては考察を述べている。第3章で挙げた設計条件に基づき、試作された機器に通常認められる問題点として「天井走行式移動支援アーム」の機能の複雑さによる信頼性低下、「電動車いす自動走行システム」の障害物の誤検出による安全性実現の困難を指摘している。更にこれらの問題点と設計条件との重要な関係として、性能高度化と信頼性の相反、安全性の実現と環境への適合の密接な関連等を挙げている。

 次に、以上の考察に基づぐ設計開発過程の各段階における設計条件の重要性を検討している。まず概念設計段階では高齢者の身体状況と支援機器の利用環境への対応について重点的に考慮したことを指摘している。次に詳細設計段階では主として操作性、安全性、信頼性の実現を考慮していたこと、特に安全性については利用状況を正しく把握する必要があると述べている。試作評価段階において実機の試用による評価を行う際には、安全性の実現、及び日常生活活動との整合性に関して重点をおく必要があることを明らかにしている。

 最後に高齢者の日常生活に対する工学的支援の今後の展望として、仮想現実感やマルチメディア技術の応用と、独居高齢者のためのコミュニケーションなどによる精神面からの工学的支援が今後一層重要となると指摘している。

 第7章は本論文の結論を述べている。高齢者の在宅自立生活と施設介護について、日常生活活動の中の最優先課題である「移動」に対する工学的支援手法の体系化について、1)効果的な実用化・普及のために、高齢者の心身や住環境の状態への幅広い対応が重要な設計条件であること、2)高齢者の持つ「移動」能力と住環境の要求する「移動」能力の分析に基づいて「天井走行式移動支援アーム」と「電動車いす自動走行システム」を実現すべきであること、3)設計試作過程の考察から工学的支援のための設計条件の実現手法の体系化、を述べている。

 以上のように、本論文では高齢者に対する工学的支援に関し、日常生活において重要な「移動」について分析を行い工学的支援手法の体系化を行ったものである。この成果は今後益々重要になる高齢者の生活支援機器の実用化に貢献するものと考えられる。よって本論文は搏士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク