学位論文要旨



No 212293
著者(漢字) 服部,明徳
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,アキノリ
標題(和) 老年者糖尿病患者の診断とコントロール : 糖尿病性網膜症と虚血性心疾患の発症における危険因子の検討
標題(洋)
報告番号 212293
報告番号 乙12293
学位授与日 1995.04.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12293号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 講師 山路,徹
 東京大学 講師 松本,俊夫
 東京大学 教授 川田,智恵子
 東京大学 助教授 川久保,清
内容要旨

 我が国では人口の高齢化が急速に進み、大きな社会問題となっている。また、加齢とともに耐糖能が低下し、結果として糖尿病の有病率は増加し、60歳以上の老年者における糖尿病の有病率は実に10〜15%と高値になっている。これに伴い、糖尿病患者に占める老年者の割合が最近急速に増加している。そこで老年者糖尿病患者の病態を検討することが急務となっている。

 老年者糖尿病患者の特徴の一つとして、口渇などの自覚症に乏しいことがある。この場合、血液検査によってはじめて糖尿病と診断されるが、老年者に若年者と同じ診断基準を用いても問題はないのだろうか。また老年者では自覚症が乏しいことから、患者自身の病識が希薄であり、きちんとした治療を受けていないことが少なくない。このような自覚症状の乏しい老年者の場合、コントロールの目標をどこに置くべきか、明確な基準は存在しない。合併症の発症を予防するという観点から糖尿病の治療を行うには、高齢者における糖尿病合併症の危険因子を検討する必要がある。

 本研究では、老年者における糖尿病の診断およびコントロールの基準を検討するために、老年者糖尿病患者において長期追跡調査をretrospectiveに施行し、血糖値と糖尿病合併症の発症およびその危険因子との関連という観点から考察を行った。

 対象は1986年1月から3月にかけて東京都老人医療センター糖尿病外来を受診し、その後すくなくとも6ヵ月以上通院した60歳以上の老年者NIDDM患者424症例である。男性は144例で女性は280例である。追跡開始時の平均年齢は72.6±6.2歳(平均値±標準偏差)であった。全症例の平均観察期間は5.2±2.1年であった。

 まず、全対象者のうち痴呆などを認めず自覚症をはっきり表現しえた357例について糖尿病発症時の症状を調査・検討した。

 発症時に自覚症を認めず、老人検診などでの臨床検査によってはじめて糖尿病と診断された症例は229例(64.1%)と過半数を占めた。口渇もしくは多飲・多尿を自覚した症例は94例(26.3%)、全身倦怠感21例(5.9%)、視力障害10例(2.8%)、その他3例(0.8%)であった。とくに糖尿病発症年齢が65歳以上の162症例では、発症時に自覚症のなかった症例が113例と約7割を占めた。自覚症がない場合には、主に血糖検査によって糖尿病と診断されることになるが、老年者の診断基準も若年者と同様でよいのであろうか。

 次に糖尿病性網膜症の発症という観点から老年者糖尿病患者における診断について考察した。

老年者糖尿病患者の診断について1.老年者糖尿病患者における糖尿病性網膜症と初診時の臨床検査所見との関連について(横断調査)

 外来初診時に糖尿病性網膜症を認めた症例は対象の381例中127例(33.3%)であった。網膜症の有無と初診時検査所見との関連を検討した。両群間で有意差を認めたのは糖尿病罹病期間および空腹時血糖値であった。年齢・性差・BMI・喫煙歴・高血圧の有無・血清脂質値などには有意差を認めなかった。

 上記の横断調査で、糖尿病の罹病期間で糖尿病性網膜症の発症に有意差を認めたことから、次に経過時間を考慮して追跡調査を行った。

2.外来初診時の臨床検査所見と追跡期間中の糖尿病性網膜症の発症の有無との関連について(追跡調査)

 上記の対象例のうち、糖尿病外来追跡開始時に網膜症を認めず、追跡期間中に少なくとも年2回以上当院の眼科外来を受診して糖尿病性網膜症の有無を確認しえた189症例を対象とした。

 追跡期間中に、対象の189症例中73症例(38.6%)に糖尿病性網膜症の発症を認めたが、一年あたりの発症率は ほぼ8%のハザードで一定の集団であった。

 Cox回帰をもちいて初診時の臨床検査所見と糖尿病性網膜症の発症との関連を検討したところ、空腹時血糖値のみが有意であった。

 次に経過時間を考慮し、初診時の空腹時血糖値について生命表分析を行った。

 空腹時血糖値140mg/dl以上の群では経過とともに糖尿病性網膜症が高率に発症していた(p<0.01)。なお140mg/dl以下の群からも5年以内に糖尿病性網膜症が約2割に発症していた。

 また、年齢・性を調整して段階的変数選択による多変量解析を行ったところ、初診時の空腹時血糖値が老年者糖尿病患者における網膜症発症の独立した危険因子であった。空腹時血糖値が100mg/dl上昇したとき、ハザード比は1.39(95%信頼区間1.02-1.88)であった。糖尿病推定罹病期間は有意ではなかったが、網膜症発症にやや影響を与える因子であった。

老年者糖尿病患者のコントロールについて―外来通院中の臨床検査所見と糖尿病性網膜症の発症との関連について―

 追跡開始時に糖尿病性網膜症を認めず経時的に眼底所見を観察しえた、上記の189例を対象とした。

 追跡期間中の臨床検査所見のうち糖尿病性網膜症の発症に影響を及ぼすと考えられる空腹時血糖値・HbA1・HbA1c・収縮期血圧値・BMIを2か月ごとに調査し、追跡期間中の糖尿病性網膜症の発症との関連について検討した。このうち追跡期間中の空腹時血糖値は欠損値が多いので、血糖コントロールの指標としては経時的なHbA1c値を用い、糖尿病性網膜症の発症が起きた時点の直前におけるHbA1c値を共変量として解析に用いた。さらに収縮期血圧値・BMI値は追跡期間中の平均値を用いて、年齢・性差を考慮しCox回帰によりそれぞれの因子のハザード比を算出した。

 追跡期間中に糖尿病性網膜症は73例に認められたが、糖尿病性網膜症の発症に関連する時間共変量としての追跡因子を多変量解析を用いて検討したところ、HbAlc値のみが、糖尿病性網膜症の発症と有意に関連していた。図に示したようにHbAlc値が7.5%より上昇すると糖尿病性網膜症の発症頻度も有意に高値となった。

HbA1cによるハザード比の推定
―外来通院中の臨床検査所見と虚血性心疾患の発症との関連について―

 老年者糖尿病患者ではmicroangiopathyである網膜症の合併だけでなくmacroangiopathyである虚血性心疾患も多発して、患者のQOLおよび予後に大きく影響することが知られている。そこで、老年者糖尿病患者の治療に関しては虚血性心疾患の発症にも注意する必要がある。われわれは今回の追跡調査から老年者糖尿病患者について虚血性心疾患の発症とその危険因子について検討した。

 全対象者のうち1986年追跡開始時までに虚血性心疾患を認めず、追跡期間中の定期的な外来検査所見を検討しえた343例を対象として、追跡開始時および追跡期間中の臨床検査所見と虚血性心疾患の発症との関連について調査・検討した。

 追跡期間中に343例中43例(12.5%)で虚血性心疾患の発症を認めた。まず追跡開始時の臨床検査所見と虚血性心疾患の発症との関連について調査・検討した。

 年齢、性差、BMIおよび喫煙歴においては両群間で有意差を認めなかった。空腹時血糖値およびHbA1c値は虚血性心疾患発症例で有意に高値であった。

 また、収縮期血圧値・血清総コレステロール値も虚血性心疾患発症例で有意に高値を示した。

 対象における経過中の虚血性心疾患の発症を危険因子別にKaplan-Meierの生命表分析によって検討し図示した。

 図から明らかなように血清総コレステロール値220mg/dlで群わけをした場合に虚血性心疾患の発症率に有意差を認めた。収縮期血圧値に関しても140mmHgで群わけした場合に、血圧値の高値群において有意に虚血性心疾患の発症率は高値となった。HbA1c値は8.5%での群わけで有意であった。

(Fig) Clinical variables and probability in subjects without IHD during follow-up period

 いままで述べてきた危険因子について、多変量解析を行ったところ、HbA1c値・収縮期血圧値・血清総コレステロール値がいずれも有意な独立した危険因子であった。

 HbAlc値が3%上昇した場合のハザード比は2.38(95%信頼区間1.29-4.39)であった。また収縮期血圧値が10mmHg上昇したときのハザード比は1.26(95%信頼区間1.06-1.50)、血清総コレステロール値が50mg/dl上昇したときのハザード比は1.43(95%信頼区間0.98-2.10)であった。

 次に経過時間を考慮して、追跡期間中の2か月毎のHbAlc・収縮期血圧値・血清総コレステロール値およびBMI値などの時間共変量の平均値と虚血性心疾患の発症との関連を検討した。観察期間中の収縮期血圧値および血清総コレステロール値は、虚血性心疾患発症の危険因子であった。観察期間中のHbAlc値は傾向は認めるものの有意ではなかった。

(Table) Multiple Cox regression analysis between risk factors during follow-up perlod and the development of IHD in Patients without IHD at the baseline
結論

 1.老年者糖尿病患者では発症時に自覚症のない症例の頻度が6割以上であった。

 2.今回検討した高齢者糖尿病患者での網膜症の発症率は一年に8%で一定であった。

 3.追跡開始時に糖尿病性網膜症を認めなかった189例のうち、追跡期間中に糖尿病性網膜症は73例に発症した。

 3.初診時の臨床検査所見のうち、空腹時血糖値のみが老年者糖尿病患者における糖尿病性網膜症発症の独立した危険因子であった。空腹時血糖値が100mg/dl上昇したとき、ハザード比は1.39(95%信頼区間1.02-1.88)であった。

 4.糖尿病性網膜症の発症に関連する時間共変量としての追跡因子を多変量解析を用いて検討したところ、追跡期間中のHbAlc値のみが糖尿病性網膜症の発症と有意に関連していた。

 5.追跡開始時に虚血性心疾患の認められなかった343例中43例(12.5%)で追跡期間中の虚血性心疾患の発症を認めた。

 6.老年者糖尿病患者における虚血性心疾患の危険因子を検討したところ、高血圧・高脂血症がそれぞれ独立した危険因子であった。

まとめ

 老年者糖尿病患者においても糖尿病性網膜症の発症頻度は若年者と同様であり、自覚症に乏しくとも糖尿病と診断して治療をする必要がある。初診時の臨床検査所見のうら、空腹時血糖値のみが老年者糖尿病患者における糖尿病性網膜症発症の独立した危険因子であった。経過時間を考慮し、初診時の空腹時血糖値について生命表分析を行ったところ、空腹時血糖値140mg/dl以上の群では経過とともに糖尿病性網膜症が高率に発症していた(p<0.01)。糖尿病性網膜症の発症という観点から糖尿病の診断を考慮すると、若年者と同様に空腹時血糖値140mg/dl以上でよいと考えられる。

 糖尿病性網膜症の発症に関連する時間共変量としての追跡因子を多変量解析を用いて検討したところ、HbAlc値のみが、網膜症の発症と有意に関連していた。老年者の糖尿病のコントロールとしてはHbAlc値で できれば7.5%とすべきであると考えられる。

 老年者糖尿病患者の治療に関しては虚血性心疾患の発症にも注意する必要がある。虚血性心疾患の危険因子を検討したところ、高血圧・高脂血症がそれぞれ独立した危険因子であった。老年者糖尿病患者では血糖コントロールだけでなく、高血圧・高脂血症の治療も必要であると考えられる。

審査要旨

 本研究は老年者糖尿病患者の予後に大きく影響する糖尿病性網膜症と虚血性心疾患の発症頻度とその危険因子を8年間のretrospective studyにて検討したものであり、下記の結果を得ている.

 1.老年者糖尿病患者189例において糖尿病性網膜症の発症頻度を検討したところ年間約8%で一定であった.これは若年者糖尿病患者の発症頻度と殆ど同じであった.

 2.外来初診時の臨床検査所見のうち、老年者糖尿病患者での糖尿病性網膜症発症と有意に関連していたのは空腹時血糖値のみであり、推定糖尿病発症年齢・高血圧・肥満度などとは有意の関連を認めなかった.

 3.Cox回帰による検討では、空腹時血糖値が100mg/dl上昇すると発症のリスクは1.39倍(95%信頼区間1.02-1.88)となった.

 4.生命表分析で検討したところ、初診時空腹時血糖値140mg/dl以上の群では8年間の追跡期間中に実に約6割に糖尿病性網膜症の発症を認めた.なお140mg/dl未満の群でも約3割に糖尿病性網膜症の発症を認めた.

 5.追跡期間中の2ヵ月ごとの外来での臨床検査所見を調査し、これと糖尿病性網膜症の発症との関連を検討したところ、血糖コントロールの指標であるHbAlcのみが有意に関連していた.血圧値や体重などとは有意の関連を認めなかった.

 6.追跡期間中のHbAlc値が2%上昇すると、糖尿病性網膜症の発症リスクは1.68倍となった.追跡期間中のHbAlc値の変動と糖尿病性網膜症の発症頻度との関連を検討したが、有意の関連は認められなかった.

 以上の結果より、老年者糖尿病患者の診断を糖尿病性網膜症の発症という観点から考察すると、空腹時血糖値で140mg/dl以上として問題ないと考えられた.

 また老年者の糖尿病性網膜症の発症頻度は若年者と同じであったことから、老年者においても血糖コントロールは重要で、そのコントロールの指標としてはHbAlc値でできれば7.5%以下であると考えられた.

 7.今回の老年者糖尿病対象者424例のうち、8年間の追跡期間中に133例の死亡を認めたが、虚血性心疾患死が40例(30%)を占めた.

 8.そこで追跡開始時までに虚血性心疾患を認めなかった343例において、虚血性心疾患の発症とその危険因子について検討した.

 追跡期間中に虚血性心疾患の発症を43例(12.5%)に認めたが、追跡開始時の臨床検査所見のうち、収縮期血圧値・血清総コレステロール値そしてHbAlc値が虚血性心疾患の発症における独立した危険因子であった.喫煙歴・拡張期血圧値・HDL-コレステロール値・肥満度などとは関連を認めなかった.

 9.収縮期血圧値が10mmHg上昇すると、虚血性心疾患の発症リスクは1.26倍(95%信頼区間1.06-1.50)となった.血清総コレステロール値が50mg/dl上昇すると、虚血性心疾患の発症リスクは1.43倍(95%信頼区間0.98-1.50)となった.またHbAlc値が3%上昇すると虚血性心疾患の発症リスクは2.38倍(95%信頼区間1.29-4.39)となった.

 10.追跡期間中の2ヵ月ごとの臨床検査所見の平均値と虚血性心疾患の発症との関連を検討したところ、やはり収縮期血圧値と血清総コレステロール値が独立した危険因子であった.HbAlc値は追跡期間中の変動が大きく、傾向は認めたものの有意ではなかった.

 以上のことより、老年者糖尿病患者においても高血圧・高脂血症そして高血糖が虚血性心疾患の危険因子であることが明らかになった.

 以上、本論文は老年者糖尿病患者の予後に大きく関係する糖尿病性網膜症そして虚血性心疾患の発症頻度とその危険因子を検討した疫学的研究である.わが国では急速な高齢化社会を迎えている.特に老年者での糖尿病患者の罹病率は1割を越えようとしている.老年者糖尿病患者のコントロールの目安はどの程度であろうか.本研究ではこの点で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる.

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