ブナアオシャチホコQuadricalcarifera punctatella(Motschulsky)は鱗翅目シャチホコガ科に属する中型のガで、ブナ・イヌブナの食葉性昆虫である。本種はブナ林でしばしば大発生してブナの葉を食い尽くす。とくに東北地方や北海道南部では広域にわたる本種の大発生が観察されている。本種の食害だけでブナが枯れることはほとんどないが、大発生のあとに気象害などが加わると大面積のブナが集団で枯死することもある。大発生が広域にわたることのほか、天然林で大発生することは、森林昆虫学の観点から、また生態学的にもきわめて興味深いものであるにもかかわらず、大発生時の生態的観察以外は、本種の個体群動態に関する研究はほとんどなされてなかった。 本論文では、ブナアオシャチホコの大発生の周期性・同調性を統計的に検討した。飼育実験からブナアオシャチホコの個体生態を調べ、密度の調査方法を確立した。大発生する場所としない場所で最長10年間にわたり個体群動態を調査した。生物的要因や非生物的環境要因と個体群動態との関係を調査して、本種の個体群動態や大発生の特徴が、いかなる機構で作り出されているのかを検討した。その結果は以下の通りである。 本種の成虫の体サイズと蔵卵数との間には、高い正の相関関係がみられ、体重の増加にともなって蔵卵数も大きく増加した。成虫の体サイズは摂食を停止した老熟時の体重によってほぼ決定されるため、幼虫時の発育条件が成虫の蔵卵数を決定する重要な要因である。産卵にともなって成虫の体重は急激に減少するため、野外個体群の体サイズの評価には、羽化後も変化しない前翅面積を使うのが適当である。ブナアオシャチホコの排糞数の約9割は、終齢幼虫期間に生産された。終齢幼虫の単位時間あたりの排糞数は、温度や日齢によって大きく変動したが、終齢幼虫期間中の総排糞数は温度などの影響を受けにくく変動が小さかった。野外の落下糞データから、ブナアオシャチホコの密度を推定するためには、終齢期間中の総排糞数を使うのが適当と判断された。そこで、野外で連続的に設置した糞トラップに落下した糞数から、ブナアオシャチホコ終齢幼虫の密度を推定する方法を確立し、密度を推定した。 成虫個体数は誘蛾燈による捕獲をもとに推定した。誘蛾燈で捕獲される成虫数は、毎年6月中・下旬にピークがみられた。しかし、日によって捕獲数の変動が大きかったため、成虫個体数の年次変動を調べるためには、6月11〜30日までの合計捕獲数を使った。 1910年代以降の本種の大発生の記録を、日本全国の資料について統計的に解析した結果、大発生には周期8〜11年の周期性と広域的な同調性が認められた。野外個体群の密度変動は数年間の増加期をもつ漸進大発生型を示し、終齢幼虫密度で10,000倍(10-2〜102頭/m2)の変動が認められた。ひとつの地域に限れば大発生は必ずしも一定の間隔で起こっているわけではないが、幼虫の密度変動は大発生する地域もしない地域も同調していた。大発生しない地域でも、大発生する地域と同調して密度が増加し、大発生の密度レベルに達する前に密度が減少した。この結果から、すべての地域で密度変動の周期は8〜11年であるものと考えられた。 気候要因と本種の大発生との関係をモラン効果理論と気候解除理論の2つの観点から調べた結果、6月の気温のモラン効果と、大発生の前数年間の7月の降水量が少ない傾向(気候解除理論)が認められた。6月の気温は2年の時間のずれをもってブナアオシャチホコの密度変動に影響を及ぼしていることが明らかにされたが、そのメカニズムは不明である。これらの気象要素の年次変動には、広域的な同調性が認められたため、大発生の広域的な同調性も、気候変動の同調性によって作り出されているものと考えられた。 降雨は幼虫の摂食行動を阻害する。若齢幼虫に対しては直接的な死亡を引き起こし、終齢幼虫に対しては摂食量の減少による体サイズの小型化を引き起こした。また、軽度の水分ストレスを受けたブナは、窒素含有率が高くなり、それを食べたブナアオシャチホコは体サイズが大きく生存率も高かった。このように、幼虫生育期の降雨は、直接的、間接的に、ブナアオシャチホコの生存率や体サイズに関係していた。 成虫の体サイズは密度変動にともなって変動していた。大発生後には平均で3割もの蔵卵数の減少が引き起こされ、数年かかってゆっくりと回復した。体サイズの小型化が蔵卵数の減少を引き起こし、大発生後に個体群を低密度に維持する要因のひとつと考えられた。ブナアオシャチホコの食害を模してブナの葉を人工的に摘葉したところ、摘葉の翌年には窒素含有量の低下とタンニン量の増加をともなう時間遅れの誘導防御反応が認められた。これらのブナの葉を食べたブナアオシャチホコの幼虫は、死亡率が高く、体サイズが小さくなった。2年連続で摘葉すると1年のみの摘葉よりも、大きな誘導防御反応が起こった。大発生の3年後のブナを調べると、タンニン量は多く、若齢幼虫期の高い死亡率を引き起こした。大発生世代の体サイズの小型化は量的な餌不足がもっとも重要な要因と考えられたが、大発生の終息後に餌量が十分にあるのにもかかわらずすぐに体サイズが元に戻らないのは、ブナの誘導防御反応と、ブナアオシャチホコ個体群自体の遺伝的な要因の二つが組み合わさった結果と考えられた。摘葉実験の翌年には、葉の量的な減少も認められた。すなわち、摘葉を受けた翌年には葉のサイズが小型化し、木あたりの葉の総重量は約半分に減少した。本種は漸進的に密度が増加するため、たとえば、1990年の大発生の前年には約2割のブナは完全に葉を食いつくされた。したがって、前年の失葉は、大発生世代の葉の総量を減少させ、大発生世代の密度レベルを引き下げる負のフィードバックとして働いているものと考えられた。 本種の天敵としては、クロカタビロオサムシCalosoma maximowiczi、鳥類、カイコノクロウジバエPales pavidaとブランコヤドリバエEutachina japonicaの2種の寄生バエ、幼虫寄生蜂Eulophs larvarum、サナギタケCordycepsmilitalis、コナサナギタケPaecilomyces farinosus、赤彊病P.fumosoroseus、黒彊病Metarhizium anisopliae、白彊病Bauveria bassianaの5種の天敵微生物が確認された。このうち、クロカタビロオサムシは、時間的・空間的なブナアオシャチホコ終齢幼虫の密度増加にすばやく反応して増加した。したがって、ブナアオシャチホコが大発生した際に密度を引き下げる要因のひとつと考えられた。しかし、ブナアオシャチホコの密度が低下すると、ほとんど捕獲されなくなるため、ブナアオシャチホコの8〜11年周期の密度変動そのものを引き起こしている可能性は低い。鳥類はブナアオシャチホコの密度が増加すると、餌に占めるブナアオシャチホコ幼虫の割合が増加する機能の反応が認められた。しかし、数の反応がほとんど認められないため、大発生時には逆に捕食率が低下していた。5種の天敵微生物と2種の寄生バエは、すべて密度依存的な死亡要因として、ピーク時からの密度減少に関係していた。しかし、大発生終息後も数世代にわたって有効にはたらいていたのは、サナギタケとコナサナギタケだけであった。 これらの結果から、周期的な密度変動を引き起こす可能性のある「時間遅れをもつ密度依存的要因」は、サナギタケとコナサナギタケの天敵微生物とブナの誘導防御反応である。しかし、大発生しない場合には、密度変動を引き起こすほどの誘導防御反応は起こっていなかったため、2種の天敵微生物が周期変動を引き起こすもっとも可能性が高い要因と考えられた。 本種の大発生はブナが垂直分布する中で、標高差200mの帯状に発生する。また、地域的にみても大発生する場所は限られている。大発生の起こる場所は、多樹種との混交度が低く、葉の窒素含有率型が高いことと関係がみられた。前者は、生息する生物群集の組成が単純になることと関係しているものと考えられた。このような場所では、密度増加期の増加率が高く、寄生者が有効に働くようになる前に大発生の密度レベルに達してしまう。逆に、密度増加率が低く増加に多くの世代を費やすと、寄生者が低い密度でも有効に働くようになり、大発生のレベルに達する前に、密度は減少に転じる。 以上のように、ブナ林のブナアオシャチホコに対する環境収容力は、森林の組成とブナの葉の栄養条件、それに関係するブナアオシャチホコ自身の密度増加速度と、寄生菌の密度依存性の働き方によって決定されているものと考えられた。 |