学位論文要旨



No 212403
著者(漢字) 早川,和久
著者(英字)
著者(カナ) ハヤカワ,カズヒサ
標題(和) 培養網膜血管内皮細胞に対するグルコースおよびインスリンの影響
標題(洋)
報告番号 212403
報告番号 乙12403
学位授与日 1995.06.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12403号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,幸治
 東京大学 助教授 安藤,譲二
 東京大学 助教授 多久和,陽
 東京大学 助教授 新家,眞
 東京大学 助教授 福地,義之助
内容要旨

 糖尿病網膜症の組織学的特徴は、血管周囲細胞の脱落、基底膜の肥厚、細小血管瘤の形成、血管内皮細胞の増殖であるとされる。これらの変化は、血液の易凝固性や赤血球の変形能の低下などと相まって、局所の血栓形成に関与する事が指摘されている。また、生理学的には網膜細小血管や網膜色素上皮細胞の物質透過の亢進(血液網膜柵の破綻)が臨床所見に先行して生じることが知られている。血管内皮細胞の遊走、増殖、接着及び物質透過に基底膜蛋白が重要な役割を果たすことから、血管内皮細胞と基底膜が糖尿病状態に於いて相互に作用しあい網膜病変の形成に寄与していると推測された。そこで、ウシおよびブタ網膜血管内皮細胞の培養系を確立し、内皮細胞に対して高グルコース環境およびインスリンがどのような影響を及ぼすかについて、1)内皮細胞増殖、2)内皮細胞基底膜蛋白(IV型コラーゲン)新生、3)分子量4千デキストランの透過性の3点について検討する目的で実験を行った。

1)細胞増殖に対する影響

 5-6継代のウシ網膜血管内皮細胞を5.6mMまたは25mMグルコース培養液で、24時間(対数期)または4日間(静止期)培養した後にそれぞれ5.6、11、17、25mMグルコース培養液および浸透圧のみ変化させた培養液に交換した(2次培養)。 3H-チミジンの細胞への取り込みをインスリン0.2g/ml(35nM)添加と非添加の2群に分けて検討した。インシュリン非添加ではグルコース濃度の変化はチミジン取り込みに影響しなかったが、インスリン添加ではグルコース濃度増加はチミジンの細胞への取り込みに抑制的に作用した。また、浸透圧の変化はチミジン取り込みに影響を及ぼさなかった。

2)IV型コラーゲン産性に及ぼす影響

 グルコース濃度を5.6、または25mMに調整したブロリン非含有、75g/mlアスコルビン酸および50g/mlフマル酸アミノプロピオニトリル含有DMEMで培養した。インスリンの影響は、35nMに添加したものと添加しなかった群とを比較した。ある群はさらに、増殖抑制のために1mMヒドロキシウレアを添加した。培養液交換30分後に、L-{U-14C}プロリンを添加して24時間培養を継続した。細胞と培養液から蛋白を抽出し蛋白分解を抑制しながらコラーゲンの精製操作をおこない放射活性で定量した。あわせて、SDSポリアクリルアミド電気泳動とフルオログラムで定性的に分析した。

 表1のごとくグルコース濃度にかかわらずインスリンは、標識蛋白の産生を有意に刺激した(p<0.05)。培養グルコース濃度が、25mMの場合は5.6mMと比べて有意に放射活性が増加していた(p<0.05)。増殖抑制の場合のグルコース、インスリンの影響を同様に示す(表2)。グルコース濃度にかかわらず、インスリンはIV型コラーゲン産生を刺激するが、培養グルコース濃度の違いによる影響はなかった。フルオログラムでは培養グルコース濃度やインスリン刺激により特異な蛋白の出現はみられなかった。

3)物質透過に対する影響

 混合セルロースエステル膜(ミリセルHA)に約10日間培養を継続し、コンフルーエントは、膜の内外の電気抵抗をミリセルERSで測定し約90/cm2の高い抵抗が得られることで確認した。トレーサーは、分子量4,000と70,000のフルオレセイン イソチオシアネート デキストラン(FD)を用いた。透過量の測定はフルオロトロンマスター(コヒレント社)を用い、測定精度は5.0×10-8Molであった。管腔側のFD分子量及び反応温度と透過率の関係を図1に示す。70kDaでは反応温度と無関係に、0.05nmol/cm2hと著しく低い透過率であった。4kDaでは4℃で1.3±0.3、37℃で1.85±0.15nmol/cm2hであり、温度による影響がわずかにみられたが有意の差ではなかった。以後の実験は4kDaを用いFD4と略す。内腔側に50nmolのFD4を添加し、基底側への透過量を経時的に計測した。グルコースおよびインスリンの影響を評価するために、コンフルーエントの確認後2週間、5.6mMまたは25mMのグルコース含有培養液で培養した後、それぞれについてさらに24時間、35nMインスリン添加群と非添加群とに分類して培養を継続した。これらの4群に対して、FD4の透過実験を37℃及び4℃で行い透過量、単位面積単位時間当たりの透過率を比較検討した。また細胞接着を可逆的に傷害するサイトカラシンBを10M添加してFD4透過性に与える影響についても検討した。管腔側から基底側へのFD4の透過性は、基底側FD濃度を継時的に測定することで評価した。管腔側FD4濃度と1時間の透過率の関係を図2に示す。FD4濃度が6.2から50Mまでは、透過率とほぼ正の相関を示すがそれ以上の濃度ではなだらかな増加にとどまっているが明らかなプラトーは形成していない。サイトカラシンB、インスリンの透過率への影響と反応温度の関係を図3に示す。サイトカラシンBにより透過率は、13.5nmol/cm2hと約8倍に達しているが反応温度による影響は有意ではなかった。インスリンは、透過率を約1/2に減少させるがやはり、反応温度による影響は有意でなかった。

 予め5.6および25mMのグルコース濃度で2週間培養した後に管腔側から基底側への透過実験を行い基底側のFD4濃度を継時的に測定した(図4)。細胞を培養していない状態をブランクとして点線で記載してあるが、20分ですでに20nMが透過した。5.6mMグルコース培養では、60分以降の透過量の増加が少なくプラトーとなるが、25mMol培養では60分以降も透過量の増加がみられた。培養グルコース濃度に関係なく、3.5nMインスリンは有意に透過量を減少させた。

図表図1 フルオレセインデキストラン分子量、反応温度と透過率の関係 / 図2 初期温度と透過率の関係図表図3 インスリン、サイトカラシンBの影響 / 図4 グルコースおよびインスリンの影響 / 表1:新生IV型コラーゲン(14Cプロリン標識)放射活性への培養グルコース濃度とインスリン刺激の影響 / 表2:新生IV型コラーゲン(14Cプロリン標識)放射活性への培養グルコース濃度とインスリン刺激の影響(1.0mMolヒドロキシウレアにより増殖抑制)
考案

 培養網膜血管内皮細胞の細胞増殖に及ぼすグルコース濃度変動の影響はみられなかった。しかし、対数増殖期の細胞で35nMインスリン存在下では、生理的グルコース濃度(5.6mM)から16.7mM以上に上昇させると有意にチミジン取り込みが抑制された。この現象は、グルコース濃度を変化させずに、浸透圧をマンニトールを用いてグルコース濃度上昇に見合うだけ変化させた場合にはみられなかった。従って、浸透圧ではなくグルコース濃度の増加がインスリンの増殖刺激作用を抑制したことが示唆される。

 高グルコース培養が網膜血管内皮細胞の基底膜構成蛋白(IV型コラーゲン)産生を刺激するという結果を得た。Caglieroらは、ヒト臍帯静脈血管内皮細胞を用いてIV型コラーゲン、ラミニンのm-RNA量を半定量する方法で、高グルコース培養が基底膜構成蛋白の産生を刺激すると報告し本邦でも同様の結果が報告されている。しかし網膜血管内皮細胞を用いてこのことを証明したのは我々が始めてである。今回は、基底膜物質の分解については検討していないがおそらく、網膜血管内皮細胞基底膜物質のturnoverに培養グルコース濃度やインシュリンが影響を与えていると推測される。

 網膜血管内皮細胞の培養状態での物質透過を蛍光測光で測定した。R1標識トレーサーを用いた場合と比較すると精度が低いが、それでもインスリンによるFD4透過の抑制が確認できた。透過性測定の際に、反応温度による影響が殆どみられず、基質濃度と透過濃度の関係に閾値がみられないことから細胞間隙を通る受動輸送と考えられた。インスリンの高分子透過への抑制機序は不明だが、基底膜蛋白産生刺激や網膜血管内皮細胞増殖刺激の関与も否定できない。培養グルコース濃度が高い(25mM)場合には、2時間後の透過量がインスリンの有無に関わらず、有意に高かった。このことは、高グルコース培養そのものが、網膜血管内皮細胞の高分子透過性を亢進させる可能性を示している。

まとめ

 糖尿病網膜症の基本病態である、基底膜肥厚、透過性亢進、細胞増殖を網膜血管内皮細胞の培養系を用いて検討するためのモデルの作成を試みた。ウシ培養網膜血管内皮細胞の増殖と基底膜蛋白(IV型コラーゲン)産生を定量するモデルを作成し、高濃度インスリン刺激で有意に刺激されることが確認された。従来の報告どうり高グルコース培養で培養網膜血管内皮細胞のIV型コラーゲン産生が亢進した。ブタ培養網膜血管内皮細胞を半透膜に培養しFITCデキストランの透過量を測定した。網膜血管内皮細胞を用いた物質透過性実験の系はこれまで報告がなく今後有用なモデルとなり得る。インスリン刺激はFITCデキストラン透過を抑制し、高グルコース環境がインスリンの作用に対して抑制的に働いた。グルコース濃度の網膜血管細胞増殖に対する影響は、24時間のチミジン取り込みで検討した。非生理的な高濃度インスリンによる増殖刺激状態においてはグルコース濃度が高いとDNA複製量が低下した。増殖が刺激されていない場合にはグルコース濃度とDNA複製量に有意の関係はみられなかった。

審査要旨

 本研究は、糖尿病網膜症の基本病態である、網膜血管基底膜肥厚、透過性亢進、血管内皮細胞増殖を検討するためのモデルの作成を網膜血管内皮細胞の培養系を用いて試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.14C標識プロリンを用いてウシ培養網膜血管内皮細胞の基底膜蛋白(IV型コラーゲン)産生を定量するモデルを作成し、高濃度インスリン刺激および高グルコース培養で有意にIV型コラーゲンの新生が刺激されることが確認された。これは、ヒトの臍帯静脈由来の培養血管内皮細胞では報告されていたが、網膜血管内皮細胞で確認された初めての報告であり、このことが特出すべき点である。

 2.血管内皮細胞の物質透過性に関する研究として、ブタ培養網膜血管内皮細胞を半透膜に培養しFITCデキストランの透過量を測定した。インスリン刺激を行うことによりFITCデキストランの透過は抑制された。高グルコース環境では、FITCデキストランの透過は亢進しておりインスリン刺激を行っても、FITCデキストランの透過は抑制されなかった。網膜血管内皮細胞を用いた物質透過性実験の系はこれまで報告がなく、今後サイトカインに関する研究、薬剤の毒性の検討などに応用が可能である。

 3.グルコース濃度の網膜血管細胞増殖に対する影響は、24時間のチミジン取り込みで検討した。非生理的な高濃度インスリンによる増殖刺激状態においてはグルコース濃度が高いとDNA複製量が低下した。増殖が刺激されていない場合にはグルコース濃度とDNA複製量に有意の関係はみられなかった。

 以上、本論文は培養網膜血管内皮細胞を用いて、基底膜新生、内皮細胞透過性、内皮細胞増殖の3点について検討する実験モデルの作成を行ない、今後このモデルを応用する際の基礎データを示した。本研究は、これまで未知に等しかった網膜疾患に対する網膜血管内皮細胞の関与を具体的に検討する実験モデルを作成したことで、糖尿病網膜症をはじめ多くの眼底疾患の基本病態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53921