学位論文要旨



No 212418
著者(漢字) 土本,俊和
著者(英字)
著者(カナ) ツチモト,トシカズ
標題(和) 近世京都の都市形成に関する形態史的研究
標題(洋)
報告番号 212418
報告番号 乙12418
学位授与日 1995.07.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12418号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 助教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 本研究の目的は都市域の拡大過程を土地と建物の関係に基づきながら歴史的に考察することである。近世京都を対象とする本研究は、16世紀末から明治初頭までの期間を扱いながら主に町地と町屋の形態に注目することによって都市域の拡大過程を把握した。

 近世京都のなかで町地と町屋を対象にしたとき、土地の成立と建物の成立の先後を考察する方法が有効である。この先後関係に即して本研究は以下の二つの形態に注目した。第一に、町地が成立しているか否かを見極めるために地割という地盤形態に注目した。第二に、建物が成立しているか否かを見極めるために町屋という建築形態に注目した。この二つの視点に基づけば、ある街区が成立した当初にその内部に地割があるのか、あるいは町屋があるのかを、形態の有無として分析することができる。このとき、町屋が立地した後に地割が生成される都市形成が都市増殖に対応すると規定し、地割が施された後に町屋が立地する都市形成が都市開発に対応すると規定する。この二つの形成過程を都市形成の二つのタイプとして扱う。このことにより、都市域の拡大過程を土地と建物の関係より歴史的に考察する目的を果す。

 以上の方法は、伊藤鄭爾および野口徹の二人の建築史家の論点を継承することによって成立する。この二人は、地割が建物を規定したのか、それとも建物が地割を規定したのか、という問題と関わった。伊藤鄭爾はおもに中世後期から近世にかけての奈良を扱いながら、零細地割形式と零細土地所持の関係を考察した。このとき町屋は、零細地割形式と零細土地所持が一体化されることによって、はじめて地割に規定されるようになる、と伊藤は想定した。この意味で、あらかじめ地割のある都市形成のみを伊藤は仮定していたといえる。対して、野口徹は建物が立地する前に地割があらかじめあったという視点を疑った。中世前期の町屋を扱いながら野口は、あらかじめ用意された地割に建物が規定されたという図式を逆転させることによって、建物がはじめにあってその後に地割が生成されたという論点を提出した。伊藤鄭爾の論点と対比される野口徹の論点が都市増殖と呼ぶべき拡大形式に対応する。さらに、都市増殖という形式は、都市開発という形式に対比される。このように、都市形成を、都市増殖と都市開発の二つの形式に大別することができる。

 都市域の拡大過程を土地と建物の関係より歴史的に考察した結果、都市増殖の該当する領域と年代、ならびに都市開発の該当する領域と年代を、近世京都について本研究は捕捉した。都市増殖の該当する領域は、京都の洛中の町々のなかで地子赦免がなされた都市域である。しかし、下京古町など、中世末からの地割が温存されたまま天正19年(1591)に地子が赦免された都市域は例外である。都市増殖の該当する年代は、地子赦免が京都の洛中でなされた天正19年9月以降から展開し、最終的には明地への家作りを禁じた寛文7年(1667)10月の町触までである。

 他方、都市開発の該当する領域は、地子が赦免されなかった領域である。この領域は、京都の周辺域では洛中の町々も含みながら、都市外縁域の土地に相当する。この領域は、公儀・寺社・公家などが地子ないし年貢を徴収する権原を保持した土地であり、土地の面積に比例した年貢高に応じて土地生産の一部が収奪されており、多くの場合、都市域に組み入れられるまで田畠として利用されていた。都市開発の該当する年代は、寛文7年(1667)10月の町触の翌年、京都町奉行が設置された寛文8年(1668)から始動する。都市開発による都市形成に先便をつけたのが高瀬新屋敷の開発に代表される鴨川の河原への開発である。この開発を出発点として、地子ないし年貢の徴収権が存続した洛外の土地へ都市化の対象が拡大する。

 以上、近世京都において都市増殖による拡大過程は、天正19年(1591)9月の洛中地子赦免を契機に、中世末から持続した都市域を除いた洛中で展開し、寛文7年(1667)10月22日の町触で明地への家作りが禁じられるまで続いた。都市増殖に終止符が打たれた後、都市形成の支配的な形式になったのは都市開発である。京都町奉行の設置後、地子ないし年貢の徴収権が存続していた都市の周辺域や外縁域が都市化の対象になる。

 このように、都市増殖によって都市中心域を赦免地として形成した後、都市開発によって都市の周辺域や外縁域を年貢地として都市域に組み入れた近世後期の京都は、中心域をしめる赦免地の外周に年貢地が取り巻く姿を形成した。この状態を、明治初頭に地租改正は解体した。明治2年(1869)から地券が発行される明治6年(1873)までの期間に、角倉支配地、寺社地、赦免地といった近世の土地は段階的に解体された。このとき、軒役といった零次元の数量で把握された賦課が破棄されるとともに、地積別に基づく二次元の数量で把握された賦課、すなわち地租が支配的な形式になった。もはや、赦免地は従来より二次元の数量で把握されていた洛外の年貢地と差異がみられない。

審査要旨

 本論文は、17世紀の京都が近世的な都市へと発達する過程を、史料を博捜し、その大要を明らかにしようと試みたものである。

 都市の発達史として京都をとらえる研究は、個別の事例研究として集積されつつあるが、全体の発達過程は明らかにされてこなかった。本論文は、織田信長による地子赦免以降から17世紀全体を中心に取り扱い、京都の都市的な発展を論じたものである。

 本論文は4章からなる本論部分とそれをまとめたむすびで構成される。

 第1章「序論」は、近世京都の都市形成に関する研究史の総括、論文の目的・対象・方法を述べる。目的は17世紀の京都の都市の発達を明らかにすることである。基礎的な方法は、地割という都市の土地の最小区画に注目し、その形成過程を分析する。その結果、旧来の京都内部で再開発が行なわれた地域と、新たに都市が周辺域に拡大されて行く地域の二つに類型化できるとする。京都内部の再開発は、織田信長によって地子赦免が行なわれ、それ以後17世紀中ごろまでに開発された地域で典型的に見ることができ、周辺域の拡大はそれ以後強力な開発主体によってかなり整然と行なわれた、という。

 第2章「総論」では、近世京都の都市形成の拡大過程の全貌を編年的に把握しようと試みる。まず、その拡大過程は2期に分けられるという。その画期は寛文7年から延宝7年(1667〜1677)とする。前期は織田信長による地子赦免以後の土地政策が活き続けた時期であり、地子赦免地において、都市の再開発が実施された時期、以後は新たな都市の開発が実施されて行った時期である。この時以後の史料には、赦免地と年貢を賦課される年貢地の中間形態として地尻年貢地が登場するという。そして多くの土地関係史料のなかからその該当地域を抜出して、結果を表に纏め、地図にプロットした。採り上げられた地域数は81件である。さらに、京都の町の土地の賦課形式による模式図を作成した。それによると同心円状に赦免地1333町、地尻年貢地84町、年貢地66町、洛外町続き240町が配されている。

 第3章「各論A」には、京都の祇園御旅所の成立と変容に関する詳論と、それを敷衍させた17世紀前半の京都の都市形成の概論を収める。祇園御旅所は天正19年(1591)年、四条寺町東入ルの土地に移り、同時にそれに属する町も移転した。本来土居で閉鎖されていたが、慶長6年(1601)に土居に口が開いて、外からの往復が可能となった。この町は、明治2年の地割を復元すると、道路に面した奥行3〜7間の赦免地とその背後の寺地から構成されており、当初からの町とその裏側への浸食の過程が想定できるという。この様な地割の成立過程を踏まえて、後半では道路に面して赦免地であり、その背後が年貢地である地尻年貢地を検討する。『京都役所向大概覚書』所収の「洛中地子之事」に列挙される地尻年貢地84箇所についてそれぞれを検討し、それが16世紀末から始まり1670年代までに形成されたものとする。そしてこの時期の都市の形成過程の一つの典型であったとする。

 第4章「各論B」には、高瀬川に沿った新屋敷について、その開発状況とその後の変遷過程を論じる。高瀬新屋敷は四条通りと松原通りの間、鴨川の西岸に設けられた新しい地区である。この開発は寛文9年(1669)の鴨川築堤を契機としており、元来の荒撫地が新たに都市域に組み込まれる過程である。開発にあたった人物は美濃屋源右衛門・和泉屋休卜であった。そして、開発された土地は年貢地として洛中に編入された。この開発は京都の発達史において、新たな展開の画期となったという。以後、京都の都市的な発展は、かっての赦免地・地尻年貢地に置き換わり、この手法が採り入れられることとになり、以後明治まで継続され続けた。年貢地とは土地の面積で都市を把握する方法である。

 最後にむすびで、全体の要約を載せる。

 本論文の特徴は、従来充分な把握が行なわれて来なかった、17世紀の京都における都市的な発展について踏込んだ研究をおこないその概要をとらえたこと、そして地子赦免地における開発と新たな開発主体による新規の開発について詳細な検討をおこない、その実態を明らかにしたこと、の2点にあると思われる。この成果は、今後京都の都市発達史を論じる際には必ず参照されるべき重要な事柄と考える。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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