学位論文要旨



No 212389
著者(漢字) 小山,幸子
著者(英字)
著者(カナ) コヤマ,サチコ
標題(和) 雄マウスの行動発現に及ぼす社会的順位と隔離の影響
標題(洋) The effect of dominance status and isolation on the behavior of male mice
報告番号 212389
報告番号 乙12389
学位授与日 1995.06.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12389号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 守,隆夫
 東京大学 教授 木村,武二
 東京大学 教授 川島,誠一郎
 東京大学 教授 松本,忠夫
 埼玉大学 教授 町田,武生
内容要旨

 動物は、それぞれの生息環境への適応に従ってその形態や感覚器系を進化させ、また社会組織を形成してきた。ハツカネズミは、野外においては、活動時間帯が夜間であることや生息場所が観察に困難であることが多いために、その社会組織及びそれに伴う行動特徴については不明な点が多い。しかし、実験室条件下では、集団で飼育を行った場合に優劣関係が生じ、その優劣関係に応じた行動が発現することや、嗅覚に関与した情報伝達物質であるフェロモンが個体の行動発現に影響を及ぼすことが知られてきている。しかしながら、これまでの報告では、優位個体の匂いに対して忌避反応を示すという結果や逆に選好反応を示すという結果があり、統一見解を見ない状態であった。この原因としては、選好性を測定する尺度面での問題と、実験に用いた動物の飼育方法上の問題とが考えられた。従来、選好性の尺度には匂い刺激を付着させた場所への滞在時間を用いることが多かったが、これが真の選好性を表すという保証はない。また、実験に用いた動物の飼育方法では、集団内での優劣関係を確認し維持する形で匂いに対する反応の仕方を見た研究はこれまでに少なかった。しかし、集団内での優劣関係が個体の行動発現に及ぼす影響を知るためには、集団で維持しながら実験に供することが肝要である。本研究では、そこで、まず匂いに対する探索時間と忌避・選好反応とを分けて測定する実験装置を考案した。動物は等距離の2通路のいずれかを選んで餌のあるゴール地点まで行くように訓練された後、通路入り口に匂い刺激が置かれた場合にその刺激のある通路を選択するか忌避するかを10試行テストされた。また、動物は2個体ずつで飼育し、各ペアの中で優劣関係が確認されたペアをそのままペア状態で維持して匂いに対する反応を調べることにより、集団内での優劣順位が他集団個体の匂いに対する反応にどのように影響するかが調べられた。優劣関係の明確化には、他集団個体を侵入させるイントルーダーテストを3週間に渡って9回行った。イントルーダーには優位イントルーダ-1匹と劣位イントルーダ-2匹が用いられた。

実験I:イントルーダーの匂いに対する反応

 一方の通路入り口にイントルーダーテストに使用した他集団個体の匂い刺激を置いて反応を調べた。匂い刺激には、金属板を匂い主のケージ内にテスト前日に2時間、当日に2時間入れて匂いを付着させたものを用いた。その結果、イントルーダーテスト時に優位個体がイントルーダーを攻撃したペアでは優位イントルーダーの匂いのある通路を劣位個体が有意に選好し、劣位イントルーダーの匂いのある通路を優位個体が忌避した。また、イントルーダーテスト時に優位個体がイントルーダーと互角に闘ったペアでは、忌避・選好反応にははっきりとした偏りが見られず、匂い刺激に対する探索時間が非常に長かった。つまり、匂いに対する反応は、反応動物側の優劣順位と匂い主側の優劣順位、そして過去遭遇時の相互作用内容によってはっきりと異なることがわかったのである。また、忌避・選好の選択と探索時間とは全く関連がなく、別尺度であることも本実験によって明かとなった。(第1章)

実験II:未知個体の匂いに対する反応と出会わせ場面での行動

 過去遭遇時の他個体との相互作用内容が匂いに対する反応に及ぼす影響を調べるために、次に、未知個体の匂いに対する反応が調べられ、また匂いテスト後に匂いの主と中立的な場所で10分間出会わせを行って匂いに対する反応と遭遇時の行動との関係が調べられた。その結果、全体的には忌避・選好性は見られなかったが、優位個体の匂いに対しては特に最初の5試行と後半の5試行とで反応の変化が大きく、劣位個体の匂いに対してはそのような変化が見られなかった。これは優位個体の匂いの刺激価の大きさを示していると考えられた。探索時間の長い優位個体は後の出会わせテストで相手個体を攻撃する傾向が見られた。また、出会わせテストでは、優劣順位によって社会的行動の行われる量が異なり、劣位個体に対しては行動が多く行われることがわかった。劣位個体の非攻撃的行動特徴が他個体の社会的行動を多く生じさせる役割を果たすと考えられた。(第2章)

実験III:中立的場所での出会わせとその相手個体の匂いに対する反応

 中立的な場所で先に出会わせた後にその個体の匂いに対する反応を調べた。出会わせテストでは、実験IIでのように先に匂いテストを行ってこれから出会う動物についての匂い情報を予め与えてから出会わせを行った場合に比べて、実験IIIでのように先行情報なしに出会わせられた方が社会行動の量が多いことがわかった。これは、先に匂いによって情報が与えられると情報収集必要性が減少することを示していると考えられた。しかし、出会わせテスト後の匂いテストでは、匂いテスト前の出会わせ時に攻撃が行われたかどうかにかかわらず明確な忌避・選好性が欠如し、中立的な場所での出会わせは明確な忌避・選好性を生じさせる役割を持たないと言えた。(第3章)

実験I、II、IIIの比較

 以上の実験を比較すると、イントルーダーテストで使用した個体の匂いに対して実験Iで見られた明確な反応は、既知個体であるために生じたのではなく、ホームケージに侵入した個体の匂いであったことが原因だとわかった。また、匂い探索時間は、実験Iにおいてイントルーダーテスト時に互角に闘争が見られた個体によるものが有意に長かった。ホームケージ侵入個体であることと、攻撃行動の種類が匂いに対する反応の決定に大きく関与することがわかった。(第4章)

優劣個体の短期個別飼育が行動発現に及ぼす影響

 次に、他個体の匂いに対する反応が飼育環境によってどのように変化するかを調べるために、ペア飼育状態において優劣順位を確認した上で個別飼育に移してイントルーダーテストを続け、3週間後に中立的な場所での出会わせテストと匂いテストを行った。その結果、優位個体は個別飼育転換後2週間までにイントルーダーへの攻撃個体が一旦半数に減少した。しかし、3週間後の中立的場所での出会わせテストでは、ペア飼育個体より有意に多くの個体が攻撃を行った。一方、劣位個体は個別飼育転換後直線的にイントルーダーに対する攻撃が増加した。また、出会わせテスト時における行動では、元優位個体と元劣位個体の間の差は減少し、その後の匂いテストでは、どちらにも優位個体に対する忌避反応が見られた。元優位個体では、出会わせテストで攻撃を示した個体において匂い探索時間が長く、探索時間の長さと攻撃行動発現の間の関係が確認された。このように、優劣の明確に見られたペアは個別飼育に移すことによって、優劣の違いによる行動差が縮まり、匂いに対してはどちらにも忌避性が見られるように変化したのである。(第3章)

離乳直後からの個別飼育が行動発現に及ぼす影響

 ここで、次に、このような他個体の匂いに対する反応の生得的性・獲得性について調べられた。離乳直後より個別飼育を行うとネズミは優劣関係を経験することができない。このような個体が匂いに対してどのように反応するかを調べ、さらに匂いテスト後に出会わせテストを行って、匂いに対する反応と匂いの主に対する行動との間に関連性が見られるかどうかを調べた。その結果、離乳直後より個別飼育を行うと、ペア飼育された個体の場合には見られるような反応特徴が全く見られず、匂いに対する反応が離乳期以後に他個体との社会的経験によって獲得されるものであることが明らかになった。(第2章)

総合討議

 以上のように、本研究では、従来よく用いられてきた手法である匂い刺激の付着した場所での滞在時間測定が匂いに対する忌避・選好性を測定するのには全く不適格なものであることが明らかになった。また、匂い探索時間の長い優位個体で攻撃行動の発現が見られた事は、探索時間の長さと攻撃行動との関わりを明かにした意味で有意義であるばかりでなく、時間長を選好性と関連させて考えることが必ずしも適格でないことも示している。匂いに対する反応では、反応側と匂い主側の双方の優劣順位が反応に影響を及ぼすことが示され、優位個体では忌避反応が特徴的に見られ、劣位個体では優位個体に対する選好反応が特徴的に見られた。優劣順位の違いによるこのような匂い反応の違いは、野外でのハツカネズミの生態報告を加味して考えると、テリトリー保有個体がテリトリー外で他個体を忌避し、テリトリー非保有個体が移動性反応をテリトリー保有個体の匂いに対して示したものと考えられた。成熟後の個別飼育は、他個体との遭遇時には多くの攻撃行動を発現させ、匂いに対しては忌避反応として現れた。これらの反応についても個別飼育によってホームケージを占有することにより排他性が高まり、テリトリー保有個体に特徴的反応が更に強まったものと考えられる。また、離乳直後からの個別飼育は、離乳期以後の社会的経験が社会行動の発達にとって肝要であることを示しており、これは野外におけるネズミの生活史を考える上でも示唆に富んでいると思われた。

審査要旨

 本論文は雄マウスの優劣関係が、他個体の匂いの探索ならびに匂いの選好にどのように影響するかを、他個体の社会的地位をも考慮に入れて解析した結果を述べたものであり、4章からなっている。第1章はホームケージに侵入したことのある他個体の匂いに対する反応、第2章は未知他個体の匂いに対する反応と、その個体との出会いにおいて行われる行動、ならびにこれらの反応に対する隔離飼育の効果、第3章は中立的場所で出会ったことのある他個体の匂いに対する反応についてそれぞれ述べ、第4章ではこれらの異なる条件下での反応の違いを比較検討している。マウスが嗅覚に依存したコミュニケーションを行うことはよく知られているが、雄間の匂いに対する反応、特に選好性については一致した結果が得られていなかった。本研究では、匂いの探索と匂いへの選好性とを区別して測定する実験法を考案して、より厳密な解析が行われた。

 第1章ではペアで居住している雄に他の雄を繰り返し侵入させた後、Y型走路の一方に侵入個体の匂いをつけ、その匂いに対する探索時間を測定するとともに、どちらの走路を通ってゴールへ行くかによって匂いへの選好性を測定した。居住個体、侵入個体ともそれぞれのホームケージでの優劣が確定しているものを用いた。その結果、走路の選択からみると、侵入個体を一方的に攻撃した優位居住個体は劣位侵入個体の匂いを忌避し、劣位居住個体は優位侵入個体の匂いを選好することが分かった。侵入個体と互角の闘争が見られた場合にはこのような選好・忌避性は見られなかった。一方、匂いの探索時間はこのような選好性とはまったく無関係であった。この結果は雄マウスの他個体の匂いに対する反応が自身の社会的地位と、匂いの提供者である他個体の社会的地位の両者によって変化することを示している。また、従来選好性の指標とされてきた匂い探索時間が、真の選好性を示すものではないことが示唆された。

 第2章では過去に出会ったことのない未知個体の匂いに対する反応が同じ装置で調べられ、その後に中立的な場所での出会わせテストが行われた。この場合には居住個体の優劣、未知個体の優劣ともに匂い選好性に明確な傾向は見られなかったが、複数回行われた反応測定での選好性の変化が未知の優位個体では大きく、未知個体の優劣が区別されていることが示された。匂い探索時間にも第1章と同様選好性との関係は見られなかったが、居住優位個体では匂いを長く探索した場合、後にその匂い主の個体を攻撃する頻度が高いことが示され、攻撃行動と匂い探索との間には関係があることが示唆された。一方、離乳直後から隔離飼育された個体ではこのような反応特徴はみられず、このことから匂いに対する反応に社会的経験が関与することが明らかとなった。第1章と比較すると、匂い選好性の発現には相手が既知であるか未知であるかが関係する可能性が考えられた。

 第3章では、この可能性をさらに検討するため、中立的な場所で他個体に出会わせた後にその個体の匂いに対する反応が調べられた。この場合には第1章の結果と異なり、明確な選好性も忌避性も見られなかった。この結果から、匂い選好性を決定するのは単に既知かどうかではなく、その匂いの主が居住地に侵入した個体であるかどうかであることが明らかとなった。またペア間で優劣が確定した後に短期間隔離を行うと、優劣の違いによる行動差が縮まり、また他個体の匂いへの忌避性が高まることが分かった。また、ここでも攻撃行動の発現と匂い探索時間との間に関係があった。これはテリトリーを優位に保有することが忌避性を高めることにつながる可能性を示している。

 以上をまとめると、従来安易に選好性の指標とされていた匂い探索時間は、本研究でみる限りまったく選好性とは関係がなく、むしろ攻撃行動と関連した別個の指標として扱うべきであることが明確に示され、これまでの先行研究の欠陥が明らかとなった。また、優位他個体と劣位他個体に対する反応の違いから、雄マウスは既知か否かに関係なく他個体の社会的地位を匂いで区別できることも示された。さらに、侵入個体の匂いと、中立的場所で出会った個体の匂いに対する反応の違いから、テリトリーの内部での出会いがその後の選好性に重要な影響を及ぼすこと、テリトリー保有(優位)個体はテリトリー外では他個体の匂いを忌避する傾向が強いことが示された。この事実は野生マウスので報告されている生態学的研究を行動学的に補完する知見といえる。以上の業績は生物学、特に動物行動学の発展に貢献するものであり、博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものと認める。

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