本論文は6章からなる。第1章は序論、第2章は試料の作成と測定系について、第3章は端子がグローバルな伝導度に与える影響について主に理論的な解析とともに、非平衡緩和長の測定方法と実験結果の解析法について述べている。このような準備のもとに、本論文の主要部である第4章では、端状態(エッジ状態)間に生ずる非平衡分布の緩和に関する実験結果とその解析についての詳細な議論が行われ、さらに第5章では、端状態の位相可干渉長の測定の可能性について議論され、最後に第6章では以上のまとめとして、結論が述べられている。 本論文の研究対象である2次元電子系の端状態とは、特に強磁場下で量子ホール効果が観測される状態に於いて、試料の端に形成される電子状態を意味している。1980年にvon Klitzingにより量子ホール効果が発見されてのちしばらくの間、この現象の理論的な研究は端の効果を無視し、電流は試料全体を一様に流れるとして説明されてきた。これはもちろん正しい取扱い法であり、実際、端の効果が効かないCorbino型の試料に於いてはこれ以外には理論的な解析の方法はない。しかし1982年にはHalperinにより、試料全体とともに、試料端の電子状態の存在に注目した理論が提唱され、さらに1988年にはButtikerにより、試料端の端状態のみを用いた量子ホール効果の理論が提唱されるにおよび,試料端の端状態とそこを流れる端電流の存在が注目を集めるようになった。 実際の実験状況に於いては、試料端を流れる端電流と試料内を流れるバルク電流とは明確に区別できるものではないし、一方のみで全てが説明できるものでもない。しかし、Buttikerによる端電流の提唱は研究者の視点を試料端に向けることとなり、ここからさまざまな研究が導かれることとなった。本論文のテーマもこのような研究の流れによって出現してきたものである。すなわち、端電流の考え方では、電流と直交する方向の2つの試料端に於ける化学ポテンシャルの差がホール電圧として測定されるものであり、これは明確に定義できるものでなければならないが、通常の状況においては、その場所につけられた電圧測定端子の化学ポテンシャルと等しいものとして定義できる。しかるに、フェルミ準位下に複数のランダウ準位が存在する状況下においては,これと同数の端状態がフェルミ準位を横切ることとなり、これらの状態間に非平衡状態を作り出すことが可能になる。この場合には試料端での化学ポテンシャルを明確に定義することはできず、試料端とつながる電圧測定端子の化学ポテンシャルが、非平衡状態にある試料端上の電子分布をどのように反映するのかがホール伝導度を決めることになる。この場合一般にホール伝導度の量子化にはずれが生じる。本論文ではこのような実験事実を出発点とし、人為的に作り出された複数の端状態間の非平衡分布がどのような速さで、また、いかにして平衡分布に落ち着いて行くのかを実験的に明らかにした研究の成果が記されている。 次に、本研究の概要と評価を述べる。本研究はまず、端状態間の非平衡分布を作りだし、それを観測するための試料の作成から始められた。この目的のために、通常のホールバー型試料に3つのクロスゲートをつけた試料が作成された。ここで、クロスゲートの1つは非平衡分布を作り出すために使用され、他の2つのクロスゲートは非平衡分布緩和距離の定量的な測定のために使用される。このような試料の作成は本研究の独創的な点であり、高い評価を与えることができる。 本論文第2章にはこの試料作成の詳細と、作成した試料を用いた電流、電圧の測定方法が述べられている。第3章では、試料端につけられた電圧測定端子が、どのように端状態での電子分布を測定するかという問題が議論されている。まず、Buttikerの議論が紹介され、これが端状態間に非平衡分布がある場合に拡張された。この議論は,次章での測定結果から非平衡緩和距離を導き出すのに不可欠である。ここで著者は端状態チャンネルが2本の場合、端子の性質が4つのパラメターで記述されることを明らかにし、さらにこのパラメターは端子にクロスゲートをつけることによって制御できることを明らかにした。この章では最後に、このようなパラメターによる記述が,実際にクロスゲートをつけた試料での実験により定量的に確かめられたことが記されている。 第4章は本論文の中心となる部分であるが、ここでは第2章で作成した試料を用いた測定の結果が述べられている。測定はクロスゲートに印可した電圧により,いかにホール抵抗が変化するかを測定したものだが、この結果を第3章で得られた式を用いて解析し、非平衡分布緩和距離の温度依存性、磁場依存性、電流依存性が決定された。この際,ランダウ量子数の異なる2つの端状態間の緩和のみならず、同じランダウ量子数でスピンの異なる2つの端状態間の緩和の測定も行われ、この両者には定量的に大きな違いがあり、異なるスピン間には十分に強い緩和が見られることが明らかにされた。このことは、この系ではスピンの反転を伴う散乱断面積がかなり大きいことを意味しており、この結果は理論家に対する課題を与えたものとして、重要な意味を持っている。 一方、ランダウ量子数の異なる2つの端状態間の緩和に対しては、非平衡緩和距離の温度、磁場依存性が系統的に調べられた。この測定結果は試料端に於ける電子状態とその散乱過程に対する理論を構築する際に試金石となるべき重要な結果である。著者達も放物線型の閉じこめポテンシャルと、ガウス型のポテンシャルによる不純物散乱モデルを用いた解析を行ない、端状態間の距離、及び不純物ポテンシャルの到達距離をパラメターとして、温度、磁場依存性がある程度説明できることを示している。この解析では2つの端状態間の距離の磁場依存性が得られるが、これは従来の理論とは異なることが主張された。しかし、理論的な解析の部分はどのようなモデルによって解析するかで結果がことなることも予想され、この主張の正当性には疑問なしとしない。ともあれ、完璧な解析は高度な理論計算を必要とするものであり、理論家のあいだでもまだ決着のついていないことであり、実験の研究に対してそこまでは要求する必要はないというのが審査委員の総意である。審査委員全員は,実験研究として非平衡緩和長について独創的な方法を考案し,着実に,詳細かつ網羅的な研究を行ったことは高く評価すべきものであると考える。 最後に、第6章では端状態の位相可干渉長の測定の可能性についての議論が行われている。測定のために3つのポイントコンタクトを持つ系が提案され、実際に試料が作られ測定が行われた。残念ながら位相可干渉長の測定は成功しなかったが、その理由の考察が行われており、今後の測定の成功が期待される。 以上のように,本論文は強磁場下の2次元電子系での端状態についての詳細な実験を行い、重要な寄与をなしたものとして、審査員全員は,博士論文として合格であると判定した。 なお、本研究は小宮山進氏他数名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであると判定する。 |