中世から近世への転換の時代は戦国時代と称されるように戦乱の時代であったが、それは同時に大量に文書が発給された時代でもあった。本論文はこの戦国大名から出された文書を広く収集・整理して、そこから近世社会への胎動を探ったものである。 その分析方法は、大名の文書には花押を据えた判物と印判を据えた印判状との二種類があることから、その二つにどのような違いがあるのかを、それぞれの量的な変化や、その用途の違いに注目して、日本各地の大名について徹底的に探るというものである。 全体は四部から構成されており、第一部では「東国の大名たち」と題して、後北条氏、武田氏、今川氏、上杉氏、佐竹氏の東国に成長した戦国大名をとりあげて分析する。次の第二部では「西国の大名たち」と題して、毛利氏、大友氏、島津氏、さらに大内・六角氏などの西国の大名とりあげ、第三部では「東北の小宇宙」と題して、東北地方で群雄割拠していた伊達氏を始めとする奥羽の諸氏をとりあげる。そして第四部では「天下人たち」と題して統一政権を目指した信長・秀吉・家康の三人をとりあげ、最後に「黒と白と」と題して、考察の結果を図に示し、中世社会から近世社会への転換の様相を描いている。 本論文を貫く関心は戦国大名の発給文書を徹底的に収集して、そこから戦国時代の全国的な動きを探ることにある。これまでの戦国大名研究が、大名の支配の内容や質を問題としつつも、それが特別な支配を達成した例に基づいて構築されていることに鑑みて、どの大名にも見られる文書をとりあげ、その形式と用途を分類・整理することで、大名間の異同を考え、さらに歴史の大きなうねりを描こうとしたのである。 本論文の出発点となったのは、東国の後北条氏の研究である。そこでは文書の発給量の消長から、判物の時代から印判状の時代へという変化を指摘し、さらに文書の用途を受給者の利益の多い順から起請系・名誉系・宛行系・安堵系・優遇系・命令系の六つに分類して、印判状への移行にともなって、どの用途の文書が増加していったのかを探った。 その結果は、印判状の出現とともに文書の発給量が増加すること、大名にとって一方的な利益となる命令系などの新しい内容の文書が登場し、しかも印判状は次第に優遇系・安堵系へと進出してゆき、文書を受け取る側に利益がもたらされるような文書についてもこれですまされるようになること、宛先も寺社中心であったものから郷村宛てへと変化し、さらに戦功を理由とした文面の文書があらわれなくなり、文書の形式が薄礼化する傾向にあることなど、きわめて重要な事実を明らかにした。 こうした変化について、著者は大名支配の質的な転換を読み取って、人格的な支配から非人格的・官僚制的な支配へというモデルを設定するとともに、それを物差しにして各大名の支配の質的な転換を考察してゆく。 後北条氏に続く武田氏や今川氏でも判物の時代から印判状の時代へという変化が認められるが、それは後北条氏にやや遅れ、後北条氏ほどに徹底化されないことが明らかにされる。さらに上杉氏の場合は武田氏には遅れるものの、今川氏に先行して印判状の時代が到来することをみて、東国の大名では人格的な支配から非人格的・官僚制的な支配へと早い段階で転換してゆくものと想定した。 しかし佐竹氏の場合はモデル通りにはゆかず、印判状の時代は豊臣政権の下に入って始めて到来することを指摘して、これは他の東国大名と比較して異質ではあるが、西国大名では一般的に認められることとして、次に西国大名の分析に入る。 同じ大名といってもそれぞれに個性が豊かであって、大名ごとに性格が異なる。そこで文書の分類・整理の方法も大名の個性に照らして考えることになる。毛利氏の場合は二頭政治が続いたので、その時期の文書の特質を中心にして分析し、人格的な支配関係をそ特徴として把握し、さらに天正十六年に豊臣政権の下に入ると文書の形式が尊大なものとなり、印判状の出現はそれよりもっと遅れることをみる。 こうして印判状の出現の遅れた西国大名の場合は、判物を中心に分析が行われ、名誉系・宛行系など人格的な支配関係の著しい文書が多く出されていることや、それでも次第に文書の薄礼化が進むという変化を明らかにしている。 それらの結果を踏まえて、東西の大名を比較し、名誉系・宛行系の文書の量を白で示し、優遇系・命令系の文書の量を黒で示すと、東国の大名には黒が著しく、西国の大名には白が著しくなることを図示している。そこからさらに東北の大名を探って、そこでは判物の大名と印判状の大名が交錯する、白黒のモザイク状を呈していることを指摘し、さらに天下人である統一政権を目指した信長・秀吉・家康の三人については早くから印判状を使用することになって、黒がはるかに白に優越していることを指摘する。 したがって統一政権は、東国大名の支配の延長上にあって、非人格的で官僚制的な支配を達成する方向を目指したものと結論づけられる。最後に東西のこの違いがどうして見られるのかという問題を提起して、東西日本の社会や成長の問題を考察している。 このように膨大な史料の収集、徹底的な文書の整理、周到な分析の方法、これらによって達成されたのが本論文である。これによって戦国時代の日本歴史の流れがくっきりとしてきたばかりか、近世社会がどのように育まれてきたのかも知ることができるようになった。本論文の最大の成果である。 本論文が発表された時には、ユニークな叙述の方法も相俟って、戦国期研究者のみならず、中世・近世の研究者に多大の影響を与えたのであった。ただ鮮やかに過ぎる論証は幾つかの問題を残すことになった。人格的な支配から非人格的・官僚制的な支配へというシェーマはその内実が明らかにされてこそ意味あるものになるが、本論文ではその点に物足りぬものがあり、東西日本の社会の特質の指摘にも表面的との感は免れない。 しかしこうした問題を一挙に解決することは不可能なのであり、今後の課題として残されるものであろう。いささか論文らしからぬ叙述形式を有する論文であるが、そこから提示された戦国時代の様相は今後の研究に大きな一石を投じたことは疑いなく、博士(文学)論文として認められるものである。 |