首都圏を流れる利根川は、我が国最大の流域面積を有しているうえ、そこで展開される活発な社会・経済活動により、我が国全体の河川行政及び河川技術の進展と密接な関係を持っている。本研究は、この利根川を対象とし、その近代治水事業に焦点を当てて計画論的に考察したものである。 現在利根川においては、昭和55年に改定された工事実施基本計画に基づいて事業が進められているが、近代利根川治水としては、これに先立って4つの治水計画が存在した。即ち、明治29年の河川法の成立を受けて策定された明治31年の計画、明治43年の大水害を受けて策定された計画、更に昭和10年、13年の出水後に策定された昭和13年の増補計画、及び昭和22年の出水後に策定された昭和24年の利根川改修改訂計画の4つである。これらの計画が、その当時の社会的、技術的な制約の中で、何を目的とし、何を課題として残したのかを明らかにすることは、現在の計画を評価するうえでも、更に今後の利根川治水の発展を考えるうえにおいても重要なことと考える。 この認識の下、本論文は現在の利根川水系工事実施基本計画を歴史的に評価することを目的とした。即ち、利根川治水の発展過程における諸計画の課題と限界を明確にし、その対応策としての昭和55年改定について、社会・技術の両面から評価を行ったものである。 まず第2章では、「築堤による近代改修」と題して、明治31年の治水計画と明治43年洪水後の治水計画について論じた。 明治31年の治水計画は、厳しい予算上の制約から工事箇所は限定され、基本的に近世の治水秩序を引継ぎ、その一部の手直しを図ったものと評価できる。しかしその後の明治43年出水を受けた治水計画では、大規模な築堤、浚渫によって堤内地と堤外地が明確に区分され、現在の利根川の骨格が形成された。計画論として見ると、明治43年洪水を受けて策定された計画であるにもかかわらず、その洪水規模を下回る規模の流量を計画対象流量とし、これを上回る洪水は非常洪水として、堤防の余裕高や各所の遊水効果によって対処しようとした点が注目される。 以上のいわゆる明治改修計画は、昭和5年度に竣工したが、竣工後間もない昭和10年、13年と相次いで大出水に見舞われ、昭和13年12月に閣議決定された利根川増補計画に繋がって行くのであり、これについては第3章において論じた。 この増補計画は、明治改修によって河道の骨格が既に形成されていたため、渡良瀬遊水池等の貯留施設によって流出を遅らせようとした点に重要な特徴を持つ計画であった。第3章の標題を「平野部洪水調節池導入による治水計画」とした所以である。計画規模で見ると、明治改修と異なり、既往最大洪水を氾濫させること無く処理する計画となっており、国力の進展が背景にあるものと考えられる。 増補計画は策定されたものの、戦争によって工事も殆ど進捗しないまま終戦を迎えることとなった。そして昭和22年9月、カスリーン台風によって利根川は八斗島地点で17,000m3/sという大出水に見舞われ、埼玉県、東京都は激甚な被害を被った。このため同年11月に治水調査会が設立され、抜本的な計画の見直しが進められ、この結果策定されたのが昭和24年の利根川改修改訂計画であり、第4章の「山間部洪水調節池導入による治水計画」で詳述した。 この計画の大きな特徴は、上流山間部でダムによる洪水調節が大規模に導入された点である。計画対象流量17.000m3/sの内、3.000m3/sをダムによって調節しようとするものであったが、信頼し得る水理・水文データが決定的に乏しく、解析技術も未熟であったため、複数のダム群による調節計画には技術的に一定の限界があり、以後の大きな課題として残されることとなった。 改修改訂計画の策定された昭和24年以降、我が国の社会・経済が目覚ましい発展を見せる中で、河川行政の分野においても各種の法整備が進められる一方、水理・水文観測所の整備や、流出解析、確率論、コスト・ベネフィット分析等の河川計画論の進展が図られていった。中でも、昭和39年の河川法の改正は、水系一貫の思想を前面に打ち出すとともに、水系毎に工事実施基本計画を定めることを義務付けることによって、新たな計画策定を促す大きな力となった。また一方では、社会・経済活動の拡大によって氾濫域の開発が進み、被害ポテンシャルを飛躍的に増大させたこと、更に都市化や支川改修の進捗等によって流出形態が変化したこと等も、新たな計画策定の要因となった。 これらを背景として、上流八斗島地点で基本高水流量22,000m3/s、計画高水流量16,000m3/sとする新しい改修計画が昭和55年12月に策定されたが、先行する4つの治水計画と比較すると幾つかの特徴を挙げることができる。 特徴の第一は、蓄積された水理・水文データと各段に進歩した確率統計技術を駆使した流出解析手法に見ることができる。降雨・流出解析は、当初複合確率法で、その後は総合確率法に移行したが、この特徴は降雨の確率を媒介とはするものの、計画の規模を流量の確率において定めたところにある。また、流出解析の過程では、流出諸元間の関係を明らかにした「利根川式」と称される関係式や、氾濫を考慮した流出モデル等を構築するなど、改定作業の中から次々と先進的な技術が生み出されていった。 特徴の第二は、計画対象流量の決定手法に見ることができる。その当時は、既往実績最大流量を用いる手法から、年超過確率で流域の重要度を反映させて計画対象流量を決定する手法に移行していた。昭和55年の流量改定においては、200年確率流量と、既往最大洪水流量発生時の降雨を入力条件として流出モデルを介して得られる流量(「計算既往最大流量」)とを比較し、その大きい方の値を採用することとし、本川の上流においては結果的に「計算既往最大流量」を採用した。確率に裏打ちされた「既往実績最大主義」が前面に出ることとなったが、言わば昭和24年の治水調査会までの「既往実績最大主義」と対比される「新既往実績最大主義」とも言うべき方針である。河川計画論として、重要な新しい一歩が展開し得たと考察している。 特徴の第三は、ダム、調節池、河道等の各種施設間の流量配分に際して、経済的、社会的な側面からも十分な検討を加えた点である。計画の経済的な評価としては、アメリカのTVAを中心に開発されたコスト・ベネフィット分析の手法を用いて、計画の妥当性を評価した。また、利根川が一都五県にまたがる流域を有するがために、地域間の調整が大きな課題となるが、河川改修費の都県別分担率の改定と併せて、関係都県との度重なる調整を経て計画を策定した。 この計画は、先立つ昭和24年の改修改訂計画の施設諸元の検討に端を発するが、総体として評価するならば、流域の発展と歴史とを考慮し、河川計画論の発達、水理・水文学の発展、水理・水文資料の充実、電子計算機の発達をまって、改修改訂計画時に残されていた課題と、その後の社会・経済の進展に伴なって生じた新たな課題とを工学的に解決し、発展させた計画と評価することができる。 |