半導体量子井戸、超格子等の量子ヘテロ構造が江崎らによって初めて提案され実現してから約20年が経過した。2次元電子系・励起子系の示す多彩で興味深い物理的性質は、量子力学的基礎物性研究の場を提供するとともに、工学的にも重要で、新しい半導体光・電子素子を生みだしてきた。この分野の研究の活発かは現在も高い水準にあり、これを支えているのは新しい材料系開拓への着実な努力である。本研究で対象とするInGaAsP/InP量子井戸は、光通信、光情報処理用光素子を開発する上で極めて重要な材料系であり、80年代半ばから盛んに研究が行われるようになった。 本研究では、InGaAsP/InP量子井戸の電子帯構造と光学的性質を理論よ実験の両面から詳しく調べた。材料物性とデバイス物理の研究を通して、量子井戸光素子の開発に寄与するとともに、本材料系特有の物性を明らかにして量子井戸の物理を発展させることを目的とした。主な狙いは、(1)光変調器、光スイッチ等への応用上重要な2次元励起子共鳴について、振動子強度、スペクトル形状関数、自然放射寿命等の光物性を定量的に明らかにすること、及び、(2)歪量子井戸の電子帯構造を明確にし、歪による量子井戸レーザの高性能化の機構と指針を明らかにすることである。 (1)2次元励起子系の光物性 励起子共鳴の振動子強度、スペクトル形状関数、自然放射寿命等は、最も基礎的で重要な光学的性質である。しかし、これらは十分に理解されているとは言い難い。例えば、従来盛んに研究されてきたGaAs/AlGaAs系に比べ、InGaAsP/InP量子井戸の励起子共鳴光吸収の強度は弱く、またスペクトルはよりブロードであるが、その原因は明らかにされていない。また、量子井戸面内でコヒーレントな波動関数を持つ2次元励起子は、低温でpsオーダの高速の自然放射を起こすことが理論的に予測されており、これを利用すれば極めて高速で応答する光スイッチが実現可能となる。しかし、実験的に測定される励起子の自然放射寿命は数100psと理論予測よりも遥かに長く、また強い試料依存性を持つ。これらの実験結果を磁気光学効果等を用いた実験、及び理論モデルによって定量的に説明し、量子井戸の励起子共鳴スペクトルに関する理解を発展させた。 (i)振動子強度:図1はIn0.53Ga0.47As/InP量子井戸の典型的な光吸収スペクトルであり、吸収端に電子-重い正孔励起子の共鳴スペクトルが観察されている。量子井戸に垂直に磁場を加えていくと、励起子共鳴が短波長側に反磁性シフトを起こし、またその強度が増大していくことが分かる。図2に、3種類の井戸幅が異なる量子井戸について(a)反磁性シフトと(b)光吸収スペクトルの積分強度(振動子強度に比例)の磁場依存性を示した。反磁性シフトは磁場の2乗には比例せずに下方に折れ曲がっており、励起子相対運動半径が磁場によって量子井戸面内で収縮していくことを示している。有効質量近似に基づき、励起子の収縮を考慮して積分強度の磁場依存性を計算したところ(図2(b)の曲線)、実験結果を良く説明できることが分かった。この結果は、振動子強度の相対運動波動関数依存性を広い範囲で検証したことを意味している。InGaAsP/InP量子井戸の弱い積分強度は、大きな2次元励起子半径に起因していることが明らかとなった。 図1 量子井戸の磁気光吸収スペクトル図2 (a)励起子共鳴スペクトルの反磁性シフト、(b)積分強度の磁場依存性 (ii)スペクトル形状関数:共鳴スペクトルの形状が構造不完全による不均一性ブロードニング関数とフォノン散乱による均一性ブロードニング関数のConvoiution積分で与えられるというモデルを提案した。このモデルは、測定したスペクトルの形状と温度変化を良く説明する。均一性ブロードニングの半値幅から、室温における散乱寿命はIn0.53Ga0.47As/InP量子井戸で250fs、GaAs/AlGaA量子井戸で450fsと見積もられた。この寿命の差が、両者のスペクトル幅の違いの主要な原因である。 (iii)自然放射寿命:図3は、In0.53Ga0.47As/InP量子井戸における励起子自然放射スペクトルの反磁性シフトである。光吸収で観測される自由励起子と比較して、20K以下ではシフト量ははっきりと小さく、この温度領域で励起子が量子井戸の構造不完全性に起因する何らかの束縛ポテンシャルに捕えられ、半径が収縮していることが分かる。図4は放射強度の温度依存性であり、20K以下で束縛されると発光強度が飽和し、温度依存性が消失する。放射強度の解析から、束縛励起子の自然放射寿命は自由励起子の約30倍と、遥かに大きくなっていることが分かった。 図3 自然放射の反磁性シフト メゾスコビックな量子ディスクを励起子閉じ込めの舞台として、励起子自然放射の理論を導いた。この量子ディスクは半径を変化させることによってマクロな量子井戸とミクロな量子ドットの間を連続的に移り変わり、束縛状態を記述できる。導出のキーポイントは、重心運動波動関数を結晶内でFourier展開し、各Fourier成分に放射場との間の波数ベクトルの選択則を適用することである。図5で、実線は量子ディスク面内の閉じ込めポテンシャル(調和振動子の周波数で表わす)に対して自然放射寿命を計算した結果である。点は上記の測定結果であり、理論との一致は極めて良い。励起子の自然放射寿命は束縛されることによって2桁も増大し、これが従来の理論と実験の不一致の原因である。本研究で、任意の量子構造中の励起子自然放射を記述する一般的な理論が得られた。 図表図4 自然放射光強度の温度依存性 / 図5 束縛励起子の自然放射寿命の理論 (2)歪量子井戸とその半導体レーザへの応用 YablonovitchとAdamsは、1986年、量子井戸層に圧縮歪を意図的に導入して電子帯構造を制御することによって、量子井戸レーザの特性が向上することを予測した。その後、発振しきい値電流の低減、高効率化等が実証され、歪量子井戸の研究が盛んに行われるようになった。しかし、その電子帯構造とレーザ高性能化の機構は十分に理解されてはいない。歪量子井戸のバンドオフセット・伝導帯有効質量・価電子帯分散関係を、強結合近似、k・p摂動法、磁気光学効果を用いて明らかにした。さらに、この知識に基づいてレーザのしきい値電流に対する歪の効果を明らかにし、歪量子井戸レーザの設計原理を確立した。 (i)バンドオフセット:Harrisonの強結合近似モデルを陽イオンのd軌道を取り入れて拡張し、ヘテロ接合のバンドオフセットを予測する新しい表式を得た。このモデルは、Harrisonモデルが説明できなかったAl原子を含む系にも適用可能である。さらに、得られたバンド端エネルギに、歪ハミルトニアンの固有値を加えることによって、歪量子井戸の実験結果も良く説明できることを示した。 (ii)伝導帯有効質量:一次のk・p摂動法に基づいて伝導帯分散関係を記述する表式を導いた。有効質量は量子井戸面内と垂直方向で異方性を持ち、また歪量と井戸幅によって敏感に変化することが明らかとなった。 (iii)価電子帯分散関係:価電子帯分散関係を決定するLuttinger-Kohnパラメタの混晶組成依存性を、磁気光学効果を用いて決定した。従来から用いられていた値の約半分程度であることが分かった。新しいパラメタを用いて価電子帯分散関係の計算を行い、その歪依存性を明らかにした。 (iv)しきい値電流密度:図6は得られたバンド構造を基に、In1-xGaxAs/InP歪量子井戸レーザのしきい値電流密度を計算した結果である。圧縮歪(x<0.47)と引張歪(x>0.47)のどちらの方向の歪を加えても、しきい値電流は1/2-1/3に低減されることが明らかになった。当初予想されていなかった引張歪においてもしきい値電流が減少する原因は、価電子帯基底状態となる軽い正孔帯の高い放物線性と、サブバンドの離散性、及び、電子-軽い正孔帯間の高い光学遷移確率にある。引張歪の有効性とその機構は本研究で初めて明らかにされたものである。 図6 歪量子井戸レーザのしきい値電流密度 |