学位論文要旨



No 212366
著者(漢字) 持田,智行
著者(英字)
著者(カナ) モチダ,トモユキ
標題(和) 有機低次元水素結合系のプロトンダイナミックスに基づく誘電特性
標題(洋) Dielectric Properties Derived from Proton-Dynamics of Organic Low-dimensional Hydrogen-bonded System
報告番号 212366
報告番号 乙12366
学位授与日 1995.06.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第12366号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 京都大学 教授 佐藤,直樹
内容要旨

 エノール型ジケト化合物のs-cis体は通常分子内で強い水素結合を形成しており、溶液中、気相中ではプロトン移動を伴う互変異性をおこしていることが古くから知られている。ここでは、互変異性と連動して電子系の分極に基づく分子の双極子モーメントが反転する点(図1)に着目した。こうした分子を結晶化した場合、互変異性過程が結晶中でも実現すれば、誘電応答の発現が期待される。このような物質系は、それ自身物性的に興味ある対象となるのみならず、水素結合系誘電体におけるプロトンダイナミックスと相転移の関連解明にも有用となろう。一方、ジケト化合物のs-trans体結晶は、一般に一次元系水素結合を有することが知られている。こうした水素結合鎖内でプロトン移動が実現すれば、それはソリトン様励起が関与した分子間での集団運動となる可能性もあり、物性的に興味深い。以上のような観点から、前者の分子内水素結合系として9-ヒドロキシフェナレノン(1)およびその誘導体、後者の分子間水素結合系として四角酸誘導体を取り上げ、それらの結晶内ダイナミックスについて検討した。

(図1)互変異性と連動した分極反転1)9-ヒドロキシフェナレノン類の分子内互変異性に基づく誘電応答

 まず、分子構造が非対称である場合として、2-メチル誘導体(2)を取り上げ、構造解析を行った。NMR測定より、結晶中で互変異性体はエネルギー的に非等価であるが、速い互変異性を起こしていることを明らかにした。次に、分子構造が対称的な化合物として、5-メチル体(3)、および5-ブロム体(4)について検討した。ここで5位の置換基は、母体化合物(1)の結晶が有する分子配向の乱れ(次項参照)を抑え込み、互変異性に基づく誘電挙動を発現させる目的で導入したものである。構造解析の結果、両者は同型結晶であり、分子配向に関し秩序構造を有すること、またNMRより室温では等価な二重井戸型ポテンシャル内で速い互変異性を起こしていることが示された。共に互変異性に基づく誘電応答が認められ、特に5-メチル体(3)は、41Kで相転移を起こすことがわかった。ここでは分子間の双極子相互作用により反強誘電的な秩序化が生じた(互変異性が停止した)と推察される。これに対し、5-ブロム体(4)は4Kまで常誘電状態であった。メチル基の異方性を考慮すると、5-ブロム体では5-メチル体と比ベプロトントンネリングの効果が十分大きいと考えられる。従って、4ではトンネリングに基づく量子揺らぎにより誘電的秩序化が妨げられる状態(量子常誘電性)が出現していると考えられる。

 

2)9-ヒドロキシフェナレノンの分子再配向に基づく誘電応答

 9-ヒドロキシフェナレノン(1)の単結晶の誘電測定を行った結果、分子配向にディスオーダーを有する室温相が特異な応答を示すことを見い出した。誘電率の絶対値および異方性より、この誘電性は分子の結晶内120°再配向連動に由来するものであることが明らかになった。結晶内では分子配向に関して1次元的なドメインが形成されていることがわかっているが、誘電率の温度・周波数依存性は、このドメイン壁周辺で分子の協同現象的な再配向過程が発現しているとして合理的に理解できる。

(図2)1の結晶内再配向運動
3)一次元系水素結合系を有する四角酸誘導体における誘電応答

 四角酸誘導体5、6について検討を行なった。構造解析の結果、5は結晶内で1次元系水素結合を有することが明らかとなったが、プロトンに関する動的挙動は検出されなかった。他方、同様に1次元的水素結合を有する6は、特異な誘電応答を示すことがわかった。重水素置換により誘電挙動が有為に変化すること、また、誘電率は顕著な異方性を示し、水素結合面内にのみ大きいことから、この応答が分子間水素結合系のダイナミックスと関連している可能性は極めて高いと考えられる。

 

 以上、水素結合を有する結晶の物性探索を行い、その結晶内ダイナミックスに基づいた興味ある誘電特性を示す系を見いだす事ができた。

審査要旨

 水素結合は、分子性結晶中や生体分子系において、構造形成の役割とともに、分子認識などの重要な機能性をも担っている。水素結合の機能としては従来静的な側面が専ら利用されていたが、本論文で筆者は水素結合の切り替えといった動的側面に注目し、有機結晶における水素結合の動的過程(プロトンダイナミックス)に基づく新しい物性・機能性に関する開拓的研究を展開しており、その内容は高い独創性を有している。

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 第1章では、水素結合性有機結晶において、水素結合内のプロトン移動と連動した結合の切り替えが引き起こす極性反転に着目し、それに基づく誘電性を中心とした新物性の開拓の可能性について議論している。プロトンダイナミックスを担う有機水素結合性ユニットとして、3-ヒドロキシエノン骨格(図)を取り上げ、そのs-シス体、s-トランス体をそれぞれ0次元系水素結合型誘電体(分子内水素結合系)、1次元系水素結合型誘電体(分子間水素結合系)のプロトタイプと位置付けている。前者が孤立状態において分子内水素結合を形成し、互変異性を起こしていることはよく知られているが、このような分子を結晶化した場合、固体中でも互変異性が起これば、分子内部に極性反転機構を有する新しい誘電性に結びつくことを指摘している。一方、後者は結晶内で分子間1次元水素結合鎖を形成するが、通常、分子間水素結合に与かる水素原子は、分子間の双極子相互作用のためほとんど例外なく局在して観測される。もし、適切な互変異性型分子を見出し、分子間でのプロトン移動を可能とすれば、ソリトン様励起が関与した集団運動に基づく、低次元誘電物性に結びつき、固体物性の観点から極めて興味深い系が創出されることを指摘している。

 第2章では、分子内水素結合を有する互変異性分子として、9-ヒドロキシフェナレノン(1)およびその誘導体(2〜4)を取り上げ、互変異性ポテンシャルとプロトンダイナミックスの関連、および分子内互変異性に基づく誘電応答について検討している。この系は、対称性のよい平面共役系を持ち、互変異性ポテンシャルの系統的な制御が可能であることに着目して取り上げられたものである。なお、これらの分子は、孤立状態での性質が精査されているので、物性を分子の個性に遡って議論できる利点を持つ。このうち母型化合物である1は対称的な分子構造を持つにもかかわらず、1)結晶中で分子配向に乱れを有する、2)結晶環境に由来し互変異性体が非等価性を示す、の2点より、分子内互変異性を詳細に吟味する上で不適当であることを指摘している。そこから得られた知見を基にし、結晶中で互変異性体がエネルギー的にほぼ縮退し、水素結合のポテンシャルに関し、対称的二重井戸型ポテンシャルを持つような結晶環境の設計に成功している。すなわち、1の結晶中での分子配向の乱れを抑え込むために、5位に置換基を導入した5-メチル体(3)、および5-ブロム体(4)を合成し、X線結晶構造解析により、両者が分子配向に関し秩序構造を有する同形結晶で、空間群から判断し、それらの互変異性体が結晶中、エネルギー的に縮退した状態で存在し得ることを明らかにしている。また固体高分解能NMRにより、室温でこれらの分子が対称的な二重井戸型互変異性ポテンシャルを有し、迅速な互変異性を行っていることを確認している。さらに、これらの化合物の結晶の誘電測定を行い、両者共に互変異性に基づく顕著な誘電応答が認められることを見いだしている。さらにその誘電率の温度変化より、3は41Kで相転移を起こすが、4は4Kまで常誘電状態であることを発見している。この現象について、筆者は孤立分子の性質も参考にしつつ、以下のように考察を行っている。即ち3ではメチル基の異方性により水素結合のポテンシャルの対称性が若干破れているため、極低温におけるプロトン移動に関してトンネル効果が小さく反強誘電相へと相転移をおこす。これに対し4では球対称のブロム基を有しているため、結晶中でもほぼ完全な二重井戸型ポテンシャルが保たれ、その結果プロトン移動に大きなトンネル効果が現れ、それに基づく量子揺らぎにより、分子間の双極子相互作用による秩序化が妨げられる状態(一種の量子常誘電性)が出現していると解釈している。さらに、化合物4のフェノール性水酸基を重水素化した化合物の結晶の誘電測定を行い、重水素誘起相転移を見出だしている。これは重水素置換したことにより、トンネル周波数が減少し、量子揺らぎが抑制されたためと考えられ、上記の解釈を実証するものである。

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 第3章においては、9-ヒドロキシフェナレノン(1)の分子再配向に基づく誘電応答について議論している。すでに述べたように1は結晶中で分子配向に乱れ(ディスオーダー)を有するが、この結晶が熱励起型の誘電挙動を示すことにより、ディスオーダーが動的な性質を持つことを明らかにしている。さらに誘電挙動の温度・周波数依存性より、この動的挙動は独立分子の再配向運動では説明できず、結晶中の分子配向に関し形成されたドメイン壁周辺で起こる分子の協同現象的な再配向過程に由来するものと結論づけている。すなわち、結晶中での協同運動を誘電率測定により見い出したということができよう。

 第4章においては、1次元水素結合系を有する四角酸誘導体における水素結合のダイナミックスについて述べている。ここでは、分子間プロトン移動を発現させるため、水素結合に関与する水酸基の酸性を高めることを設計指針とし、物質構築を幅広く行ない、3-ヒドロキシエノン骨格にオキソカーボン骨格を導入した化合物(5〜6)が有効との結論にたどりついたことを述べている。5では、1次元系水素結合結晶を与えるものの、プロトンに関する動的挙動は検出されていないのに対し、鉱酸に匹敵するような強酸である6の擬1次元的水素結合結晶において、固体高分解能NMRの測定より、ついに分子間で迅速なプロトン移動を伴う互変異性が起こっている系を見出すに至った経緯が述べられている。さらに6の結晶の誘電測定により、この物質が顕著な誘電応答を示すことを発見した。この結果は、6では分子の高い酸性度に基づき分子間でプロトン移動が自発的に起こり、プロトンを受け取った分子と、放出した分子との間で電荷の分離が起こり、これが水素結合の交替によって荷電ソリトンとして振る舞い、電場中で移動するとして解釈できることを指摘している。また、重水素置換により誘電挙動が有意に変化することは、この誘電応答がプロトン移動に由来するものであることを裏づけている。

 以上、本研究は、一定の物性を想定した物質設計という概念のもとに、まず3-ヒドロキシエノン骨格が組み込まれた新しい分子を合成し、それを水素結合性分子結晶として集合化し、X線結晶構造解析により結晶構造を解明した後、固体高分解能NMR測定、結晶の誘電率測定などの多彩な手法を活用することにより、結晶内のプロトンダイナミックスに基づいた特色ある誘電特性を示す系を見出した点で、極めて独創性の高いものである。

 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した。

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