中世日本史の研究はこれまで文献史料を中心にしてなされてきたが、本論文は文献史料以外の絵画や木札・石造物を利用していかに歴史研究を行うべきかを探ったものである。 全体は「中世史料論の模索」と題する序論に続いて、四部から構成されており、第一部では「『洛中洛外図』を読む」と題して絵画関係の三つの論文を収録する。第二部では「木札の用例と分類」と題して、木札を扱った三つの論文を収めている。第三部では「石造遺物と金石文」と題して三つの論文を収録している。そして最後の四部は「絵図・地図と現地調査」と題して、絵図や地図の活用法について考える四つの論文を収録している。 本書を貫く関心は野や建物の片隅に埋もれ、光りのあたらなかった文献以外の史料をいかに歴史研究にとりこんでゆくのか、そしてその調査はいかにあるべきか、という点にある。歴史研究において文献以外を利用することは最近では増えてきたが、まだ緒についたばかりであるだけに、今、最も求められている研究といえる。 次に本論文の概略を紹介すると、最初の序論は、文献史料以外の史料の特質、「もの」史料が語る歴史の豊かさを説く。 第一部の「『洛中洛外図』を読む」は、中世末に盛んに作成されるようになった『洛中洛外図』を取り扱って、そこからいかに歴史を読み取るかを考える。1「『洛中洛外図』のおもしろさ」は、図に描かれている人と建物に注目して、町田本と上杉本を比較し、上杉本が公家よりも武家に、神社よりも寺院に、農民よりも町民に比重をおいて描いており、戦国時代の京都という都市を正確に描いていることを指摘し、史料としての有効性を明らかにする。 2「『洛中洛外図』の成立と描写の意図」は『洛中洛外図」成立の前提となる絵画を検討して、それが水墨画や風景画の延長上にあることを推測し、さらにトータルな都市図を表現しようという側面があったことを明らかにしている。3「「殿」と「様」」は上杉本に書き込まれている「殿」と「様」という表現を手掛かりにして、それが戦国時代の武家の用語に一致することから、戦国大名からの依頼により書かれたものであるとの指摘を確認する。 こうして『洛中洛外図』に描かれた「もの」と、書き込まれた「ことば」とに注目して、その相互関係から図のトータルな意識と背後関係を明らかにしたのが第一部の大きな成果である。 第二部の「木札の用例と分類」は様々な木札の史料論を展開する。1「木に墨書すること」は中世社会に見られる木札を収集・分類して、木札の特徴を指摘した基本的な作業である。古代史研究に遅れをとっていた中世木簡学研究の今後の進展の礎となるものである。2「札を打つ」は掲示された札にはどのような意味と用途があったのかを播磨国の荘園と奈良での事例を通じて探り、紙の文書とは違った機能を有していたことを指摘する。3「若狭小浜の寄進札」は若狭小浜の諸寺院で顕著に見られる寄進関係の木札を具体的に分析して、紙の寄進状との違いを一回限りの寄進という点に認めて、そこに民衆の信仰の在り方を指摘する。 このような木札の分類と整理、分析法はこれまでの中世史研究ではあまり手がついていなかった分野であり、そこに鍬を入れ、分析の指針を示したことは、本論文が学界に寄与した最も大きな点であろう。 第三部の「石造遺物と金石文」は、多様な石造遺物の調査と分類・整理・分析に関するものである。1「一乗谷の石塔・石仏」は、越前国の朝倉氏が本拠地としていた一乗谷に遺されている石塔や石仏の調査の報告であり、これらの造立に朝倉氏の領国支配が深く関わっており、その宗教政策にともなうものであることを指摘する。一乗谷を長年にわたって調査してきた著者の非文献史料学の出発点になったものである。2「備後国の太田荘の石造物と現地調査」は備後国の荘園に広く分布している石造物を調査してその立地条件を探り、中世農民の存在形態に迫ったものである。3「金石文の史料的価値と調査法」は上野国の新田荘を事例に、金石文の史料批判を試みつつ、荘園研究上でのその調査の意義を説いている。 石造遺物の研究はこれまでにも深められてきていた分野であるが、その調査のレベルから、大名支配や荘園研究にいかに史料として役立つものかを具体的に示した点で注目される。 第四部の「絵図・地図と現地調査」は、これまでに見てきた史料以外の非文献史料を扱って、その分析法を考える。1「村や町を囲うこと」は中世の在地領主の館を扱って、その館と村との関係を探り、村から町への展開の方向を見通す。2「荘園絵図を読む」は中世村落を描いた荘園絵図から、そこに描かれた「もの」を分類・整理して、絵図の特質を明らかにするとともに、中世村落がどう描かれているかを探っている。3「歴史的景観の復原」は広く行われている歴史的景観の復原の方法と問題点を指摘したもの。4「もうこの瀬」は、「もう一つ、この瀬を渡ったならば世俗の権力の追及から逃れることができる」というアジールに関しての伝承を探って、伝承が歴史研究にどう扱われるべきかを探っている。 これらの論考はこれまで正面から分析されることのなかった史料に光をあてたことや、その分析方法や史料が内蔵する問題点を明らかにしたことで重要な成果をあげたものである。 こうして本論文は広く非文献史料を取り扱って、その調査・分類・整理がいかになされるべきかを示したこと、さらにその調査された史料をいかに歴史研究において役立てるべきかを具体的に提示したことなどにおいて、大きな成果を残した。著者がこれまで広く現地調査や史料展示に関わってきたことがこうした業績を成し得たものといえよう。本論文を得て、中世史研究は非文献史料を積極的に扱う基礎が与えられたのである。 しかし問題がないわけではない。多くの論文が具体的な調査研究から出発しているために、個々の論点は深められているが、体系的にそれらを深める作業がやや不足していること、文献史料への積極的な言及が少ないので、二つの史料の相互関係を通じて提示される歴史像が明確でないことなどの問題点は残されている。しかしそれらは今後の研究で補われるものであろう。 かくして本論文は、中世史研究に不可欠な非文献史料についての今後の研究の基礎を築き、新たな非文献史料学への重要な一石を投じた点において、博士(文学)論文として妥当であると判断するものである。 |