学位論文要旨



No 212408
著者(漢字) 武藤,泰彦
著者(英字)
著者(カナ) ムトウ,ヤスヒコ
標題(和) 食道への膵液逆流が食道発癌に及ぼす影響についての研究 : 膵液、胆汁分離逆流実験に於ける検討
標題(洋)
報告番号 212408
報告番号 乙12408
学位授与日 1995.06.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12408号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大原,毅
 東京大学 教授 町並,陸生
 東京大学 教授 黒木,登志夫
 東京大学 助教授 上西,紀夫
 東京大学 講師 小西,敏郎
内容要旨 第1章 序説

 東京大学第一外科の食道癌手術症例の検討で、胃切除後の食道癌は有意に下部食道に多く認められた。また、東京大学第一外科瀬戸らはラットに胃全摘後十二指腸内容がすべて食道に逆流するモデルを作成し、これらに低濃度の発癌剤を投与したところ逆流群は逆流性食道炎の中に高率に(100%)発癌したのに対し無逆流群では1例も発癌しなかった事から、十二指腸液逆流が食道扁平上皮癌の発生を促進すると報告した。逆流したどの成分が発癌に関与しているのか、逆流性食道炎と関係があるのか、どのような機序で発癌に関与しているのかという点についてはいまだ不明である。

 不明な点を明らかにするために、(1)十二指腸内容を胆汁と膵液に分離して食道に逆流させ、発癌に関与する成分を明らかにする(2)逆流性食道炎の関与を明らかにするために逆流モデルの食道炎を治療した場合の発癌率を検討する(3)食道炎が発癌に関与する機序を明らかにするためにp53癌抑制遺伝子の変異を検討する、という3つの実験を行った。

第2章 実験1;胆汁膵液分離逆流実験

 |目的|胆汁と膵液を分離して食道に逆流させ、どちらが食道発癌に関与しているのかを検討する。

 |方法|Wistar Ratに胃全摘術を施行。再建法によって次の4群に分類した。

 第1群 全十二指腸内容逆流群(瀬戸らの逆流群);ビルロートII法タイプの食道空腸吻合を行い、胆汁膵液ともに食道に逆流するモデル。

 第2群 膵液逆流群;ビルロートII法タイプの食道空腸吻合後、下部総胆管結紮した上で胆管と遠位空腸を吻合した。膵液のみが食道に逆流するモデル。

 第3群 胆汁逆流群;Rou x en Yタイプの食道空腸吻合後、食道と吻合するために持ち上げた空腸端を総胆管と吻合し、下部総胆管を結紮した。胆汁のみが食道に逆流するモデル。

 第4群 無逆流群;Rou x en Yタイプの食道空腸吻合を行った。膵液も胆汁も食道へは逆流しないモデル。

 術後4週目から11週までの8週間、週1回発癌剤AMN(N-amyl-N-methylnitrosamine)を12.5mg/kg背皮下注(合計100mg/kg)投与し、6週間飼育後屠殺した。食道を全長にわたって摘出し、10%ホルマリン溶液にて固定後3mm幅に切片を作成しパラフィン包埋した。これを5の薄片にスライスし、ヘマトキシリンエオジン染色を行い光学顕微鏡で検索した。

 組織学的診断基準は次の通り。

 逆流性食道炎;上皮基底層の増殖と乳頭の延長がともに認められるもの。

 乳頭腫;食道内腔に突出する有茎性ポリープで層構造が保たれ、異型細胞が認められないもの。

 Dysplasia;細胞異型及び構造異型が認められるが、癌と診断するに至らない病変。

 扁平上皮癌;異型度が高度で上皮の層構造が失われ、上皮内角化を伴うもの。上皮内に留まっているものを上皮内癌、基底膜を越えて浸潤するものを浸潤癌とした。

 画像解析装置を用いて各症例の平均上皮厚を測定して比較した。

 |結果|第1群9匹、第2群13匹、第3群16匹、第4群10匹が検索可能であった。

 第1群と第2群は肉眼的、組織学的に同様の所見を呈した。下部食道に上皮の肥厚と潰瘍、びらんの混在を認め、肥厚した上皮の中に扁平上皮癌が認められる症例があった。扁平上皮癌は第1群4例、第2群5例に認められた。

 第3群と第4群は肉眼的、組織学的に同様の所見を呈した。乳頭腫が食道全長にわたって散在し、下部食道には逆流性食道炎は認めないか、または軽度に認める程度であった。扁平上皮癌は第3群に1例認めたが、第4群には1例も認められなかった。

 膵液逆流の有無で扁平上皮癌の発癌率に有意の差を認めた(p<0.05)。

 平均上皮厚は膵液を含む逆流群で有意に高い値を示した(p<0.01)。また、発癌例と非発癌例で平均上皮厚を比較すると発癌例で平均上皮厚が有意に高い値を示した(p<0.01)。

 |考察及び小括|膵液が食道に逆流する群に逆流性食道炎を認めたことから膵液が逆流性食道炎の病因と考えられた。

 膵液が食道に逆流した群に有意に多く扁平上皮癌が認められたことから、膵液が食道発癌に関与しているものと考えられた。

第3章 実験2;camostat mesilate混餌投与実験-逆流性食道炎と食道発癌の関係の検討

 |目的|膵液が食道発癌に関与する機序が逆流性食道炎と関係あるかどうかを検討する。

 |方法|実験1の第1群(全十二指腸内容逆流群)に逆流性食道炎の治療を行う他は全く同じスケジュールで実験を行い、食道炎の治療を行わない実験1の第1群、対照群として第4群(無逆流群)と発癌率を比較検討した。

 逆流性食道炎の治療としては蛋白分解酵素阻害剤であるcamostat mesilate 1000ppm含有の餌(以下camostat mesilate混餌)が有効であるという報告があり、これを手術後2日目から屠殺時まで投与した。

 |結果|camostat mesilate混餌群は10匹が検索可能であった。

 camostat mesilate混餌群は肉眼的、組織学的に上皮の肥厚が著明な症例と上皮の肥厚が軽度な症例とにそれぞれ5匹ずつ分かれた。上皮の肥厚が著明な5例に扁平上皮癌が認められた。上皮の肥厚が軽度な5例には扁平上皮癌は認められなかった。発癌率では実験1の第1群と有意差は認められず、実験1の第4群と有意差が認められた。

 画像解析で平均上皮厚を求めたところ、camostat mesilate混餌群で発癌した5例の平均は0.390mm(sd0.0725)、発癌しなかった5例の平均は0.201mm(sd0.0379)であり、発癌群と非発癌群で有意の差が認められた(p<0.01)。

 |考察|camostat mesilate混餌群の発癌率は実験1第1群と有意差は認められなかった。camostat mesilateを用いた逆流性食道炎治療群では実験1第1群と比較して食道炎は改善していたが、改善の程度に差があり、上皮肥厚型の食道炎を呈したものと上皮の肥厚も軽度であったものとに分かれた。上皮肥厚型の食道炎を呈した症例では扁平上皮癌が発生していたが食道炎の程度が軽度であった症例では扁平上皮癌は認められなかった。すなわち逆流性食道炎を十分抑制できた症例では食道発癌を抑制できたと考えられた。

 |小括|膵液逆流で生じる逆流性食道炎はトリプシンの作用で生じるもので、蛋白分解醇素阻害剤のcamostat mesilateを投与することで抑制可能であった。食道炎が抑制されたラットでは食道癌がみられず、膵液は食道炎を介して食道発癌に関与していると考えられた。

第4章 実験3;逆流性食道炎による上皮の変化の検討〜p53変異の検索

 |目的|p53の変異を検索することで逆流性食道炎と食道発癌の関係を明らかにする。

 |材料と方法|実験1で得られたラットの食道標本のパラフィンブロックをそのまま用いた。また、第5群として実験1第1群と同じ手術を行い同じ期間飼育するが、発癌剤を全く投与しない逆流(+)発癌剤(-)群を作成した。この群は6匹が検索に用いられた。

 Avidin Biotin Peroxidase Complex(ABC)法によるp53蛋白の免疫組織学染色を行った。

 パラフィンブロックの標本を3mの薄片とし、Sensitek-HRPキット(SCYTEK,USA)を用いたABC法を行なった。抗p53抗体としてCM1(NOVO CASTRA,UK)を濃度2000倍、4℃で12時間反応させた。抗原性回復のためPH6.0のクエン酸緩衝液中95℃10分間の加熱処理を行った。

 標本は光学顕微鏡でp53抗体による核の濃染の有無を検索した。核がはっきり濃く染色されたものを(+)とし、これが2カ所以上に認められたものを(++)とした。一方核が全く染まらなかったものを(-)とし、うっすらと着色した程度のものは(±)とした。(±)は条件を変えて再度染色を行い、それでもはっきり染まらない場合は陰性として判定した。

 統計的処理はFisherの直接確率法で行った。

 |結果|第1群は8例(89%)が、第2群では12例(92%)がp53陽性であったのに対し、第3群では4例(25%)、第4群では1例(10%)が陽性で第1群第2群と第3群第4群の間にそれぞれ有意差が認められた。また、第5群は陽性症例は0(0%)であった。

 |考察|今回の標本でnitrosamineを投与された群のものはp53変異が検索され、逆流性食道炎を生じるタイプの群に高頻度に認められた。一方nitrosamineを投与されない逆流群(第5群)ではp53変異は確認されなかったことから逆流性食道炎自体は変異源性はなく、nitrosamineによる変異を起こりやすくする作用があるものと考えられた。

 |小括|nitrosamineはラットの食道のp53に対して変異源性を有する。17週間程度の実験では逆流性食道炎自体には変異源性は認められないが、nitrosamineによる変異を起こりやすくする作用があると考えられた。

第5章 結語

 (1)十二指腸内容の食道への逆流はアルカリ逆流性食道炎を生じるが、その作用は主に膵液によるものと考えられた。膵液逆流による逆流性食道炎でみられる上皮肥厚型食道炎では食道扁平上皮癌の発癌が起こりやすくなっていると考えられた。

 (2)膵液中のトリプシンの作用を抑制することで逆流性食道炎を治療することは可能と考えられた。発癌率は食道炎の治療程度によって異なり、上皮肥厚性食道炎がみられる症例では食道発癌が認められたが上皮肥厚性食道炎のない症例では食道発癌は認めなかった。逆流性食道炎が食道発癌の要因であると考えられた。

 (3)膵液を含む十二指腸内容の食道への逆流は短期間ではそれ自体がp53遺伝子の変異を起こすには至らないが、低濃度のnitrosamineの変異原性を増強し、発癌を起こりやすくする作用があることが確認された。

審査要旨

 本研究は胃切除後に生じた食道癌が下部食道を占拠する割合が有意に高かったという臨床データを元にラットを用いたアルカリ逆流性食道炎モデルを作成し、食道炎と発癌との関係の機序の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.ラットに胃全摘術を施行した後、再建法を変えることで(1)膵液、胆汁共に逆流するモデル(2)膵液のみが逆流するモデル(3)胆汁のみが逆流するモデル(4)膵液も胆汁も逆流しないモデル(コントロール)、という4つの逆流環境を作成した。それぞれに低濃度の発癌剤を投与し、17週間飼育の後屠殺、食道を摘出して病理学的に逆流性食道炎の程度と発癌の程度を比較検討した。この結果膵液が逆流した第(1)(2)群では著明な逆流性食道炎の中に有意に高率に扁平上皮癌が発生したのに対し、第(3)(4)群では逆流性食道炎も発癌も認めなかった。この事から膵液が食道に逆流することで発生するアルカリ逆流性食道炎が食道発癌を促進する事が示唆された。

 2.実験1を受けて、逆流する膵液の作用を抑制したときの発癌率を調べることで膵液の食道発癌促進作用を検証すると共に、アルカリ逆流性食道炎環境での食道発癌の抑制、予防が可能かどうかを検証した。実験1の第(1)群に蛋白分解酵素阻害剤を混じた餌を投与し、膵液による逆流性食道炎を抑制するモデルを作成。これに実験1と同じスケジュールで発癌実験を行い、実験1の(1)(4)群と比較検討した。結果として半数のラットで逆流性食道炎の抑制に成功し、これらには扁平上皮癌が発生しなかった。残りの半数は逆流食道炎は抑制されず、扁平上皮癌が食道炎の中に発生した。有意の差は得られなかったが、膵液の作用を抑制することで逆流性食道炎とこれに伴う扁平上皮癌の発癌を抑制できる可能性が示唆された。

 3.実験1において遺伝子レベルではどのような機序で逆流性食道炎が関与しているのかを推測するため、パラメータの一つとしてp53蛋白を選び、その変異を免疫組織学的に検出、検討した。この結果、発癌剤を投与したラットの食道にp53変異が検出され、逆流性食道炎の存在下でその程度が増強されていた。発癌剤を投与せず逆流性食道炎の存在下で同期間飼育したラットの食道ではp53変異が検出されなかったことからこの実験系では遺伝子の変異を起こすのは発癌剤の作用であり、逆流性食道炎は発癌剤の作用を増強する形で発癌の促進に関与している事が示唆された。

 以上、本論文は胃切除後の逆流性食道炎が食道発癌を促進する機序を様々な角度から検討し、膵液がその中心的役割を果たしていることを明らかにし、発癌の予防の道を開いたものである。今後臨床的な貢献が期待され、学位の授与に値するものと考えられる。

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