本論文は雄マウスの優劣関係が、他個体の匂いの探索ならびに匂いの選好にどのように影響するかを、他個体の社会的地位をも考慮に入れて解析した結果を述べたものであり、4章からなっている。第1章はホームケージに侵入したことのある他個体の匂いに対する反応、第2章は未知他個体の匂いに対する反応と、その個体との出会いにおいて行われる行動、ならびにこれらの反応に対する隔離飼育の効果、第3章は中立的場所で出会ったことのある他個体の匂いに対する反応についてそれぞれ述べ、第4章ではこれらの異なる条件下での反応の違いを比較検討している。マウスが嗅覚に依存したコミュニケーションを行うことはよく知られているが、雄間の匂いに対する反応、特に選好性については一致した結果が得られていなかった。本研究では、匂いの探索と匂いへの選好性とを区別して測定する実験法を考案して、より厳密な解析が行われた。 第1章ではペアで居住している雄に他の雄を繰り返し侵入させた後、Y型走路の一方に侵入個体の匂いをつけ、その匂いに対する探索時間を測定するとともに、どちらの走路を通ってゴールへ行くかによって匂いへの選好性を測定した。居住個体、侵入個体ともそれぞれのホームケージでの優劣が確定しているものを用いた。その結果、走路の選択からみると、侵入個体を一方的に攻撃した優位居住個体は劣位侵入個体の匂いを忌避し、劣位居住個体は優位侵入個体の匂いを選好することが分かった。侵入個体と互角の闘争が見られた場合にはこのような選好・忌避性は見られなかった。一方、匂いの探索時間はこのような選好性とはまったく無関係であった。この結果は雄マウスの他個体の匂いに対する反応が自身の社会的地位と、匂いの提供者である他個体の社会的地位の両者によって変化することを示している。また、従来選好性の指標とされてきた匂い探索時間が、真の選好性を示すものではないことが示唆された。 第2章では過去に出会ったことのない未知個体の匂いに対する反応が同じ装置で調べられ、その後に中立的な場所での出会わせテストが行われた。この場合には居住個体の優劣、未知個体の優劣ともに匂い選好性に明確な傾向は見られなかったが、複数回行われた反応測定での選好性の変化が未知の優位個体では大きく、未知個体の優劣が区別されていることが示された。匂い探索時間にも第1章と同様選好性との関係は見られなかったが、居住優位個体では匂いを長く探索した場合、後にその匂い主の個体を攻撃する頻度が高いことが示され、攻撃行動と匂い探索との間には関係があることが示唆された。一方、離乳直後から隔離飼育された個体ではこのような反応特徴はみられず、このことから匂いに対する反応に社会的経験が関与することが明らかとなった。第1章と比較すると、匂い選好性の発現には相手が既知であるか未知であるかが関係する可能性が考えられた。 第3章では、この可能性をさらに検討するため、中立的な場所で他個体に出会わせた後にその個体の匂いに対する反応が調べられた。この場合には第1章の結果と異なり、明確な選好性も忌避性も見られなかった。この結果から、匂い選好性を決定するのは単に既知かどうかではなく、その匂いの主が居住地に侵入した個体であるかどうかであることが明らかとなった。またペア間で優劣が確定した後に短期間隔離を行うと、優劣の違いによる行動差が縮まり、また他個体の匂いへの忌避性が高まることが分かった。また、ここでも攻撃行動の発現と匂い探索時間との間に関係があった。これはテリトリーを優位に保有することが忌避性を高めることにつながる可能性を示している。 以上をまとめると、従来安易に選好性の指標とされていた匂い探索時間は、本研究でみる限りまったく選好性とは関係がなく、むしろ攻撃行動と関連した別個の指標として扱うべきであることが明確に示され、これまでの先行研究の欠陥が明らかとなった。また、優位他個体と劣位他個体に対する反応の違いから、雄マウスは既知か否かに関係なく他個体の社会的地位を匂いで区別できることも示された。さらに、侵入個体の匂いと、中立的場所で出会った個体の匂いに対する反応の違いから、テリトリーの内部での出会いがその後の選好性に重要な影響を及ぼすこと、テリトリー保有(優位)個体はテリトリー外では他個体の匂いを忌避する傾向が強いことが示された。この事実は野生マウスので報告されている生態学的研究を行動学的に補完する知見といえる。以上の業績は生物学、特に動物行動学の発展に貢献するものであり、博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものと認める。 |