学位論文要旨



No 212412
著者(漢字) 平井,宏
著者(英字)
著者(カナ) ヒライ,ヒロシ
標題(和) 2次元電子系のエッジ状態に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 212412
報告番号 乙12412
学位授与日 1995.07.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第12412号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 助教授 前田,京剛
 東京大学 教授 吉岡,大二郎
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 教授 安藤,恒也
内容要旨

 量子ホール効果は、発見以来、実験-理論両面から活発な研究が進められてきた。ButtikerはLandauer公式に基づいた量子ホール効果の定式化を行い、ホール抵抗が量子化値からずれる可能性としてそれ以前には考えられていなかった条件を示した。彼によれば、1)隣合うエッジ状態に生じた非平衡分布が平衡化するのに要する距離(緩和長)よりも試料サイズ(端子間の試料端に沿った長さ)が小さく、2)端子が「乱れた端子」のとき、ホール抵抗は量子化値に必ずしも一致しない。

 上記のButtikerの研究とほぼ同時に、Van Weesら、及び、著者を含むグループが、独立に、ホール抵抗の量子化値からのずれを実験的に観測した。図1(a)に著者を含むグループが実験に使用したクロスゲートを持つホールバー型試料を示した。フィリングファクタ=4の量子ホール効果状態において、クロスゲートに負のバイアス電圧をかけると、図1(b)に示すようにホール抵抗R43,12、及び、R65,12は、量子化値h/4e2から大きくずれる。この実験結果は、1)隣合うエッジ状態間に生じた非平衡分布が平衡化せずにクロスゲートから50mほど離れた電圧測定用端子に到達し、2)2本あるエッジ状態の外側のエッジ状態の化学ポテンシャルを電圧測定用の端子が偏って測る傾向がある結果と解釈された。

 本研究は、これらの事実を出発点としてそれをさらに発展させるものである。本研究第1の目的は、端子の性質の定量的解析であり、第2の目的は、エッジ状態間に生じた非平衡分布平衡化のメカニズムを解明することである。さらに、著者を含むグループは、エッジチャネル内の散乱についても研究を進めた。本研究第3の目的は、エッジ状態の位相可干渉性を評価することである。以上の研究によってエッジ状態の存在とその重要性は疑う余地のないものとなった。しかしながら、これは、エッジ電流が全電流を担っていることを意味しない。本研究第4の目的は、エッジ電流の全電流に占める割合を定量的に見積ることである。

 本研究では、3種類の試料(図1(a)に示したクロスゲートを1つ持つ試料(C1)、クロスゲートを3つ持つ試料(C3)、及び、量子ポイントコンタクトを3つ持つ試料(Q3))を使用した。液体ヘリウム温度での2次元電子系の電荷密度、及び、ホール移動度は、いずれの試料においても、ns3.3×1011cm-2、及び、H1×106cm2/Vsである。測定は、直流、及び、交流伝導度測定を用い、T=0.5Kまでの低温、B=8Tまでの強磁場条件下で行った。

 Buttikerは、リザーバーと乱れた領域からなる端子のモデルを導入し、Landauer型の公式を使用することによって、端子の性質を解析した。著者らはButtikerの議論を拡張し、エッジ状態に非平衡分布が存在する状況下での端子の性質を記述する基本的な式を導出した。それによれば、ある端子を電圧測定に使用した場合、端子は入射チャネルのエネルギーの平均値をTi/Tの重みつきで測定する。ここで、Tiは、i番目の入射チャネルからリザーバーへの透過する確率であり、T=mTmである。また、ある端子の入射チャネルが平衡分布している場合、端子が出射チャネルにT’k/Tの重みつきで電子を注入し、非平衡分布を生成させる働きを持つ。ここで、T’iは、リザーバーからi番目の出射チャネルへ透過する確率である。

 さらに、図1(b)に示した抵抗Rij,12(+B)(及び、Rij,12(-B)、R12,ij(±B))のゲート電圧VG依存性を上述した端子の性質を記述するLandauer型公式を使って定量的に解釈した。そして、量子ホール効果を抵抗標準に応用する際に端子に課せられる条件を定量的に導出した。

図1(a) クロスゲートを持つホールバー型試料(C1)。(b)Rmn,12(B)のVG依存性。

 著者を含むグループは、エッジ状態間に生じた非平衡分布の緩和長L01の温度依存性、及び、磁場依存性を、=4のプラトー領域近傍において(3<<5)測定した。図2(a)、及び、(b)からわかるように、3<4において、は温度上昇に伴い指数関数的に増大し、3<<5において、L01は磁場増加に伴い急激に増大する。著者を含むグループは、放物型の閉じこめポテンシャルを仮定し、不純物散乱、及び、フォノン散乱を考慮した理論を使って実験結果を解析した。理論計算は、(図2(a)に実線で示した)よく実験結果を再現している。解析から、非平衡分布の緩和には主として不純物散乱が効いていること、及び、エッジ状態間の距離はX530Aであり、=4付近では磁場にあまり依存しないことがわかった。

図2(a) 非平衡分布緩和長の温度依存性。実線は計算値を示す。(試料はC3)(b)非平衡分布緩和長L01の磁場依存性。(試料はC3)

 クロスゲートによって生成される非平衡分布のドレイン-ソース間電圧依存性についても研究を行ない、非平衡分布のエネルギー差がhc/2に達すると急激に平衡化が促進されることが明らかになった。

 強磁場条件下におけるエッジ状態の位相可干渉性に起因した量子振動(Aharonov-Bhom振動)は、Van Weesらによって行なわれた数ミクロン程度の単一量子ドットを使用した実験によりすでに観測されている。しかしながら、そこでは位相可干渉長が量子ドットの大きさよりも十分大きいということがわかるだけで、位相可干渉長を決定することはできなかった。単一の量子ドットの場合、試料サイズを大きくすると一電子準位間のエネルギー差は小さくなり、熱エネルギーkTをそれよりも小さく(kT)することが実験上不可能となる。そこで、著者を含むグループは大きさの等しい2つの量子ドットを直列に連結した構造を提案した。この構造の長所は、量子ドットが大きくkTなる条件を満たすことが不可能であっても電子の干渉性に起因した量子振動が期待できるところにある。Landauer型の公式を使ってこの系を解析し、予想される量子振動を定量的に議論した。さらに、試料を実際に作製し、期待される量子振動を観測すべく実験を行なったが、期待される成果は得られなかった。実験に使用した量子ドットは、10m×10mとかなり大きいが、帯電効果の影響は無視できない。これが、量子振動が観測できなかった原因と考えられる。

 エッジ状態に注入された電子は電流を担うことができる(エッジ電流)。しかしながら、エッジ状態に注入された電荷は、静電ポテンシャルを変化させ、ホール電場を発生させる。この電場に応答し、流れる電流(バルク電流)が存在する。著者を含むグループは、エッジ電流の全電流に占める割合を計算した。計算では、エッジ状態に電荷を注入することによって生じる試料中の分極電荷、及び、静電ポテンシャルをセルフコンシステントにとり扱った。計算の結果、試料幅が0.1m〜1000mの場合、エッジ電流の全電流への寄与は数%に過ぎないことがわかった。

審査要旨

 本論文は6章からなる。第1章は序論、第2章は試料の作成と測定系について、第3章は端子がグローバルな伝導度に与える影響について主に理論的な解析とともに、非平衡緩和長の測定方法と実験結果の解析法について述べている。このような準備のもとに、本論文の主要部である第4章では、端状態(エッジ状態)間に生ずる非平衡分布の緩和に関する実験結果とその解析についての詳細な議論が行われ、さらに第5章では、端状態の位相可干渉長の測定の可能性について議論され、最後に第6章では以上のまとめとして、結論が述べられている。

 本論文の研究対象である2次元電子系の端状態とは、特に強磁場下で量子ホール効果が観測される状態に於いて、試料の端に形成される電子状態を意味している。1980年にvon Klitzingにより量子ホール効果が発見されてのちしばらくの間、この現象の理論的な研究は端の効果を無視し、電流は試料全体を一様に流れるとして説明されてきた。これはもちろん正しい取扱い法であり、実際、端の効果が効かないCorbino型の試料に於いてはこれ以外には理論的な解析の方法はない。しかし1982年にはHalperinにより、試料全体とともに、試料端の電子状態の存在に注目した理論が提唱され、さらに1988年にはButtikerにより、試料端の端状態のみを用いた量子ホール効果の理論が提唱されるにおよび,試料端の端状態とそこを流れる端電流の存在が注目を集めるようになった。

 実際の実験状況に於いては、試料端を流れる端電流と試料内を流れるバルク電流とは明確に区別できるものではないし、一方のみで全てが説明できるものでもない。しかし、Buttikerによる端電流の提唱は研究者の視点を試料端に向けることとなり、ここからさまざまな研究が導かれることとなった。本論文のテーマもこのような研究の流れによって出現してきたものである。すなわち、端電流の考え方では、電流と直交する方向の2つの試料端に於ける化学ポテンシャルの差がホール電圧として測定されるものであり、これは明確に定義できるものでなければならないが、通常の状況においては、その場所につけられた電圧測定端子の化学ポテンシャルと等しいものとして定義できる。しかるに、フェルミ準位下に複数のランダウ準位が存在する状況下においては,これと同数の端状態がフェルミ準位を横切ることとなり、これらの状態間に非平衡状態を作り出すことが可能になる。この場合には試料端での化学ポテンシャルを明確に定義することはできず、試料端とつながる電圧測定端子の化学ポテンシャルが、非平衡状態にある試料端上の電子分布をどのように反映するのかがホール伝導度を決めることになる。この場合一般にホール伝導度の量子化にはずれが生じる。本論文ではこのような実験事実を出発点とし、人為的に作り出された複数の端状態間の非平衡分布がどのような速さで、また、いかにして平衡分布に落ち着いて行くのかを実験的に明らかにした研究の成果が記されている。

 次に、本研究の概要と評価を述べる。本研究はまず、端状態間の非平衡分布を作りだし、それを観測するための試料の作成から始められた。この目的のために、通常のホールバー型試料に3つのクロスゲートをつけた試料が作成された。ここで、クロスゲートの1つは非平衡分布を作り出すために使用され、他の2つのクロスゲートは非平衡分布緩和距離の定量的な測定のために使用される。このような試料の作成は本研究の独創的な点であり、高い評価を与えることができる。

 本論文第2章にはこの試料作成の詳細と、作成した試料を用いた電流、電圧の測定方法が述べられている。第3章では、試料端につけられた電圧測定端子が、どのように端状態での電子分布を測定するかという問題が議論されている。まず、Buttikerの議論が紹介され、これが端状態間に非平衡分布がある場合に拡張された。この議論は,次章での測定結果から非平衡緩和距離を導き出すのに不可欠である。ここで著者は端状態チャンネルが2本の場合、端子の性質が4つのパラメターで記述されることを明らかにし、さらにこのパラメターは端子にクロスゲートをつけることによって制御できることを明らかにした。この章では最後に、このようなパラメターによる記述が,実際にクロスゲートをつけた試料での実験により定量的に確かめられたことが記されている。

 第4章は本論文の中心となる部分であるが、ここでは第2章で作成した試料を用いた測定の結果が述べられている。測定はクロスゲートに印可した電圧により,いかにホール抵抗が変化するかを測定したものだが、この結果を第3章で得られた式を用いて解析し、非平衡分布緩和距離の温度依存性、磁場依存性、電流依存性が決定された。この際,ランダウ量子数の異なる2つの端状態間の緩和のみならず、同じランダウ量子数でスピンの異なる2つの端状態間の緩和の測定も行われ、この両者には定量的に大きな違いがあり、異なるスピン間には十分に強い緩和が見られることが明らかにされた。このことは、この系ではスピンの反転を伴う散乱断面積がかなり大きいことを意味しており、この結果は理論家に対する課題を与えたものとして、重要な意味を持っている。

 一方、ランダウ量子数の異なる2つの端状態間の緩和に対しては、非平衡緩和距離の温度、磁場依存性が系統的に調べられた。この測定結果は試料端に於ける電子状態とその散乱過程に対する理論を構築する際に試金石となるべき重要な結果である。著者達も放物線型の閉じこめポテンシャルと、ガウス型のポテンシャルによる不純物散乱モデルを用いた解析を行ない、端状態間の距離、及び不純物ポテンシャルの到達距離をパラメターとして、温度、磁場依存性がある程度説明できることを示している。この解析では2つの端状態間の距離の磁場依存性が得られるが、これは従来の理論とは異なることが主張された。しかし、理論的な解析の部分はどのようなモデルによって解析するかで結果がことなることも予想され、この主張の正当性には疑問なしとしない。ともあれ、完璧な解析は高度な理論計算を必要とするものであり、理論家のあいだでもまだ決着のついていないことであり、実験の研究に対してそこまでは要求する必要はないというのが審査委員の総意である。審査委員全員は,実験研究として非平衡緩和長について独創的な方法を考案し,着実に,詳細かつ網羅的な研究を行ったことは高く評価すべきものであると考える。

 最後に、第6章では端状態の位相可干渉長の測定の可能性についての議論が行われている。測定のために3つのポイントコンタクトを持つ系が提案され、実際に試料が作られ測定が行われた。残念ながら位相可干渉長の測定は成功しなかったが、その理由の考察が行われており、今後の測定の成功が期待される。

 以上のように,本論文は強磁場下の2次元電子系での端状態についての詳細な実験を行い、重要な寄与をなしたものとして、審査員全員は,博士論文として合格であると判定した。

 なお、本研究は小宮山進氏他数名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであると判定する。

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