学位論文要旨



No 212261
著者(漢字) 宇塚,雄次
著者(英字)
著者(カナ) ウヅカ,ユウジ
標題(和) イヌにおける聴性脳幹反応の臨床応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 212261
報告番号 乙12261
学位授与日 1995.04.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12261号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 後藤,直彰
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 局,博一
内容要旨

 獣医学領域においては、脳の機能を非侵襲的に調べる方法としてこれまで脳波検査が一般に用いられてきた。しかし、一般に普及している脳波検査は主として大脳皮質の電気的活動を捕えているにすぎないので、より多くの情報を得るために近年、大脳誘発電位の記録が利用されるようになった。この手法はこれまで感覚生理学の発展に貢献してきたが、Dawsonが平均加算法を開発したことにより臨床応用への道が開けた。とくに、近年のコンピューターの著しい進歩にともない、短い潜時の遠隔電場電位の記録が可能になり、中脳や橋のような脳深部の機能を評価することができるようになった。

 大脳誘発電位は刺激の種類により、視覚誘発電位、聴覚誘発電位、および体性感覚誘発電位などに分類されているが、とくに音による聴覚刺激で誘発される聴覚誘発電位のなかでは、短い潜時のものを発生源が脳幹と推測されていることから脳幹聴覚誘発電位(Brainstem Auditory Evoked Potentials:BAEPs)と呼称し、他の聴覚誘発電位と区別している。また我が国ではこれをとくに聴性脳幹反応(Auditory Brainstem Response.以下ABR)と呼んでいる。

 イヌのABRに関する研究は1980年代中期より散見されるようになったが、基礎的研究が多いわりには波形の命名法ひとつをとりあげてもまだ統一されておらず、まして臨床応用に関する研究報告はほとんどみあたらない。

 そこで、本研究ではまず脳幹部破壊実験によるABR波形の基礎的検討およびABR波形に影響をおよぼす各種要因に関する基礎的検討を行い、つぎに、それらの成績をふまえて、実験的聴覚障害犬における聴覚機能の評価、さらには聴覚機能障害ならびに中枢神経系疾患の症例に応用することにより、獣医臨床における本検査法の有用性を実証することを研究目的とした。

1.イヌの聴性脳幹反応(ABR)の波形に関する基礎的検討

 イヌのABR波形成分に対する命名については、これまでヒトや他の動物におけるような統一された見解がなく、報告者により異なる場合が多い。これはもっぱら記録されたABR波形のかたちのみに頼って命名がなされており、脳幹破壊実験などの基礎的検討が十分行われていないことによるものと考えられた。

 そこでまず、脳幹の下丘および外側毛帯を破壊するという実験を6頭のイヌを用いて行い、脳幹におけるABR発生源とABR波形成分との関係について詳細に検討した。その結果、イヌの場合もモルモットと同様、下丘を除去することによるABR波形のV波におよぼす影響が軽度であったことから、V波の成因に下丘はあまり強く関与していないが、一方では外側毛帯から下丘への入力経路が陰性IV波の形成に強く関わっていることが明らかとなった。

 以上の実験成績と先人の報告を考えあわせて、イヌのABR波形成分の呼称について考察した結果、初めから四つの大きな波を順次、I、II、III、IV波と呼び、次いで長い下降脚の後に続く陰性波を陰性IV波、さらにその後に続く小さな陽性波をV波と命名すれば、他の動物との比較も可能となり、これまで集積されてきた知見が適用できるものと推察された。

2.イヌの聴性脳幹反応(ABR)記録に影響をおよぼす各種要因に関する基礎的検討

 ABR波形を臨床診断に応用する場合には各波形成分の出現応答やそれらの潜時が問題にされる。そこで、ここではイヌのABR記録に大きな影響をおよぼすと考えられる刺激音、麻酔、および被検動物の体温をとりあげ、基礎的検討を行った。

 ABRの記録にあたって一般にはクリック音刺激がよく用いられているが、本研究では音刺激条件としてトーンバースト音刺激を採用し、これによるABR波形の変化を15頭のイヌを用いて詳細に検討した。その結果、トーンバースト音刺激によっても1kHz音を除けば潜時に若干の相違はみられるものの、基本的にはクリック音刺激の場合と同様に5〜7個の陽性波からなる典型的なABR波形が記録された。しかし、1kHz音刺激の場合では周波数追随反応と思われる波形が顕著に現れた。刺激音に対するABR閾値は4kHz音が最も低かったが、1例だけ8kHz音に対する閾値が4kHz音に対するそれより低いという例外が認められた。また、4kHzより低周波数の音では閾値が上昇する傾向にあった。一方、4頭のイヌを用いて行った刺激強度とABR波形の関係をみた実験では、音圧を変化させていくと、刺激強度の減弱にともない各波形成分のピーク潜時は延長するが、ピーク間潜時には顕著な変化がみとめられなかった。このことは刺激強度の変化は蝸牛における刺激音による活性化部位に差を生じさせるために、I波の発生が遅延しピーク潜時の延長をもたらすものと考えられた。

 ABR記録にあたっては麻酔が前提となるが、今回用いた麻酔条件、すなわちキシラジン2mg/kg皮下投与およびペントバルビタールナトリウム10mg/kg静脈内注射による麻酔後のABR波形の推移を4頭のイヌを利用して調べたところ、波形の振幅はともかくとして、各波形成分の出現、各波のピーク潜時にはほとんど影響がみとめられなかった。しかしながら、4頭のイヌを用いて調べた体温と波形のピーク潜時の関係から、被検動物の体温の低下はABR波形の潜時を著明に延長させることがわかった。

 以上のことから、イヌのABR記録にあったては、トーンバースト音を刺激音として用いる場合、ピーク潜時に配慮した音圧を設定し、刺激音の周波数は4kHzまたは8kHzにすることが適当と考えられた。また、麻酔の深度には配慮することはないが、被検動物の体温変化には十分注意する必要のあることが明らかとなった。

3.実験的聴覚障害犬の作出ならびに聴性脳幹反応(ABR)による聴覚機能評価

 ABRは聴覚機能を評価する手法として客観的なデータを提供することができることから、獣医臨床にわける聴覚機能検査ばかりでなく、医薬品の安全性試験における聴覚障害の検出にも役立つものと考えられる。そこで、ここでは、聴覚障害の副作用を有する抗生物質を、実際にイヌに投与することにより実験的聴覚障害を作出し、ABR検査による聴覚障害の評価が可能かどうかを検討した。

 供試薬剤としては硫酸カナマイシンを用い、100mg/kg静脈内注射の単回投与により急性聴覚障害を、また、100mg/kg筋肉内注射の9週間にわたる反復投与により慢性聴覚障害を作出することができた。すなわち、硫酸カナマイシンの単回投与でもABR波形に変化が現れた。しかし、この変化は一時的なもので24時間後にはおおむね元の波形にまで回復した。

 一方、9週間の反復投与では、ABR波形の変化はいうまでもなく、ABRの閾値の変化を追跡することにより聴覚障害を評価することができた。すなわち、硫酸カナマイシンのようなアミノ配糖体に属する抗生物質は蝸牛有毛細胞を基底部(中耳側)から損傷させることが知られており、そのため聴覚障害は高音域から始まる。トーンバースト音を用いた本実験においても閾値の変化は低音刺激に比べて高音刺激の場合に、より早く検出できた。トーンバースト音刺激よるABR閾値はHeffnerが調べたイヌの自覚聴覚閾値とも密接な相関を有していることから、このABR閾値をイヌの聴覚機能の指標とすることは聴覚機能障害の評価に対して周波数に関する情報をも与えることを示唆している。

 以上の結果から、イヌにおける聴覚機能の評価にあたってはトーンバースト音刺激によるABRを記録し、とくに閾値を指標とした解析を行うことが有効であると考えられた。

4.聴覚機能障害ならびに中枢神経系障害の症例に対する聴性脳幹反応(ABR)の臨床応用

 ABRは聴覚機能検査法として有用であるばかりでなく、中枢神経系の機能検査法のひとつとしても期待されている。その有用性は医学領域においても脳死判定の一指標として不可欠な項目になっていることからも伺われる。そこで、ここでは獣医学領域におけるABRの臨床応用の可能性を探るために、自然発症例の聴覚機能欠損犬および中枢神経系に障害を有するイヌを対象にABR検査を実施し、同時に行ったX線検査やMRI検査所見、病理解剖所見とあわせて検討を行った。

 まず第一に、先天性および後天性の聾犬の症例では、聴覚機能が欠如または重度の障害をうけているためにABR波形がまったくかたちとして記録されないことが客観的に実証された。また、ABR検査によれば一側性の聴覚障害をも判別できることが報告されており、X線検査やMRI検査のような画像診断では評価できない機能的異常を客観的に診断でとるものと考えられた。

 一方、中枢神経系に疾患を有する症例においても、ABR検査所見とX線、MRI検査所見ならびに病理解剖所見との間に密接な関係のあることがかなりの程度実証された。しかし、重症度が進行した症例ではABR波形成分の識別が難しく、このような症例に対する応用は今後の課題として残された。また、MRI検査所見とABR検査所見の突き合わせからABR波形成分の発生源を推測できる症例があり、イヌにおけるABRの発生経路が少なくともII波までは他の動物と同じであることが推察された。

 以上の結果を総合すると、イヌにおいてもクリック音ならびにトーンバースト音刺激によるABR検査法はX線あるいはCT、MRI検査などの画像診断法と併用すれば、獣医学領域における聴覚機能ならびに中枢神経系機能の評価や障害の診断に極めて有効であり、今後とも大いに臨床応用されるべき検査であると考えられた。

審査要旨

 獣医学領域においても,脳の機能を非侵襲的に調べるためには,これまでもっぱら脳波検査が行われてきた。しかし,脳波は主として大脳皮質の電気的活動を捉えているにすぎないので,より多くの情報を得るために,近年,大脳誘発電位を記録する方法が注目されるようになった。とくに,近年のコンピューター技術の著しい進歩にともない,加算平均等の方法を用いて短い潜時の遠隔電場電位の記録ができるようになり,中脳や橋といった脳深部の機能を評価できるようになったからである。

 本研究は,大脳誘発電位の中でも,音による聴覚刺激で誘発される聴覚誘発電位に着目し,とくに発生源が脳幹と推測されている聴性脳幹反応(Auditory Brainstem Response,以下ABRと略)をとりあげ,いくつかの基礎的検討結果をふまえて,実験的聴覚障害犬における聴覚機能の評価を試み,さらにこれを聴覚機能障害および中枢神経系疾患の症例に応用することにより,獣医臨床におけるABR検査の有用性を実証している。研究の内容は4部に大別される。

 まず,イヌのABR波形そのものについて,各波形成分の命名の妥当性を確かめるために脳幹の下丘および外側毛帯の破壊実験を試み,脳幹におけるABRの発生源とABR波形成分との関係を詳細に検討している。その結果,初めから4つの大きな波を順次I,II,III,IV波と呼び,ついで長い下降脚の後に続く陰性波を陰性IV波,さらにその後に続く小さな陽性波をV波と呼称すれば,他の動物との比較も可能で,これまで他の動物で集積された知見をも適用することができると推察している。

 つぎに,イヌのABR記録に大きな影響をおよぼすと考えられる刺激音,麻酔および被験個体の体温について基礎的検討を行っている。ABRの記録にあたっては,一般にクリック音刺激がよく用いられているが,ここではトーンバースト音刺激について詳細に刺激条件を吟味している。その結果,ABR記録に際しては,トーンバースト音を刺激音として用いる場合,ピーク潜時に配慮した音圧を設定し,刺激音の周波数は4KHzまたは8KHzにする必要があること,また,麻酔の深度には配慮することはないが,被験個体の体温変化には十分注意する必要のあることを明らかにしている。

 ついで,以上のような基礎的検討結果をふまえ,まず,聴覚障害の副作用を有するとされている抗生物質をとりあげ,実験的聴覚障害犬を作出して,ABRによる聴覚機能評価を行っている。すなわち,硫酸カナマイシン100mg/kgの静脈内単回投与ならびに同量の9週間にわたる反復筋肉内投与により。前者では24時間後には回復する一時的な聴覚障害がみられるにすぎないが,後者ではABR波形の変化はいうでもなく,ABRの閾値の変化が顕著にみとめられ,その聴覚障害は高音域から始まることを明らかにしている。このような結果にもとづき,イヌにおける聴覚機能の評価にあたってはトーンバースト音刺激によるABRを記録し,とくに閾値を指標とした解析を行うことが有効であると提言している。

 最後に,聴覚機能障害または中枢神経系の障害を有する患犬に,このABR検査を実際に応用して,獣医学領域におけるABR検査法の臨床応用の可能性について検討している。

 まず,第一に,先天性および後天性の聾犬の症例では,聴覚機能が欠如または重度の障害をうけているためにABR波形がまったく形として記録されないことを客観的に実証し,ABR検査では一側性の聴覚障害をも判別できることから,X線検査やMRI検査のような画像診断では評価できない機能的異常を客観的に診断できるとしている。

 一方,中枢神経系に疾患を有する症例においても,ABR検査所見とX線,MRI検査所見ならびに病理解剖所見との間に密接な関係があることを実証し,臨床応用が可能なことを示唆している。

 以上を要するに,本論文は,イヌにおいても,クリック音ならびにトーンバースト音刺激によるABR検査法はX線ないしCT,MRI検査などの画像診断法と併用すれば,獣医学領域における聴覚機能ならびに中枢神径系機能の評価や障害の診断にきわめて有効であることを実証したものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50935