学位論文要旨



No 212332
著者(漢字) 池田,純
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,ジュン
標題(和) カルシウム結合性リン酸化蛋白R2D5の同定とその高等動物脳における分布
標題(洋)
報告番号 212332
報告番号 乙12332
学位授与日 1995.05.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第12332号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 客員助教授 岩坪,威
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
内容要旨

 モノクローナル抗体R2D5は、ウサギ嗅球ホモジネートを抗原としてマウスを免疫し、ウサギ嗅球組織切片の免疫組織化学的手法を用いたスクリーニングにより、嗅球表面に分布する糸球体を特異的に染色することにより見いだされた抗体である。糸球体は嗅球表層部にモザイク状に存在し、末梢神経の嗅細胞から送られる嗅覚情報を処理する構造単位であり、嗅細胞の軸索突起と嗅球ニューロンである僧帽細胞や房飾細胞の主樹状突起によって形成されている。この抗体は免疫組織化学的に嗅球の嗅細胞軸索を特異的に染色し、嗅細胞の核を除いた細胞質すべての部分を染色する。以上の結果からR2D5の抗原分子(R2D5)は嗅覚系の情報処理に重要な役割を果たすことが予想された。また、中枢神経系内ではR2D5は神経細胞およびグリア細胞の特定の細胞群に局在して発現していた。そこで我々はこのR2D5に注目し、(1)免疫組織化学的手法でネコの脳組織、及びウサギ脳の嗅球以外の領域におけるR2D5の発現性を詳細に調べ、R2D5の発現パターンと神経構築との間の関係の検討、(2)ウサギ嗅上皮からの蛋白分子精製、遺伝子クローニングを行ない、R2D5の同定を試みた。

 嗅覚系の信号は嗅球へ送られた後、嗅皮質へ投射されるが、その一部の信号は内嗅野を経て海馬歯状回へと送られる。内嗅野および海馬歯状回は、情動、短期記憶形成に関与する海馬への主要入力経路として注目される部位であり、痴呆等ではこれらの部位の変性が疾患と関与していることも知られている。R2D5抗体を用いこの部位を免疫組織化学的に調べれば、記憶形成に関わる今までに知られていなかった知見を与える可能性が考えられた。そこで我々はネコ大脳辺縁系のR2D5陽性部位の検索を行った。R2D5抗体は内嗅野と、海馬の特定の神経細胞を認識し、構造的特徴を反映した特異的染色像を与えた。前者の内嗅野では第3層の神経細胞の細胞質が染色されたが、前額断、矢状断切片で島状に観察される第2層の神経細胞は染色されなかった。内嗅野の第1層は、第2層、第3層の神経細胞の樹状突起により構成されているが、連続した前額断切片を用いてR2D5抗体により認識される第3層の錐体細胞の樹状突起を接線方向に平行な平面に対して再構成すると、樹状突起が束となり第1層でモザイク構造を形成していることが明らかとなった。ここで観察されたR2D5陽性の内嗅野第3層の細胞は、軸索を海馬CA1錐体細胞へ投射し、R2D5陰性の内嗅野第2層の細胞は、海馬歯状回、海馬CA3錐体細胞へ投射している。また、大脳辺縁系での主要な神経経路は、内嗅野表層部→歯状回顆粒細胞→CA3錐体細胞→CA1錐体細胞→鉤状回→内嗅野深層部という経路となっており、海馬体には歯状回顆粒細胞、CA3錐体細胞、CA1錐体細胞の3段階のシナプス伝達が見られ、これらいずれのシナプスにも記憶形成に関わる電気生理学的現象として知られるLTPを観察することが出来る。R2D5の局在性の観察された内嗅野第3層神経細胞は、内嗅野表層部から歯状回顆粒細胞を経由しないで海馬錐体細胞に直接シナプスを形成する神経細胞であり、歯状回顆粒細胞とシナプスを形成しLTPが観察される第2層の神経細胞とは異なる神経興奮性を示すことが考えられる。以上の知見から、R2D5抗体が内嗅野の機能を電気生理学的に解明する為に有用なマーカーとなり得ること、R2D5が第2層、第3層の錐体細胞の興奮性の違いに関与する分子である可能性が示唆された。

 さらに海馬では、歯状回顆粒細胞のうちの一部のニューロンが特異的に染色されることが見出された。海馬は中隔に近い背内側部から、側頭葉に近い腹外側部へと弓状構造をしているが、R2D5は、この中隔側頭軸に対して側頭部で多く発現し、中隔部に近づくにつれその発現量が減少するという濃度勾配が観察された。この結果は海馬の電気生理学的実験で、中隔側頭軸に沿った歯状回顆粒細胞の興奮性の違いが存在することと対応しており、R2D5は神経細胞興奮の調節に関与すると考えられた。

 また、ネコ脳においては聴覚神経系の上オリーブ核::LSO(lateral superior olivary nucleus)、MSO(medial superior olivary nucleus)にもR2D5の発現の濃度勾配が見出された。LSO、MSOにおいてはR2D5の濃度は低音部の刺激を受容する部位ほど多く発現し、高音部担当部位での発現はほとんど無かった。これらは、いずれもR2D5の局在性の違いが、神経細胞の興奮性の違いを形成している可能性を示唆した。

 ネコでは中枢神経系のニューロンにR2D5の分布が見出されたが、抗原に用いたウサギにおいては中枢神経細胞には染色性は見られず、脳室周囲に存在する上衣細胞が染色されることが確かめられていた。R2D5の機能を探る上で、さらにウサギ脳の他の部位に対するR2D5の発現を組織化学的に検索することが重要と考え更に実験を行った。R2D5抗体による染色像で、脳幹部正中領域にtanycyte processによって形成される柵状構造が見出された。tanycyteは脳室周囲に存在する上衣細胞の一種であり、脳室と脳表面の両方向性に突起を伸ばしている。形態的に嗅細胞と似ていることから、tanycyteは脳室の物質情報を神経細胞に伝達する機能を担う可能性があり、さらにR2D5は嗅細胞とtanycyteの両者に共通する情報処理機構に関与していると考えられた。

 以上の知見からR2D5の構造の解明が重要と考え精製を試みた。R2D5抗体はウサギ嗅上皮可溶性画分のWestem blotで単一の22kDaのバンドを認識した。そこで、我々はウサギ嗅上皮からWestem blotで認められる22kDaのバンドを指標としてDE52陽イオン交換カラム、anti-R2D5 Ab-conjugated Sepharose 4Bを用いたアフィニティーカラムによる精製を行ない、SDSボリアクリルアミド電気泳動のCBB染色で、単一なバンドを与える標品を得た。この精製した画分を用いて、免疫組織化学染色法による吸収実験を行なったところ、濃度依存的に糸球体染色性の減弱が見られ、精製されたR2D5と免疫組織化学的に認識される分子が同一であることが示唆された。そこでさらにこの画分をリジルエンドペプチダーゼ消化して得られた3つのペプチドフラグメントについて、部分アミノ酸配列(74残基)を決定しホモロジー検索を行なったところ、R2D5はEFハンド様のCa2+結合部位を持つことが判明した。このことはR2D5がCa2+による調節を受ける蛋白であることを示唆する。さらにウサギ嗅上皮より得たpoly(A)+ RNAを精製し、oligo(dT)primerを用いて合成したcDNAをgt11 phageに組み込みライブラリーを作成し、E.coli.Y1090rに発現させたcDNAライブラリーをR2D5抗体を用いてスクリーニングし、R2D5をコードするcDNAを単離した。コード領域全体のアミノ酸配列から、R2D5は3つのCa2+結合可能部位を持つこと、イヌ甲状腺で見出されたcalcyphosinと86%のアミノ酸identityを有することが判明した。またR2D5の1次構造から、CaM kinase IIによりリン酸化を受ける部位が2箇所存在することが判明した。一方homologyの高いcalcyphosinがcAMP dependent protein kinaseによりリン酸化されることが知られているので、大腸菌で発現させたR2D5を用い、CaM kinase II、A kinaseによるリン酸化の有無を調べたところ、R2D5はin vitroでこれらのkinaseによるリン酸化を受けることが判明した。また、Ca2+と結合性について45Ca2+ blotting、Ca2+依存性疎水性カラム結合性を調べたところ、Ca2+と結合し、R2D5がEF-hand Ca2+結合蛋白スーパーファミリーに属する蛋白であることが判明した。EF-hand Ca2+結合蛋白スーパーファミリーに属する蛋白には,’trigger’型、’buffer’型の2つの機能的に異なるタイプが存在する。前者はcalmodulin,troponin Cのようにubiquitousな分布を示しCa2+に結合することで生じるコンフォメーション変化を通じて様々なタイプの酵素、イオンチャンネルの活性を調節する。後者はparvalbumin,calbindin-D28のように細胞刺激による細胞内Ca2+の増加に応答し、増加したCa2+と即座に結合し、細胞内Ca2+の作用を制限する緩衝作用を示す。特に’buffer’型の分子では脳での局在性が知られており、神経細胞の興奮時に流入するCa2+に結合し興奮を抑制する緩衝作用が神経細胞のサブセット毎に異なったCa2+結合蛋白に担われることで、脳での神経細胞の興奮性に多様性を形成することに関与していると考えられている。R2D5は、細胞内の存在様式とサブセット特異的な発現性を示す特色を持つことから、’buffer’型の機能を担う分子であることが示唆された。また、嗅覚系と視覚系はcyclic nucleotide regulatedion channnelによる神経興奮制御機構が存在する点で良く似た情報伝達機構を有していることが知られているが、視覚系では明順応においてCa2+濃度の低下により光情報伝達経路の脱感作がS-modulin,calmodulin等のEF-hand Ca2+結合蛋白スーパーファミリー分子によって担われていることが近年明らかにされつつある。嗅覚系においてもCa2+が匂いに対する脱感作に重要な働きをすることが知られており、R2D5の生化学的特質、嗅細胞での特異的発現性から、R2D5はcAMPとCa2+のcross talk制御機構を通じて匂いに対する脱感作機構に関与することが示唆される。さらにR2D5の脳内局在性検索の結果は、興奮性の異なる神経細胞の未知のサブセットの存在を推測させる内嗅野の第1層のモザイク構造を明らかにした。このように、高等動物の脳に特異的な発現を示す分子に関する知見をさらに集積してゆくことは、高次脳機能制御機構の解明に役立つものと考える。

審査要旨

 中枢神経系に特異的に発現し、様々な機能を担う新たな蛋白質を同定することは脳研究の重要な方向性である。論文提出者はこのような目的でウサギ嗅球ホモゲネートを抗原としてマウスを免疫し、ウサギ嗅細胞の軸索・細胞質を染色するモノクローナル抗体R2D5を得た。抗体R2D5はネコ脳内嗅野第3層のニューロンを陽性に染色したが、第2層は陰性であり、これらの細胞の樹状突起束により構成されるモザイク状の島状分布を明瞭に描出した。また海馬歯状回顆粒細胞の側頭部を優位に染色し、聴覚系中継核である脳幹上オリーブ核では、低音部の刺激を受容する部分を強く染色した。これらの染色パターンは既知の電気生理学的興奮性の相違に対応しており、この抗体の認識する分子R2D5が神経細胞の興奮性に関与する可能性が示唆された。またウサギ脳では脳室上衣細胞、脳幹正中域を背腹に結ぶtanycyteが陽性を示し、これらの細胞系の嗅覚系、辺縁系神経細抱との類似性が示唆された。

 抗体R2D5はウサギ嗅上皮可溶画分のイムノブロットで分子量22kDの単一のバンドを認識した。これを指標に陽イオン交換カラム、R2D5抗体結合アフィニティーカラムを用いてR2D5分子を精製し、SDS電気泳動上蛋白染色で単一なバンドを与える標品を得た。精製R2D5をリシルエンドペプチダーゼで消化し、得られたペプチドフラグメントのアミノ酸配列を調べたところ、R2D5分子はEFハンド様のCa2+結合部位を持つことが明らかとなった。さらにウサギ嗅上皮より得たRNAからcDNAを調製し、gt11 phageに組み込んで発現ライブラリーを作製し、R2D5抗体でスクリーニングすることにより、R2D5をコードするcDNAを単離した。コード領域全体のアミノ酸配列から、R2D5は3つのCa2+結合部位を持ち、イヌ甲状腺に存在するcalcyphosinと86%の相同性を有することが判明した。さらにR2D5分子はCaM kinase II、 A kinaseによりリン酸化を受けること、Ca2+結合性から、EF-hand Ca2+結合蛋白スーパーファミリーに属することが示された。

 R2D5分子は、細胞内存在様式と神経細胞のサブセット特異的な局在から、活性調節型(trigger型)ではなく緩衝作用型(buffer型)の機能を持つCa2+結合蛋白と考えられ、嗅覚系におけるCa2+による脱感作機構に関与する可能性などが推測された。以上のごとく本研究は脳における新規Ca2+結合蛋白をモノクローナル抗体作製、蛋白精製、アミノ酸配列解析、抗体を用いた発現ライブラリースクリーニングなどの方法を用いて同定し、その機能を解析すると同時に、組織内分布を詳細に検討したもので、脳機能研究に新しい知見を与えるものであり、博士(薬学)の学位に値すると考えられる。

UTokyo Repositoryリンク