学位論文要旨



No 212406
著者(漢字) 馬場,紀行
著者(英字)
著者(カナ) ババ,ノリユキ
標題(和) 長期保存乾燥細胞診標本による乳癌ホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定
標題(洋)
報告番号 212406
報告番号 乙12406
学位授与日 1995.06.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12406号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 町並,陸生
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 助教授 坂本,穆彦
 東京大学 助教授 松谷,章司
 東京大学 講師 松本,俊夫
内容要旨

 乳癌の治療法としての内分泌療法はその歴史が長く、近年においては優秀な抗ホルモン剤が開発されたこともあり、治癒手術後の補助療法あるいは進行、再発乳癌症例に対する集学的治療の一環として広く施行されている。内分泌療法の有効性は、乳癌細胞中に含まれるestrogen receptor(ER)、progesterone receptor(PR)の含有量と関係することが知られており、これらのホルモンレセプターを定量測定するためにはDextran-coated-charcoal(DCC)法、あるいはenzymeimmunoassay(EIA)法検査を施行する必要がある。しかしこれらの定量測定法はいずれも検査手技が複雑で長時間を要し、また検査のためには0.5g程度の量の検体を消費する。定性的検査法である免疫染色においては、より少ない量の検体にても検査を施行することが可能であるが、新鮮凍結切片において施行された染色所見がより信頼性が高いといわれている。このため定量測定法の場合と同じく、凍結や-60℃以下の低温にて検体を保存するための設備と手間を要する。これらの検査法では小腫瘤症例、切除不能症例におけるホルモンレセプター測定検査は施行することが困難であった。これらの問題を解決し、より多くの施設におけるER、PRの測定を可能とするにためは、従来の方法より測定操作が簡便でdeep freezer等による保存を要さず、少ない標本量にても実施可能なレセプター測定検査法の開発が必要である。免疫染色のために長期間保存された乾燥細胞診標本を用いることがもし可能となればこれらの問題点は解決可能であると考えられた。そこで本研究においては、長期間乾燥細胞診標本を保存しても、不安定な抗原の変性が軽度でER、PRの免疫細胞化学的な同定が可能となるような固定、保存法の開発を目指した。

 まずER、PRの免疫染色のために適した固定液を決定するために、Carson液、4%Paraformaldehyde in phosphate buffer、pH7.4(PFA)、Zamboni液、95%ethanolにて乳癌捺印細胞診標本を固定し、抗ER、抗PRラットモノクローナル抗体 (いずれもAbbott、Chicago、USA)にて免疫染色を施行し、ER、PRの染色所見を比較した。その結果Zamboni液にて固足すると最も鮮明な免疫染色結果がえられることが明らかとなった。

 次いで、固定後の乾燥細胞診標本をCrawfordらが考案した検体保存液内に入れて-20℃の温度にて保存してから免疫染色を施行し、染色所見の経時的変化について検討した。また条件を変えて、検体保存液の代わりにPBS内に入れて4℃の温度にて保存、あるいは未固定の細胞診標本をPBS内に入れて4℃にて保存、検体保存液内にいれて-20℃にて保存する4通りの方法で細胞診標本を固定、保存した後免疫染色を施行し、ER、PRの染色所見を比較した。その結果、固定後検体保存液内につけて-20℃にて保存した場合においてのみ、保存開始後8週間以上経過しても免疫染色による正確なER、PRの同定が可能であることが明らかとなった。

 以上のことから長期間保存された乾燥細胞診標本を用いて免疫染色にてER、PRを同定するには、まず細胞診標本をZamboni液で固定することが重要であり、固定後の標本を検体保存液中に入れて-20℃の温度で冷蔵すればよいと結論した。

 このような結果をもとに決定された固定、保存法を26例の乳癌症例より作製された乾燥捺印細胞診標本に施行し、経時的にER、PRの免疫染色を行い染色所見を観察した。その結果免疫染色の所見は、保存後8週以上の期間においても信頼性が高く、また新鮮凍結切片を材料として施行された免疫染色所見とよく一致すること確認された。しかし定量検査法であるEIA法とは、PRに関して結果が一致しない症例が2例あった。これは免疫染色法が腫瘍組織におけるER、PRの存在を肉眼的に確認できる検査法であるのに対して、定量検査法はレセプター量を間質をも含んだ全腫瘍組織における単位タンパク量あたりに平均化して計算するためであると考えられた。

 次いで本法の臨床応用を試みた。まず20例の乳癌症例の穿刺吸引細胞診標本を外来診察時に採取し、後日これを免疫染色してER、PRの同定を行い、手術あるいは生検によってえられた切除標本より作製した凍結切片における免疫染色所見と比較した。その結果、sensitivity,specificityいずれも満足のいく結果をえることができた。

 次に、検査用の検体の確保が難しく従来の方法ではER、PRの測定検査が困難であった8例の小腫瘤症例に対し、捺印あるいは穿刺吸引細胞診標本を用いたER、PRの免疫細胞化学的同定を試みた。腫瘤経わずか5mmの症例からも多数の乾燥細胞診標本を作製することが可能であり、ER、PRの同定は容易であった。今後は小腫瘤乳癌症例のER、PR測定検査はこのような免疫細胞化学的方法が望ましいと思われた。

 最後に切除不能病巣から穿刺吸引細胞診標本を採取し、免疫染色によるER、PRの同定を試みた7例の症例を呈示した。穿刺吸引細胞診検査はかなり状態の悪い症例に対しても安全に施行可能であり、このようにしてえられた細胞診標本を免疫染色することにより、合理的な内分泌療法を選択することが可能になるであろうと期待された。

 この研究によって開発された長期間保存した乾燥細胞診標本をER、PRの免疫染色に用いるための固定法、保存法は手順が簡便で特殊な機器や薬剤を必要としないので多くの施設で直ちに導入可能である。本方法によれば従来免疫染色用の標本としては不適当とされていた乾燥細胞診標本を用いて、標本固定後通常型の冷蔵庫内で2カ月以上保存した場合においても信頼性のある免疫染色所見がえられ、正確にER、PRの同定が可能である。従来の定量測定法や新鮮凍結切片を用いた免疫組織化学的同定法と比較して、乾燥細胞診標本を用いたER、PRの免疫細胞化学的同定法は乳癌診療上より実用性に富む画期的な方法であると考える。

審査要旨

 本研究は、乳癌の内分泌療法の適応を決定する上で重要な腫瘍組織中のホルモンレセプターの測定検査を簡易化するために、従来免疫染色の材料としては不適当であると考えられていた長期保存された乾燥細胞診標本を材料として用い、免疫細胞化学的にホルモンレセプターを同定することが可能となるような標本の固定法、保存法の考案と臨床応用を目的としてなされた研究である。特殊な試薬や装置の使用を避け、保存温度条件をdeep freezerを要さない-20℃程度として設備に恵まれない一般的な施設における幅広い普及を目指した点に独創性がある。本論文においては、先ず乳癌症例の切除標本より多数作製した捺印細胞診標本を冷風乾燥後、固定、保存に関する条件を変えて長期間保存し、信頼性のある免疫細胞化学的なホルモンレセプターの同定が可能となるような固定、保存法について検討した。また、このような実験結果から最適と考えられた固定、保存条件に保存された多数例の乾燥捺印細胞診標本を経時的に免疫染色し、信頼性のおけホルモンレセプターの同定が可能である保存期間の長さについて検討した。さらに臨床応用として、外来診察時に採取された穿刺吸引細胞診標本を材料としたホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定、小腫瘤症例よりえられた細胞診標本を用いたホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定、切除不能症例より採取された穿刺吸引細胞診標本を用いたホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定を試みた。研究結果は下記の通りである。

 1.未固定の乾燥細胞診標本を-20℃の温度で長期保存するとホルモンレセプターの抗原活性は維持できず、免疫細胞化学的な同定は不可能となることが判明した。

 2.乾燥細胞診標本におけるホルモンレセプターの抗原活性を長期間維持するためにはまず固定(特にZamboni液固定がよい)し、次いで検体保存液(PBS+Glycerol等量混合液ベース)内に浸けて-20℃にて冷蔵することが重要であることが示された。

 3.2.の条件で固定保存された乾燥細胞診標本を材料として用いたホルモンレセプターの免疫細胞化学的な同定結果は、新鮮凍結切片を用いた免疫組織化学的同定結果や、組織抽出液を用いたEIA法による定量測定結果とよく一致し、8週間以上保存しても信頼性のある同定結果がえられることが示された。

 4.外来診察において、腫瘤穿刺吸引細胞診標本を用いればホルモンレセプター量の精度の高い術前評価が可能であるが、腫瘍組織中におけるレセプター分布の不均一性によりfalse negativeと判定する危険があることに注意せねばならないことが示された。

 5.腫瘤径の小さな症例においても、腫瘤捺印細胞診標本を用いれば殆ど検体を消費することなく正確なホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定ができるので、病理組織診断に支障をきたすことなくレセプターを同定することが可能であることが示された。

 6.切除不能の進行、再発乳癌症例においても穿刺吸引細胞診標本を用いたホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定が可能であり、内分泌療法の適応を合理的に決定することが可能であることが示された。

 以上本論文は基礎的な研究として、従来免疫染色の対象としては不適当とされていた乾燥細胞診標本をZamboni液にて固定し、検体保存液内に浸けてることによって、一般に普及している冷蔵庫の冷凍温度である-20℃前後の温度帯で8週間以上保存しても正確な乳癌のホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定が可能であることを示した。特にこの固定法、保存法を施行された乳癌乾燥細胞診標本におけるホルモンレセプターの免疫細胞化学的同定結果が、新鮮凍結切片を用いた免疫組織化学的同定結果とよく一致することを示すことにより、従来のホルモンレセプター検査と比較して信頼性の点で遜色がないことを示している。また、乾燥細胞診標本を作製、固定、保存する際に特殊な試薬や器機を用いることなく手技的にも極めて簡便となるように工夫したことで、多くの一般的な施設での外来診療における乳癌のホルモンレセプター検査を可能とし、臨床的な実用性が高いことが示されている。将来、乳癌治療においては、治療方針の決定や予後を予測するための指標となる因子やマーカーを手術前に評価することが重要視され、また診断法の進歩により腫瘤径の小さな早期症例が増加することが予想される。乾燥細胞診標本を用いた免疫細胞化学的同定法は、簡便で正確な術前評価の手段として、また早期症例から多くの治療、予後に関する情報を収集するための手段として非常に有用であろうことが予想される。また、これまで検査用の検体をえることが困難であった切除不能の進行、再発乳癌症例においてもホルモンレセプター検査が可能となり、内分泌療法の適応を的確に決定できることを実例をあげて示しており、ホルモンレセプターに関する情報不足からともすれば合理性を欠いていたこれらの症例に対する集学的治療の指針決定に布石を投じている。

 以上本論文は、乾燥細胞診標本を免疫染色の材料として用いることで細胞診領域における免疫染色の適応を拡大し、乳癌を例として治療方針や予後を考慮する上で重要な情報を細胞診標本にて容易にスクリーニング可能であることを明らかとし、将来の細胞診業務内容の新たな発展の可能性について示唆を与えている。さらに、随所に臨床応用を意図した研究姿勢が認められ、本研究の成果が今後乳癌診療を始めとする臨床分野において多大の貢献をなすと予想される。よって本論文に対し学位を授与するに値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53922