学位論文要旨



No 212289
著者(漢字) 田口,彰一
著者(英字) Taguchi,Shoichi
著者(カナ) タグチ,ショウイチ
標題(和) 対流圏大気の南北半球間交換過程に関する研究
標題(洋) The study on the Inter-Hemispheric Exchange of Tropospheric Air Masses
報告番号 212289
報告番号 乙12289
学位授与日 1995.04.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12289号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,正明
 東京大学 教授 木村,龍治
 東京大学 教授 新田,勍
 東京大学 教授 住,明正
 東京大学 助教授 松田,佳久
内容要旨

 対流圏大気の微量成分濃度の観測から北半球と南半球のそれぞれの半球の中での混合に較べて相互の半球の間での交換がゆっくり行われていることが分かっていた。しかしながら微量成分濃度の連続観測は地表付近に限られ、観測点がそれぞれの半球に10数個しかないために微量成分の全球的な分布および交換過程は必ずしも明らかではなかった。このため、微量成分の観測からその発生源・消滅先を推定する事は困難な状況にある。

 我々は全球大気開発計画(FGGE)以後めざましく充実した大気の客観解析気象データに基づけば微量成分の3次元分布および南北両半球間の大気の交換過程を解明できるのではないかと考え、まず輸送過程のみを取り扱う大気輸送模型および粒子追跡模型を開発し検討を行った。次に大気境界層と大気中での簡単な消滅反応過程を組み込んだ化学輸送模型を開発し二酸化炭素、メチルクロロフォルムおよびメタンに関してそれぞれ発生と消滅を与えた実験を行って観測と比較した。

 大気輸送模型は、輸送される物質が風速場へフィードバックしない事と、解析された風速を有効に利用しようとする立場からオフライン型とした。輸送過程の計算はセミラグランジュ方式、風速はヨーロッパ中期予報センター(ECMWF)で解析された客観解析格子点データ(TOGA:熱帯海洋と大気の相互作用研究計画)を用いた。このデータは大気の状態を予測するための数値天気予報モデルを積分した予測値と観測されたデータとを融合する4次元データ同化手法によって作成され、ノーマルモードによる初期化は施されていない。

 大気輸送模型と粒子追跡模型では鉛直気圧座標14層、水平2.5度の解像度の風速データを使用した。これは1日2回(00UTC,12UTC)与えられ1989年の一年間を用いた。セミラグランジュ法で用いる出発点は風速を30分毎に時間空間内挿しながら計算した。

 発生や消滅の無い仮想物質を考え、緯度に関して線形で経度および高さ方向には一様な初期混合比を与えて輸送拡散過程を調べた。濃度は気象データと同じ気圧座標で計算し、1月1日を初期として1年間の積分を行った。強い水平傾度を持つ領域が低緯度対流圏下層で見いだされ、これは南北大気の境界を示していた。この境界は太平洋では熱帯収束帯に一致していたが、北半球の夏はアジアでは北緯30度へ、冬には南米で南緯30度へ移動した。この境界の南北振動による大気の交換時間を簡単な2ボックスモデルで見積ると5年であったが、大気輸送模型で計算される濃度の変化からは交換時間は約一年と計算された。この実験の結果は南北の大気の入れ替わりが境界の移動だけでは説明できないことを意味している。また、北半球の夏の間はインドからインドシナ半島の大気組成が南半球の性質を持ち、冬の間はアマゾンの大気組成が北半球の性質を持つ事を示唆している。総質量は1回の時間積分では1万分の1の変動であったが1年間の積分で5%変動した。

 粒子追跡模型は大気輸送模型で出発点を計算した手法を時間を逆にして作成した。風速が与えられるのと同じ格子点に初期に粒子を置き1989年の1月と7月の風速を用いて30日間の軌跡を計算した。30日間に粒子が通過する緯度の最北端あるいは最南端の統計を取る事によって南北の輸送の抑制された領域が見いだされ大気輸送模型の結果と一致した。

 それぞれの半球から反対側へ移動した軌跡を調べたところ夏半球から冬半球への気塊の移動と、冬半球から夏半球への気塊の移動には典型的な経路が存在することが分かり、顕著な南北非対称も見いだされた。すなわち冬半球から夏半球へ輸送される気塊は熱帯対流圏の下層を通過するのに対し夏半球から冬半球へ輸送される気塊はまず下層から熱帯大気に入った後熱帯収束帯で上昇し冬半球側へ入っていくことが分かった。また経路の地理的な分布を見ると1月の北から南への輸送はインド洋と南米の下層を中心に起こり、南から北への移動はニューギニア付近と大西洋の熱帯収束帯を中心に起こっていた。7月の北から南への移動は西部太平洋からインド洋にかけての上層と、アフリカと南米の熱帯収束帯を中心として起こっていた。南から北への移動はインド洋西部で起こっていた。

 化学輸送模型は非局所的拡散を含む大気境界層とハイドロキシル・ラジカルとの消滅反応過程を導入して作成した。大気境界層高度が用いる気象データの地方時間によって異なるので一日4回の気象データ(1992年)を使用した。大気輸送模型で問題となった総質量の変動を抑えるため鉛直座標を15層シグマレベルに変更し質量保存機構を導入した。仮想的な物質を用いた実験によると南北半球間交換時間は約1年となり大気輸送模型の結果と一致した。すなわち、交換時間は気象データの年々変動や時間間隔に依存しないことが明かとなった。

 この化学輸送模型を用いて二酸化炭素の3次元分布を計算した。発生源として化石燃料の燃焼による発生源の推定値(年間放出量5.3GtC)と陸上の植生による吸収と放出の推定値(成長期正味流量14.5GtC)をそれぞれ独立に与えた実験を行った。結果は米国大気海洋庁の気候監視診断室(CMDL/NOAA)、カナダ大気環境研究所(AES)および東北大学の結果と比較した。年平均地表濃度の北極と南極の濃度差は、化石燃料実験では2ppm、植生実験では4ppmとなり、観測でえられている4ppmより大きくなった。化石燃料実験の年平均地表濃度を北極あるいは南極の濃度からの相対値で考えると、低緯度では計算濃度が観測より低く、北大西洋の濃度は観測より高かった。これは熱帯海洋からの放出と北大西洋での吸収を示唆している。生態系実験では季節変動の振幅が上空の観測点とほとんどの地表観測点で再現されたが、北半球の海洋の風下と南半球の中緯度では計算された季節変動幅が観測より50%以上大きい。これは海洋に陸上の生態系とは逆位相で季節変化する放出・吸収源があることを示唆している。また、ここで用いた発生源分布に基づけば、いわゆるミッシングシンクは北半球側にあると結論される。

 同様に化学輸送模型を用いてメチルクロロフォルムの3次元分布を計算した。工業統計に基づく年毎の総排出量、電力消費量と産業構造から推定された発生源の水平分布を用い、さらに東西平均のハイドロキシル・ラジカル濃度の推定値を月、気圧および緯度の関数として与えた。南北半球間濃度差は大気寿命実験(ALE/GAGE)の観測と一致した。観測される経年変化を得るハイドロクシル・ラジカル濃度は全球平均で4.7x105(立方センチ当り分子数)であった。これは従来の推定に較べると36%少ない。

 さらにに化学輸送模型を用いてメタンの3次元分濃度分布を計算した。純生産量(ネット・プライマリ・プロダクティビティ)と化石燃料消費量から計算され文献に与えられた発生源推定値を用いた。計算結果の季節変動の振幅はCMDLの観測と一致した。北半球の冬期の濃度は観測より低く、南半球の濃度は年間を通して観測より高かった。この結果は北半球の高緯度と熱帯での発生源には改良の余地のある事を示唆している。

 この研究によって北半球大気と南半球大気を隔離している壁の季節変動を含む空間構造とその壁を通しての大気の輸送過程が観測的に明かとなった。また、セミラグランジュ法による輸送計算と4次元同化手法により作成された気象データを組み合わせれば対流圏の微量成分濃度を再現できることも分かった。ここで開発された化学輸送模型は従来の模型では必須と考えられていて計算結果の信頼性を著しく低下させる要因となっていた熱帯の積雲による水平拡散を含む必要が無い。これによって微量成分の発生源・消滅先の推定が技術的に可能となった。

審査要旨

 大気中の微量成分の濃度分布は気候や温暖化予測の問題にとって重要である.この問題は大気中の輸送過程や微量成分の生成過程と密接に関係している.その中で,二酸化炭素やメタン等の微量成分分布は地球温暖化の問題と直接に関係していて非常に重要である.特に二酸化炭素については海洋や植生への放出・吸収がまだ明確になっていない点で学問的にも興味ある問題である.本論文では,このような大気中の微量成分の濃度分布についての論文で,おもに対流圏大気の南北半球間交換の問題や二酸化炭素の問題を取り扱っている.

 論文の前半では輸送過程のみを取り扱う大気輸送模型および粒子追跡模型を開発し検討をおこなっている.大気輸送模型は輸送される物質が速度場にフィードバックするタイプとフィードバックしないタイプとがあるが,ここでは後者のものを用いてある.また風速としてはヨーロッパ中期予報センターで解析された客観解析格子点データを用いている.また粒子追跡模型でも同様のデータを用いている.

 まず発生や消滅のない仮想物質を考え,緯度に関して線型で経度と高さ方向には一様な初期混合比を与えて輸送拡散過程を調べた.濃度は気象データと同じ気圧座標で計算し,1月1日を初期として1年間の積分をおこなった.強い水平経度を持つ領域が低緯度対流圏下層で見いだされ,南北大気の境界を形成している.この境界は季節の進行とともに変化する.境界の振動による大気の南北交換はこれまでいろいろ言われていたが,ここでの計算で約1年と見積もられた.これは今後大事な数値として位置付けられる.

 次に粒子追跡模型を作成し,粒子の軌跡を追いかけてみた.30日間粒子を追跡した.30日間に粒子が追跡する緯度の最北端あるいは最南端の統計をとることにより,南北の輸送の抑制された領域が見いだされ,大気輸送模型の結果と一致した.また半球から半球への粒子の移動に典型的な経路が存在することや南北非対称性もわかった.

 論文の後半では具体的な物質を取り扱っている.この化学輸送模型は,さらに大気境界層や質量が保存するような工夫を取り入れ,模型をさらに精巧なものにしている.この模型を用いて二酸化炭素の3次元分布を計算した.発生源として化石燃料の燃焼による発生源の推定値と陸上の植生による吸収と放出の推定値をそれぞれ独立に与えた実験をおこなった.年平均地表濃度の北極と南極の濃度差は,前者では2ppm,後者では4ppmとなり,観測で得られている4ppmよりあわせると大きくなる.化石燃料実験の場合,低緯度では計算濃度が観測より低く,北大西洋の濃度は観測より高い.これは熱帯海洋からの放出と北大西洋での吸収を示唆している.生態系実験では季節変動の振幅がほとんどの観測点でよく再現されたが,北半球の海洋の風下と南半球の中緯度では計算された季節変動幅が50%以上大きい.これは海洋に陸上の生態系とは逆位相で季節変化する放出・吸収源があることを示唆している.またミッシングシンクは北半球にあると結論される.

 さらにメチルクロロフォルムの3次元分布も求めている.推定された発生源の水平分布を用いた.観測される経年変化を得るためのハイドロキシル・ラジカル濃度は全球平均で4.7x105(立方センチあたりの分子数)であった.これはこれまでの推定値に比べ36%少ない.

 最後にメタンの3次元濃度分布を求めた.計算結果の季節変動の振幅は観測とよい一致を示す.北半球の冬期の濃度は観測より低く,南半球は年間を通して観測より高い.

 この様に,筆者は,モデルの作成から具体的な物質の輸送過程を詳しく調べた.その中で南北交換の時間が1年程度であることを明確にし,二酸化炭素の問題ではミッシングシンクが北半球にあること,さらにハイドロキシル・ラジカルがこれまでの値より36%少ないかも知れないなど新しい知見を得ており,大気物質輸送の研究の基礎を与えるものである.よって本論文は博士(理学)の学位論文として合格と認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50665