優れた触媒性能を有する遷移金属錯体を用いる有用な有機合成反応がこれまでに数多く報告されている。先に筆者らのグループでは、遷移金属錯体触媒の存在下、酸素分子とアルデヒドとを組み合わせ用い種々のオレフィンを酸化すると温和な条件(常温、常圧)で対応するエポキシドが高収率で得られることを見いだした。このエポキシ化反応を不斉反応に展開することができれば、空気中に豊富に存在し、過酸化物よりも入手が容易で取り扱いが簡便な酸素分子を酸化剤としてオレフィンから対応する光学活性エポキシドを合成することが可能になり、有機合成において重要な反応の一つになるものと期待できる。そこで、光学活性な配位子を持つ遷移金属錯体触媒を用い不斉な反応場を構築し、以下酸素分子を酸化剤とする単純オレフィンの不斉エポキシ化反応を試みた。 まず、遷移金属錯体を触媒とし酸素分子とアルデヒドとを組み合わせ用いる上記のオレフィンのエポキシ化反応をコレステロール誘導体に適用したところ、従来の過酸を用いる酸化とは逆の立体選択性をもって-エポキシドが優先的に得られることを見いだした。また、得られるエポキシドの-体と-体との生成比は用いる錯体触媒の中心金属の種類に影響され、特にマンガン(II)錯体を触媒とした場合に-体の生成比が最も高くなることも明らかにした(図1)。これらの結果からこのエポキシ化反応ではアルデヒドの自動酸化によって生成した過酸が直接オレフィンを酸化してエポキシドを与えるのではなく、遷移金属錯体が関与した酸化活性種によって反応が進行していることが示唆されたので、不斉反応への展開を期待し以下の検討を行った。 図1.コレステロール誘導体の-選択的エポキシ化反応 コレステロール誘導体のエポキシ化において-エポキシドの生成比率が最も高いマンガンを中心金属とし、配位子には種々修飾が可能な光学活性Salen型配位子を選び、これらから構成されるマンガン(III)錯体を触媒に用いて酸素分子を酸化剤とする単純オレフィンの不斉エポキシ化反応を試みた。その結果、表1に示すような光学活性Salen型マンガン(III)錯体を触媒に用いた場合に1.2-ジヒドロナフタレンから対応する光学活性エポキシドが生成することがわかった。一方、この反応系に触媒量のN-メチルイミダゾールを添加すると得られるエポキシドの絶対立体配置が逆転することも明らかになった。すなわち、(S、S)-体の錯体を触媒とするとN-メチルイミダゾール無添加の場合に優先的に生成するエポキシドの絶対立体配置は(1R,2S)であったのに対して、N-メチルイミダゾールを添加すると(1S,2R)-体のエポキシドが主生成物として得られた。この結果はN-メチルイミダゾールがこの不斉エポキシ化反応の酸化活性種に深く関与していることを示唆している。そこで、種々のイミダゾール類を添加して不斉エポキシ化反応を検討した結果、表2に示すようにイミダゾール環に置換しているメチル基の位置が得られるエポキシドの光学収率に大きく影響することがわかった。すなわち、無置換のイミダゾールあるいはN-メチルイミダゾールを添加した場合には高い光学収率で対応するエポキシドが得られるのに対して、イミダゾール環の窒素原子に隣接する炭素原子にメチル基が置換した2-メチルイミダゾールあるいは4-メチルイミダゾールを用いると生成するエポキシドの光学収率が低下した。この実験結果から次のような仮説を立てた。イミダゾール類は光学活性Salen型マンガン(III)錯体の軸配位子として不斉エポキシ化反応の酸化活性種の生成に関与しており、窒素原子に隣接する炭素原子にメチル基が置換しているイミダゾール類の場合は、メチル基の立体障害により窒素原子がマンガン(III)錯体へ配位し難くなるため軸配位子として充分に作用できないので光学収率を低下させていると推察した。さらにイミダゾール類の種類について検討した結果、N-アルキルイミダゾール類が光学収率の向上に効果的に作用することがわかった。この反応を種々のオレフィンに適用したところ、いずれのオレフィンからも対応する光学活性エポキシドが得られ、特にクロメン類から対応する光学活性クロメンオキシドが最高92%eeの光学収率で生成し、酸素分子を酸化剤とする不斉エポキシ化反応では初めて90%eeを超える高い光学収率を達成することができた(表3)。 表1.N-メチルイミダゾールの添加による絶対立体配置の逆転表2.光学収率に対するイミダゾールの種類の影響表3.種々のオレフィンの不斉エポキシ化反応 反応機構および酸化活性種について検討した結果、同じ絶対立体配置の光学活性Salen型マンガン(III)錯体触媒を用いると、N-アルキルイミダゾール類を添加しない場合には次亜塩素酸ナトリウム水溶液あるいはヨードシルベンゼンを酸化剤に用いた場合に得られる光学活性エポキシドとは逆の絶対立体配置を持つエポキシドが生成することがわかった。次亜塩素酸ナトリウム水溶液あるいはヨードシルベンゼンを酸化剤に用いる不斉エポキシ化反応の酸化活性種はマンガンのオキソ錯体であることが広く受け入れられているが、これと逆の絶対立体配置を持つエポキシドが生成することから、N-アルキルイミダゾール類を添加しない場合にはマンガンのオキソ錯体とは異なる酸化活性種が生成していると考えられる。この活性種はマンガン錯体、酸素分子およびアルデヒドから生成するアシルペルオキソ錯体であるという仮説を立て、さらにN-アルキルイミダゾール類を添加するとこれらが軸配位子として配位することによってアシルベルオキソ錯体がオキソ錯体に変換されるという反応機構を提案した(図2)。アシルベルオキソ錯体およびオキソ錯体がそれぞれ逆の絶対立体配置を持つエポキシドを生成すると考えれば、N-アルキルイミダゾール類の添加によるエポキシドの絶対立体配置の逆転を説明できる。また、マンガン錯体に配位し難いイミダゾール類を添加した場合はアシルベルオキソ錯体のオキソ錯体への変換が不充分なために二種類の酸化活性種が共存することになり、相殺されて得られるエポキシドの光学収率が低下するものと推定できる。 図2.不斉エポキシ化反応の反応機構 次に、この不斉酸素酸化反応の適用範囲の拡大を目的としてスルフィド類の酸素酸化を試みたところ、温和な条件(常温、常圧)で対応する光学活性スルホキシドが生成することがわかった。また、錯体の種類について検討した結果、スルフィドの不斉酸素酸化反応では光学活性Salen型マンガン(III)錯体よりも光学活性-ジケトン型マンガン(III)錯体が効果的に作用する触媒となることが明らかになった。この反応を種々のスルフィドに適用したところ、特に2-クロロフェニルメチルスルフィドから72%eeの光学収率で対応する光学活性スルホキシドが得られた(表4)。 この反応でもN-メチルイミダゾールを添加して光学活性Salen型マンガン(III)錯体触媒を用いるスルフィドの不斉酸素酸化反応を試みたところ、不斉エポキシ化反応と同様に得られる光学活性スルホキシドの絶対立体配置が逆転する現象が観測された。このことからスルフィドの不斉酸化反応でもN-メチルイミダゾル無添加の場合の酸化活性種はマンガンのアシルペルオキソ錯体であり、N-メチルイミダゾールの添加によりアシルベルオキソ錯体がオキソ錯体に変換され、酸化活性種になると推定される。また、光学活性-ジケトン型マンガン(III)錯体を触媒とした場合には用いるアルデヒドの種類が得られるスルホキシドの光学収率に影響することが明らかになり、アシルペルオキン錯体が反応の酸化活性種になっていることが示唆される。 さらに、得られたエポキシドを他の有用化合物へ変換する新しい反応について検討し、まずエポキシドを対応するl,2-ジオールに変換することを試みた。一般にエポキシドは酸触媒あるいは塩基触媒を用いる加水分解によって対応するl,2-ジオールに変換されるが、同一分子内にエステル結合を有するエポキシド、例えばグリシジルエステル類の場合にはエステル結合の加水分解も同時に起こり、取扱いの困難な1,2,3-トリオールが生成する問題点がある。そこで、新しい概念に基づいてニッケル(II)錯体触媒の存在下、酸素酸化によってエポキシドを開環する反応を検討した結果、同一分子内のエステル結合の加水分解を伴わずに対応する1,2-ジオールを得ることができた。この方法によれば種々のグリシジルエステル類から対応するグリセロール誘導体を良好ないし高い収率で合成することができる(表5)。 図表表4.種々のスルフィドの不斉酸素酸化反応 / 表5.酸素酸化による種々のグリシジルエステル類の開環反応 最後に、光学活性エポキシドを対応する光学活性1,3-ジオキソランに変換する反応について検討した。1,2-ジオールは種々の試薬と容易に反応するので目的以外の副反応を防ぐために適切な保護基で保護した後に用いられる場合が多い。一般にケトンとの反応により1,3-ジオキソランとして保護されるが、一旦1,2-ジオールに変換することなくエポキシドとケトンとの反応によって直接1,3-ジオキソランを合成することも可能である。したがって、光学活性エポキシドの光学純度を損なうことなく対応する1,3-ジオキソランへ誘導することができれば効率的な光学活性1,3-ジオキソランの合成法になるものと考えられる。そこで、種々のルイス酸触媒を用いて変換反応を試みた結果、四塩化チタンを用いると光学純度を保持したまま光学活性エポキシドから対応する光学活性1,3-ジオキンランが得られることを見いだした(図3)。 図3.光学活性エポキシドの光学活性1,3-ジオキソランへの変換反応 |