学位論文要旨



No 212385
著者(漢字) 渡邉,寛
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒロシ
標題(和) 迷走するECの農業政策
標題(洋)
報告番号 212385
報告番号 乙12385
学位授与日 1995.06.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第12385号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,滿
 東京大学 教授 伊藤,誠
 東京大学 教授 工藤,章
 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
内容要旨

 本論の要旨は、次の通りである。まず、Iでは、EC農業の現況を概観し、IIで、1957年のローマ條約によって発足したEECの前史をスケッチし、次いで右條約の内容を紹介し、それがその後の共同体と各国民経済との間に矛盾を孕むものであったことを指摘した。IIIは、理事会(Commission)、閣僚会議(the Council of Ministers)等の共同体の基本機関の役割と関連の解説に充てられた。(なお、右の訳語をはじめ、基本的な用語の訳語で通常訳によらないものもある。理由は、本論文中で説明してある。)共同体の農業政策を考察する場合、共同体の農民組合の連合組織(略稱COPA)が、かなり強力な影響を及ぼすので、その分析をIVでした。上の準備的考察を前提として、本題に入る。

 Vは共同農業政策(CAP)の諸制度の形成過程を、60年代初頭を中心に辿った。この過程で、農業政策の財政的基礎となる「農業指導・保証基金」(略稱FEOGA)の制度化、農産物価格の共同価格化、66年からこれらを実施することの決定の政治過程を分析した。

 如上の、CAPの具体化のための、農産物の共同価格水準、共同体の共同計算貨幣(当初はUA)の創設、加盟各国の拠出金によるEC予算制度の設立等を、その決定に至る政治過程と絡めて解明すること、これがVIの課題であった。このなかでの最大の難題は、各国の農産物の価格差の存在から、共同価格を決定することであり、早くも各国間の利害の対立と妥協との複雑な過程を辿ることになった。その結果成立した共同価格は、世界市場価格よりも著しく高い、小農保護価格となった。この域内高農産物価格維持のために、ECは、対内的には、その価格での買入れの、対外的には、輸入禁止的な変動輸入課徴金、目標価格、そして「輸出払戻金」等の、一組の保護システムを設けた。以後、FEOGA支出の大部分は、上のシステムを機能させるための「保証基金」に費され、FEOGA用の歳出がEC財政支出の7〜80%に80年代に至るまで、達することになった。構造改善に充てられるべき「指導基金」は、当初の理念は失せ、微少な額になった。かくして、CAPの目標は、域内高農産物価格維持、それによる過剰農産物の発生、「払戻金」による、その海外へのダムピングにならざるをえなかった。そして、これが、当面、域内の農業セクターの平和を確保する役割を果した。

 共同価格の実施は67年であったが、69年には、フランスが、フラン平価の切下げ、逆にドイツがマルク平価の切上げを実施した。だが、フランスは、農産物価格は旧平価を維持させ、安価で、ドイツもそれを旧平価で維持したために、高値で農産物価格水準を保つことになった。フランスの場合は、消費者階級の利益のために、そしてドイツは、小農民保護のために、こうした措置を採った。この背後には、直接的には政治的動機があり、更にその背後には、それぞれの資本主義の蓄積機構の差異が存在していた。新・旧平価の差額は、ほぼ「貨幣補償額」(MCAs)と呼ばれ、ドイツのそれは「正の」、フランスのそれは「負の」MCAsと稱され、この差額は、両国間の価格差による輸出入を阻止するために、輸出入課徴金として収取された。こうして、「共同価格」は2年ほどで「非共同価格」へと変じ、以後、70年代の折りからの自由変動相場制の導入によって、域内各国により採用され、以後「共同価格」とは名目的なものとなり、しかも、各年度の理事会→農相会議で決定される農産物の共同価格は、変動する正・負のMCAsにより、公式の共同価格よりも、各国通貨に換算した場合には上昇することになったのである。

 VII.70年代におけるCAPによる絶えざる価格値上げと、正ないし負のMCAsを持つグリーン・マネーによる、その増幅とによって、高度成長時代以降激減を続ける農業就業人口にも拘らず、価格アップと、農業のモータリゼイション、化学肥料・農薬の多投による農業生産の昂進、各産品軒並みの自給率100%超過、大農経営の繁栄、過剰の海外ダムピングというコロラリを辿ることになった。だが、こうした事態は、支持価格での際限のない買付けとダムピングとによって、過剰農産物の累加とEC財政の負担増を招来した(EC歳入源として79年からVATの1%、84年から1.4%を各国が拠出することになった)。

 80年代は、70年代のCAPの顕在化した矛盾を処理すべく、理事会は狂奔し、各国の農業的利害を体する農相とその会議とで、極めて入り組んだ闘争をすることになった。VIIIの分析対象である。理事会は、まず過剰生産の進行の激しかったミルクについて生産割当制を提案したが、特にミルク生産国の反対に遭って、割当額を原案よりも増額せざるをえなくなり、84年に間に入った首脳会議で、この制度が実現されたが、これもミルクの過剰問題を遂に解決するに至らなかった。更に悪いことには、84年には、従来、正のMCAs、つまり平価よりも高値の農産物価格水準を維持していたドイツは、その正の1部分、およそ3.4%を、リアルECU(80年からのEC計算貨幣単位)より安いグリーンECUをECに法認させた。そして、この3.4%分は、負のMCAsの通貨のほうに編入してしまった。こうして、事実上存在していた各国の2重為替はEC規模で制度化された。以後、マルクの切上げとグリーン・マルクの旧平価での据置きは、結局グリーンECUのECUからの乖離率(スウィチオーヴァ率)を脹ましてゆくことになる。

 さて、ミルクに次いで小麦過剰問題が深刻化し、更にEC歳出を圧迫し始めた。数次の制限措置の失敗の後、理事会は、小麦の「最大保証限度量」(略稱MGQ)制度とそれに伴なうペナルティとを設ける提案をしたが、相互に利害の反する農相会議では決定をみず、これも、88年に首脳会議に委ねられた。同会議は併せて、「保証基金」支出の上限をGDPの年増加率の74%とするという決定をした(ガイドライン)。だが、こうした施策も生産増を喰い止めることができず失敗に終った。

 89年、農業担当理事に就任したマクシャリーは、80年代の失敗の総括をして、91年、5カ年計画の改革案を発表した。これがIXの分析であるが、彼は、穀物の目標価格の35%カットを柱として、それによる損失を小農保護を中心として実現しようとし、耕地削減に伴なう生産補償金支出も逆進的になるものを提案した。だが、これは大農経営国イギリス、フランスを中心とした反対のために、92年5月に農相会議を通過したときには、価格カット29%は兎も角、生産補償金は削減面積に比例したものになってしまっていた。この改革もまた、各国の異なった利害の前に破れたのである。

 彼は、CAP改革の奥の手として、92年7月に、グリーンECU廃止案を理事会に提出した。Xが、その経緯を明らかにする。同年9月に始ったヨーロッパ為替制度の危機は、イギリスをはじめ多くの加盟国を上・下各2.25%の固定相場制から下方へと脱落させ、この危機は翌93年7月一杯続き、フランの離脱によって、8月から新たに、上・下各7.5%の振幅を持つ為替相場制を認めざるをえなくなった。このなかで、いわばad hocに誕生したのが、この間20.7%に増大していたグリーンECUを凍結して、更にそれに副えて、5%幅の「変動免除額」を各国の平価に認めるという、中途半端なシステムであった。これは94年から実施されることになったが、まさに弥縫策といってよい。

 さて、最後のXIでは、ECのアメリカとのウルグアイ・ラウンドでの農業交渉とその結着を分析した。ここでは、この交渉の基本的性格を特徴づけ、主題を91年―93年12月に絞って考案した。ここでも92年までのECの立役者はマクシャリーで、彼はフランスの反対を押切って、アメリカのラディカルな要求をかわして、保護措置の関税化のうえで、それの36%の削減で妥結した。但し、重要なことは、ドゥンケル最終提案では生産「歪曲」的措置とされていた、生産補償金を保護措置とは見做さないという合意を得たことである。両者の合意は92年11月、ワシントンのブレア・ハウスでなされた。だが、フランスの反対で、農相会議でも、この合意は承認できなかった。フランスは、農民の反対運動を背景として、将来の小麦生産増の処理、穀物の輸出削減率を各産品ごとに35%にするのではなく、穀物全体の合計で35%とすべきこと(これは、小麦の削減率を極めて少なくできることによる)、現存する小麦ストックのダムピングが許可されてはいない等の問題を挙げて、農相会議で精力的な反対を開始した。グリーンECU廃止問題で苦しみ始めたドイツが、その取引のためにフランスに擦り寄ってきて、最初は孤立していたフランスは、農相会議を牛耳ることになった。合意再交渉に耳を籍さなかったアメリカも、遂に93年秋から再交渉に入ることになり、上のフランスの要求を全面的に認めて、93年12月15日、ブレア・ハウス第2合意が成立した。しかしフランスは、ほぼ同時に、アメリカの包括貿易法に対抗する、「ヨーロッパ貿易防衛機構」の設立をECに承認させ、再度の貿易戦争の態勢を整え始めた。

 事実、現代の資本主義のモータリゼイションから遺伝子工学の農業への適用は、おそらく遅かれ早かれ、農業生産力を促迫し、ECの農業政策を更に迷走させるであろう。抬頭しつつある環境政策とその勢力が、これに代替しうるか否かは当面不明である。

審査要旨

 I.本論文『迷走するECの農業政策』は1957年のローマ条約によって発足したEECの時代からECを経て,EUへの移行に到る1994年4月までのほぼ40年にわたるヨーロッパ共同体の「共同農業政策」CAPの政治経済分析である。とりわけ,これまで研究対象とされてこなかったECの共同農業政策の政策決定をEC理事会,閣僚会議,農業圧力団体COPAや首脳会議などでの交渉過程の分析を通じて,その特質を解明することを課題としている。これまで本学位申請者は農業理論研究と世界農業問題論(段階論に相当する)の理論研究を中心に優れた研究業績をあげてきたが,本論文は世界農業問題論のECに関する現状分析論にあたるものである。

 本論文の構成は次の通りである。

 ヨーロッパ共同体の農業問題

 i.EC農業の現況

 ii.ローマ条約の成立とストレーザ会議

 iii.ECの基本諸機関

 iv.農業圧力団体COPAの組織と機能

 v.共同農業政策CAPの形成

 vi.CAPの具体化

 vii.CAPの矛盾の顕在化―70年代―

 viii.CAPの矛盾の現実的解決―80年代―

 ix.マクシャリー改革―90年代初頭―

 x.CAPの矛盾の二重為替制度への集約―グリーン・マネー問題―

 xi.GATTウルグアイ・ラウンドの農業交渉の妥結

結語

 以下各章の内容を要約,紹介する。

 序及びヨーロッパ共同体の農業問題では,現代の農業問題の特徴を概括し,共同農業政策CAPの歴史的変遷を辿り,農業政策を巡る各国間の対立,また各国とEC理事会との対立,そして農業圧力団体の果たした役割,それらの合力として生み出される妥協という政治過程を焦点として分析し,「迷走を続ける農業政策」のうちに,ECの農業問題を明らかにするという意図が設定されている。

 iからivまでは,準備的考察というべき部分である。まず,EC農業の概況を述べるとともに,EEC成立の前史となるローマ条約の締結過程を整理し,共同農業政策決定の舞台に登場する,ECの基本機関―理事会,閣僚会議,ヨーロッパ議会等と農業圧力団体COPAの解説がなされている。

 vとviは1960年代の共同農業政策CAPの諸制度の形成をめぐる政治過程分析である。農業政策の財政的基礎となる「農業指導・保証基金FEOGA」の制度化,農産物の共同価格水準の決定,共同計算単位の創設,EC予算制度の設立等の過程を政治過程と関連させて分析している。この過程での最大の難関は共同価格の決定であった。それは各国の利害の対立と妥協の複雑な過程を経て,世界市場価格より著しく高い,小農保護価格となった。ECはこの域内高価格維持のために,輸入禁止的な変動輸入課徴金,目標価格,輸出払戻金等一連の保護システムを設定し,そのためFEOGAの支出の大部分はこのシステムを維持する為に費やされ,それがEC財政の70〜80%に達した。構造改善に当てられるべき「指導基金」はしだいに当初の理念を失ない,僅かの金額が割り当てられるだけとなった。こうして域内高農産物価格の維持,それによる過剰農産物の発生,「払戻金」による対外ダンピングというメカニズムが形成された。

 共同価格の実施は1967年であったが,69年に,フランスがフランの切下げを,ドイツがマルクの切上げを行った。その際,両国とも農産物は旧平価を維持した。そのため新旧平価の差額は「貨幣補償額MCA’s]と呼ばれ,輸出入課徴金として収取された。このグリーン・マネーの出現は,事実上の二重為替制度を意味するものであった。

 viiは1970年代のCAPの展開過程の分析である。CAPは絶えざる価格の引き上げ,グリーン・マネーの増幅による価格上昇,農業の機械化,化学肥料,農薬の多投による農業生産の増大,自給率100%以上の産品の増加,過剰の対外ダンピングという悪循環に陥った。こうして過剰農産物の累積,EC財政への過重負担という矛盾が招来された。

 viiiは80年代のCAPの矛盾の顕在化,農産物過剰とEC予算過重負担に対して,「現実的」解決を求める政策が打ち出された過程を分析している。理事会はミルクの生産割当制を提案し,84年から実施に移されたが,過剰問題を解決するには到らなかった。ついで小麦過剰問題か深刻化し,理事会は「最大保証限度量」制度とそれに伴うペナルティとを設ける提案をしたが,生産の増加をくいとめることは出来ず,失敗に終わった。

 ix及びxでは,1989年農業担当理事に就任したマクシャリーが80年代の失敗の総括を行い,EC財政危機回避のために,91年,5カ年計画の改革案を発表し,更に92年7月,グリーンECU廃止案を理事会に提出した,いわゆるマクシャリー改革の分析である。5カ年計画の改革案は,穀物の目標価格の35%カットを柱とし,それによる損失を小農保護を中心に行ない,耕地削減に伴う生産補償金支出も逆進的にするものであった。しかし,これは大農経営を中心とするイギリス,フランスの反対の為に,92年5月,農相会議を通過した時には価格カットは29%であったが,生産補償金は削減面積に比例したものになり,頭初の意図は実現されなかった。

 マクシャリーは改革第2弾として,グリーンECU廃止案を提起した。92年5月にはじまったヨーロッパ為替制度の危機は,イギリスをはじめ多くの加盟国を上下各2.25%の固定相場制から下方へとシフトさせ,93年7月には,フランの離脱によって8月から上下各7.5%の幅をもつ為替相場制に移行せざるを得なくなった。そしてこの過程で,ECUからの乖離率が20.7%に増大していたグリーンECUを凍結し,それに加えて,5%幅の「変勤免除額」を各国の平価に認めるという中途半端なシステムであった。これは94年から実施に移されたが,正に彌縫策に過ぎなかった。

 最後のxiでは,ECとアメリカとのウルグアイ・ラウン下での農業交渉とその結着を分析している。ここでもECの立役者はマクシャリーで,彼はフランスの反対を押し切って,アメリカのラディカルな要求をかわし,保護措置の関税化と36%の関税削減で妥結した。しかし重要な点はドゥンケル最終案で生産歪曲的とされていた,生産補償金を保護措置とは見なさないという合意を得たことであった。これが92年11月のワシントン・プレアハウス合意である。しかし、フランスは,農民の反対運動を背景に,農相会議でこの合意内容に執拗に反対しその過程でドイツも反対に回り,93年秋から到頭アメリカとの再交渉に入り,93年12月15日フランスの要求が認められ,プレアハウス第2合意が成立した。つまり,ウルグアイ・ラウンドもECの保護的な共同農業政策の枠組みを突き崩すものではなく,農業問題を根本的に解決するものではなかった。恐らく農業のモータリゼィションや遺伝子工学の発展は,一層農業の生産力を促進し,過剰問題を再び顕在化させ,ECの農業政策を更に混迷させるであろう。

 結語。ヨーロッパ共同体はおよそ40年の歴史を通じて,加盟各国の国民経済的利害―とりわけ農業的利害を根本から解決する統一体を確立することができなかった。つまりそれぞれの農業問題を,EC規模での近代的中規模家族経営の創出によって解決することができず,各国はむきだしのナショナル・インタレストの衝突・調整・妥協を媒介として,結局従来各国で行ってきた,農産物の自給化政策,価格支持政策,輸入規制政策,そして対外へのダンピングをEC規模で体系的に実施したのである。

 II.以上のように,本論文はおよそ40年に及ぶヨーロッパ共同体の共同農業政策の成立,展開過程をその政治過程分析を中心にすえて,詳細に論述した大作である。ぞして,そこにはこれまで解明されて来なかった現代農業問題をめぐる農業政策の多くの論点が展開されている。そのうち,主要な学術的業績と評価しうる論点は以下の如くである。

 第一は,ECの共同農業政策の詳細な政治過程分析によって,EC加盟各国の農業利害の対立と調整の過程を通じて形成,展開されてきたECの共同農業政策の歴史的,規範的位置づけを新しい角度から解明しえているというで点である。とりわけ,農業圧力団体COPAを一つの政策決定のアクターとして重要視し,新しい農民の社会規定を提起していることは特筆される。これまでのECの農業政策の研究は政策内容に関する分析が中心で,その政策内容の形成の政治過程分析という点には,ウエィトが置かれないか,部分的に取り扱われるに過ぎなかったのであるが,本論文は経済政策分析に政治過程分析を詳細に展開し,各国レベルの政策と統合ヨーロッパレベルの関係と各社会階層レベルの利害関係をいわばクロス分析し,新しい角度からECの共同農業政策の歴史的位置づけを行ったのである。

 第二に,これまでECの農業政策研究のなかで,殆ど対象にされて来なかったグリーン・マネーの正確な分析と位置づけを初めで詳細に展開している点が大きな業績として挙げられる。1968年,フランス・フランの切下げとドイツ・マルクの切上げの時に,農産物価格は旧平価を維持したことを契機に,事実上一般為替レートと農業為替レートの二重為替制度が採られることになったのであるが,このグリーン・マネーの問題は共同農業政策のレベルでは,もちろん問題とされいたが,通貨制度全体との関連では,正確に分析,研究されてこなかった。この点は,農業政策上の問題の領域ばかりでなく,今後のEUの通貨統合の展望やその意義とも関連して,新たな問題の所在と位置づけを提起するものである。

 そして,第三に,本論文はEECの発足の前史からはじまって,1994年までのおよそ40年にわたる長いスパンでヨーロッパ共同体の共同農業政策を極めて詳細に,綿密に考察していることである。これまで,例えば,R.フェンネルの「ECの共通農業政策」1987年(The Common Agricultural Policy of European Community,1987,邦訳,大明堂)でも,せいぜい20数年の歴史が扱われいるに過ぎない。この点では,現時点で本論文はもっとも詳細で,包括的なヨーロッパ共同体の農業政策史論といってよい。またそれを通じて,本論文はEC統合を攪乱する各国の利害対立の基礎の一つを,政策決定過程に則して明らかにしているのである。

 III.他方,本論文の問題点をあげれば,次のようである。

 第一に,ECの共同農業政策の評価に関連して,著者はややネガティブな側面を強調しすぎているのではないかという問題である。「迷走する」という表現にも示されているように,政策の積極面の概括に欠けるところがある。農産物過剰というマイナス面が強調され,それが政策的失敗とされるが,他面では,農業の生産の顕著な拡大や農家所得の動向には,旧ソ連等と対比すれば,成功の側面もあると評価すべきであろうし,また全体としては,農業経営規模の拡大に見られる構造変化も進展している。

 第二に,本論文はECの現代農業問題の政策論的現状分析とみられるが,それと本学位申請者の本来の専門である,農業理論との関連が明確ではない点である。確かに,各国農業問題のEC域内での「解決策」としての共同農業政策ということが随所に散見されるが,その歴史的意義についてのまとまった理論的展開はみられない。とりわけ,農業問題は資本主義的には解決できず,社会主義によってのみ解決できるという従来の農業問題理解に対して,ソ連型「社会主義」が崩壊した現在,農業問題の意義の理論的再検討をECの分析を通じて積極的に提起すべきであったろう。

 第三に,共同農業政策が価格支持政策へと一元化されてゆく過程が主に追求さているが,その結果,ECレベルでは切り捨てられていく構造政策などの考察がなおざりにされている。この点は各国毎の国内政策が中心になると思われるが,各国の国内政策と共同政策の関係についての位置づけが不十分となる欠陥を本論文にもたらしているといえよう。

 更に,問題として指摘すべきは,日本のEC農業政策に関する文献に対する言及を欠いていることである。日本のEC農業研究は当初からマンスホルト・ブラン等の構造政策を中心に進められてきたため,著者の関心とずれていたとも考えられるが,基本法農政下でECの農業政策に関心の高かった我が国において,EC農業研究は相当な蓄積がある。全体の論旨にあまり影響はないと思われるが,そのような先行の研究史に目配りをした検討が求められよう。

 このようにいくつかの問題点を含んではいるが,それらはいずれも,IIで述べたような本論文の着実な研究の積極的な成果を相殺する程のものではなく,本論文は全体として,これまでのEC農業政策史論の水準を超え,その研究水準を大きく引き上げる学術的貢献をなすものであると認めることができる。

 以上のような理由により,審査員は全員一致して,学位申請者に「博士(経済学)」の学位を授与することが相当であると認定した。

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