学位論文要旨



No 212262
著者(漢字) 伊藤,徳家
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ノリイエ
標題(和) 光学活性希土類錯体の化学触媒的不斉ニトロアルドール反応の展開と錯体構造の解明
標題(洋)
報告番号 212262
報告番号 乙12262
学位授与日 1995.04.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第12262号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 首藤,紘一
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
 東京大学 助教授 笹井,宏明
内容要旨 1.

 生命体を構成する光学活性有機化合物の基本構造は炭素-炭素結合であり、新たな触媒的不斉炭素-炭素結合生成反応の開拓は極めて価値が高い。最近柴崎らは、希土類元素の一つであるランタンを用いた光学活性ランタンビナフトール錯体が塩基性を示すことを見いだし、重要な炭素-炭素結合生成反応の一つであるニトロアルドール反応の不斉触媒化に初めて成功した。しかし用いた金属と試剤がランタンとニトロメタンに限られており、触媒構造も解明されぬままに残されていた。そこで、希土類元素全体を用いた光学活性希土類ビナフトール錯体を調製し、ニトロアルドール反応における不斉触媒能の検討と、錯体構造の解明を目的として本研究を開始した。

2.光学活性希土類ビナフトール錯体触媒を用いた不斉ニトロアルドール反応(1)ニトロメタンとの不斉ニトロアルドール反応

 希土類元素は周期表第3族の第4、5、6周期に存在する17個の元素の総称であり、これらの化学的性質は互いに酷似している。例えば塩基性の指標の一つである電気陰性度はリチウムよりやや大きく1.1から1.3であり、安定な三価イオンの外殻電子配置はすべてs2p6型で、原子番号の増加に従いそのイオン半径が短くなる「ランタノイド収縮」を示すことが知られている。したがってランタンと同等の電気陰性度を持ち、かつイオン半径がより小さくなる他の希土類元素を用いれば、不斉環境がより強く固定された効果的な光学活性希土類ビナフトール錯体が形成されることが予想された。

 柴崎らの報告した錯体調製法に従い、各種希土類塩化物についてジリチウムビナフトキシド、水、水酸化ナトリウムを様々な割合で混合して錯体を調製し、ヒドロシンナムアルデヒドを基質として用いたニトロアルドール反応における生成物の収率と光学純度から錯体調製の最適混合比を実験的に求めた。その結果サマリウム以降の希土類元素は反応性に富みランタンに較べ2倍のジリチウムビナフトキシドを必要とすることが分かった(Table 1)。

Table1 Preparation of various rare earth BINOL complexes and their catalytic activity for the asymmetric nitroaldol reaction

 次いで最適混合比で調製した光学活性希土類ビナフトール錯体を用いて、種々のアルデヒドについてニトロアルドール反応を行った(Fig 1)。この結果、脂肪族アルデヒドではランタン、プラセオジム、ネオジムの錯体触媒でほぼ同様の光学純度のニトロアルドール体が得られ、基質によっては90%ee以上の高い光学収率が達成された。ところが、サマリウム以降は希土類元素のイオン半径の減少に従って、光学純度も低下した。一方、ベンズアルデヒドではユウロピウム錯体を用いた場合に最も高い光学収率が得られた。希土類元素が違っても同じ骨格の錯体を形成するならば、ニトロアルドール成績体の光学純度は希土類の僅かなイオン半径の差を反映していると考えられた。

Fig.1 Effect of the ionic radii of rare earth elements on the optical purities of nitroaldols
(2)ニトロエタンとの不斉ニトロアルドール反応

 ニトロエタンと、各種アルデヒドとのニトロアルドール反応では二つのジアステレオマーが生成するが、この立体制御に関する報告は少なく、不斉触媒化の試みもなされていない。そこで、最適混合比で調製した光学活性希土類ビナフトール錯体を用い、ニトロエタンと種々のアルデヒドとのニトロアルドール反応における化学収率とジアステレオ比及び光学収率を求めた(Table 2)。主成績体であるシン体が常に副成績体のアンチ体より高い光学収率で得られ、ランタン、プラセオジム、ネオジム、サマリウム錯体を用いるとヒドロシンナムアルデヒド及び、ベンズアルデヒドの場合に90%eeを越える高い光学純度のシン体が得られた。一方ジアステレオ選択性に関しては、脂肪族アルデヒドが芳香族アルデヒドより優れた立体選択性を示すことがわかった。

Table 2 Nitroaldol reaction with nitroethane catalyzed by various rare earth BINOL complexes

 このように錯体の希土類元素が異なれば、達成される光学純度とジアステレオ選択性の両方が大きく変動することが明かになったが、その様式は基質アルデヒドにより様々であり統一的な理解は錯体構造が不明でもあり困難であった。この点を明かとするために錯体構造の解明を進めることとした。

3.光学活性希土類錯体の構造

 NMRや、EIやFABのような質量分析法では、錯体構造に関する有用な情報は得られなかった。しかし、レーザーパルスによるソフトなイオン化を利用するレーザーイオン化飛行時間型マススペクトル(LDI-TOFMS)により、構造情報を反映するピークを初めて観測することが出来た。その結果、一つの希土類原子に対して3分子のビナフトールと3原子のリチウムを含む錯体構造が示唆された(Fig.2)。種々の希土類ビナフトール錯体のLDI-TOFMSにおいて、希土類元素の原子量の差に従ってピークがシフトすることが観測され、各種希土類錯体の構造上の類似性が示唆された。ついで、これらの光学活性希土類ビナフトール錯体の結晶化を検討したが、結晶化は難行した。結晶化を困難にしている原因は溶液中にLiClが混在するためではないかと考え、希土類塩化物とジナトリウムビナフトキシドから錯体を調製してみたところ、初めて錯体の結晶を得ることが出来た。これらナトリウムを含む結晶のLDI-TOFMSを測定した結果、リチウムを含む錯体と同様の骨格であることが示唆されたが、ニトロアルドール反応においては不斉触媒として機能しなかった。ところが、LiClを添加することによって劇的に不斉触媒能が回復した。これは錯体中のナトリウムがリチウムへ交換したためである。最終的には、充分な大きさのナトリウムを含む結晶が得られ、プラセオジム、ネオジム、ユウロピウムのビナフトール錯体についてX線結晶構造解析に成功し、錯体構造が明らかになった(Fig.3)。いずれも非常に類似した構造であり、金属-酸素結合の約0.1オングストロームの差がニトロアルドール体におけるジアステレオ、エナンチオ選択性に反映されていたことがわかった。

図表Fig.2LDI-TOF mass spectra of Eu-(S)-BINOL complex(anionic mode) Fig3Crystal structures of Pr and Nd-Na-(S)-BINOL complexes

 現状では不斉誘起のメカニズムに関する証拠は得ていない。しかし、ナトリウムを含む錯体では不斉触媒としての活性が見られないことより、Fig.4のように考えている。

Fig.4 Proposed mechanisms for the rare earth BINOLcomplex catalyzed asymmetric nitroaldol reactions.

 即ち、ナトリウム含有錯体ではナトリウムニトロナートの生成の際に不斉源とニトロナートの距離が離れるために不斉誘起は見られない。一方、配位能の強いリチウム含有錯体ではニトロナートが希土類金属を含む6員環内に固定されて反応が進むため不斉が誘起される。不斉誘起に適した希土類元素はおおむねランタンからガドリニウムまでであることがわかったが、実際には、最適な元素は二つの基質:ニトロアルカンとアルデヒドの組み合わせにより決定される。これは、6員環ニトロナート遷移状態の安定化には中心金属のイオン半径が大きく寄与し、アルデヒド毎の立体選択性の差には配位子ビナフトールと基質アルデヒドとの立体的電子的相互作用の違いが支配的因子として働くためと考えている。

4.おわりに

 筆者は本研究により、光学活性希土類錯体が、希土類元素とリチウム及びビナフトールから成る新規なパイメタリック錯体であることを解明し、これらが不斉ニトロアルドール反応の効率の良い触媒であることを確認した。また、中心希土類元素のイオン半径が反応の立体選択性と相関することを見いだし、適当な希土類元素を選ぶことで種々のアルデヒドから高い光学収率でニトロアルドール体を得ることに成功した。本研究は化学的性質の酷似している希土類元素を用いることによって初めて成し得たものであり、希土類錯体の有機合成への応用の契機となることを期待する。

審査要旨

 光学活性希土類ビナフトール錯体は、不斉ニトロアルドール反応の触媒として極めて有用である。しかし伊藤徳家が本研究に参画した1992年には、錯体調製に用いた希土類はランタンに、また反応基質はニトロメタンに限られており、触媒構造も解明されぬままに残されていた。そこで、伊藤徳家は種々の希土類元素を用いた光学活性希土類ビナフトール錯体を調製し、ニトロアルドール反応における不斉触媒能の検討と、錯体構造の解明を目的として本研究を開始した。

1.光学活性希土類ビナフトール錯体触媒を用いた不斉ニトロアルドール反応

 希土類元素は周期表第3族の第4、5、6周期に存在する17種の元素の総称であり、これらの化学的性質は互いに酷似している。そこで、ランタンを用いる場合の錯体調製法を参考に、各種希土類錯体の最適な調製法を解明し、種々のアルデヒドについてニトロアルドール反応を行った(Fig1)。この結果、脂肪族アルデヒドではランタン、プラセオジム、ネオジムの錯体触媒でほぼ同様の光学純度のニトロアルドール体が得られ、基質によっては90%ee以上の高い光学収率が達成された。一方、ベンズアルデヒドではユウロピウム錯体を用いた場合に最も高い光学収率が得られた。触媒中の希土類の種類によって、反応生成物の光学純度や化学収率が大きく変化することを見いだした最初の例である。調製した光学活性希土類錯体を触媒としてラセミ体で市販されている1選択的遮断薬メトプロロールのニトロアルドール体を経由する合成にも成功している(Scheme1)。

Fig.1 Effect of the ionic radii of rare earth elements on the optical purities of nitroaldolsScheme1.Catalytic asymmetric synthesis of(S)-metoprolol

 また、最適混合比で調製した光学活性希土類ビナフトール錯体を用い、ニトロエタンと種々のアルデヒドとのニトロアルドール反応における化学収率とジアステレオ比及び光学収率についても検討した。主成績体であるシン体が常に副成績体のアンチ体より高い光学収率で得られ、ランタン、プラセオジム、ネオジム、サマリウム錯体を用いるとヒドロシンナムアルデヒド及び、ベンズアルデヒドの場合に90%eeを越える高い光学純度のシン体が得られている。一方ジアステレオ選択性に関しては、脂肪族アルデヒドが芳香族アルデヒドより優れた立体選択性を示すことを明らかにしている。

2.光学活性希土類錯体の構造

 NMRや、EIやFABのような質量分析法では、錯体構造に関する有用な情報は得られない。しかし、レーザーパルスによるソフトなイオン化を利用するレーザーイオン化飛行時間型マススペクトル(LDI-TOFMS)により、構造情報を反映するピークを初めて観測し、一つの希土類原子に対して3分子のビナフトールと3原子のリチウムを含む錯体構造を推定した(Fig.2)。種々の希土類ビナフトール錯体のLDITOFMSにおいて、希土類元素の原子量の差に従ってピークがシフトすることが観測され、各種希土類錯体の構造上の類似性が示唆された。このランタンとリチウムを含む錯体は結晶性に乏しかったが、塩化ランタン以外の希土類塩化物とジナトリウムビナフトキシドより調製した錯体について結晶化に成功した。充分な大きさの結晶が得られたプラセオジム、ネオジム、ユウロピウムのビナフトール錯体についてX線結晶構造解析を行い(Fig.3)、塩化リチウムの添加によるナトリウムとの交換や、別法での錯体調製を基に錯体構造を解明した。いずれも非常に類似した構造であり、金属-酸素結合の約0.1オングストロームの差がニトロアルドール体におけるジアステレオ、エナンチオ選択性に反映されていたことを明らかにしている。

Fig.2LDI-TOF mass spectrum of Eu-(S)-BINOL complex.Fig.3 Crystal structures of Rare earth-sodium-BINOL complexes.

 以上の研究は、種々の光学活性希土類錯体が、希土類元素とリチウム及びビナフトールから成る新規なバイメタリック錯体であることを解明し、それらが不斉ニトロアルドール反応の効率の良い触媒であることを見いだしたものである。有機化学に重要な貢献をすることが期待され、博士(薬学)の学位に価すると判定された。

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