本論文は、17世紀の京都が近世的な都市へと発達する過程を、史料を博捜し、その大要を明らかにしようと試みたものである。 都市の発達史として京都をとらえる研究は、個別の事例研究として集積されつつあるが、全体の発達過程は明らかにされてこなかった。本論文は、織田信長による地子赦免以降から17世紀全体を中心に取り扱い、京都の都市的な発展を論じたものである。 本論文は4章からなる本論部分とそれをまとめたむすびで構成される。 第1章「序論」は、近世京都の都市形成に関する研究史の総括、論文の目的・対象・方法を述べる。目的は17世紀の京都の都市の発達を明らかにすることである。基礎的な方法は、地割という都市の土地の最小区画に注目し、その形成過程を分析する。その結果、旧来の京都内部で再開発が行なわれた地域と、新たに都市が周辺域に拡大されて行く地域の二つに類型化できるとする。京都内部の再開発は、織田信長によって地子赦免が行なわれ、それ以後17世紀中ごろまでに開発された地域で典型的に見ることができ、周辺域の拡大はそれ以後強力な開発主体によってかなり整然と行なわれた、という。 第2章「総論」では、近世京都の都市形成の拡大過程の全貌を編年的に把握しようと試みる。まず、その拡大過程は2期に分けられるという。その画期は寛文7年から延宝7年(1667〜1677)とする。前期は織田信長による地子赦免以後の土地政策が活き続けた時期であり、地子赦免地において、都市の再開発が実施された時期、以後は新たな都市の開発が実施されて行った時期である。この時以後の史料には、赦免地と年貢を賦課される年貢地の中間形態として地尻年貢地が登場するという。そして多くの土地関係史料のなかからその該当地域を抜出して、結果を表に纏め、地図にプロットした。採り上げられた地域数は81件である。さらに、京都の町の土地の賦課形式による模式図を作成した。それによると同心円状に赦免地1333町、地尻年貢地84町、年貢地66町、洛外町続き240町が配されている。 第3章「各論A」には、京都の祇園御旅所の成立と変容に関する詳論と、それを敷衍させた17世紀前半の京都の都市形成の概論を収める。祇園御旅所は天正19年(1591)年、四条寺町東入ルの土地に移り、同時にそれに属する町も移転した。本来土居で閉鎖されていたが、慶長6年(1601)に土居に口が開いて、外からの往復が可能となった。この町は、明治2年の地割を復元すると、道路に面した奥行3〜7間の赦免地とその背後の寺地から構成されており、当初からの町とその裏側への浸食の過程が想定できるという。この様な地割の成立過程を踏まえて、後半では道路に面して赦免地であり、その背後が年貢地である地尻年貢地を検討する。『京都役所向大概覚書』所収の「洛中地子之事」に列挙される地尻年貢地84箇所についてそれぞれを検討し、それが16世紀末から始まり1670年代までに形成されたものとする。そしてこの時期の都市の形成過程の一つの典型であったとする。 第4章「各論B」には、高瀬川に沿った新屋敷について、その開発状況とその後の変遷過程を論じる。高瀬新屋敷は四条通りと松原通りの間、鴨川の西岸に設けられた新しい地区である。この開発は寛文9年(1669)の鴨川築堤を契機としており、元来の荒撫地が新たに都市域に組み込まれる過程である。開発にあたった人物は美濃屋源右衛門・和泉屋休卜であった。そして、開発された土地は年貢地として洛中に編入された。この開発は京都の発達史において、新たな展開の画期となったという。以後、京都の都市的な発展は、かっての赦免地・地尻年貢地に置き換わり、この手法が採り入れられることとになり、以後明治まで継続され続けた。年貢地とは土地の面積で都市を把握する方法である。 最後にむすびで、全体の要約を載せる。 本論文の特徴は、従来充分な把握が行なわれて来なかった、17世紀の京都における都市的な発展について踏込んだ研究をおこないその概要をとらえたこと、そして地子赦免地における開発と新たな開発主体による新規の開発について詳細な検討をおこない、その実態を明らかにしたこと、の2点にあると思われる。この成果は、今後京都の都市発達史を論じる際には必ず参照されるべき重要な事柄と考える。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |