学位論文要旨



No 212430
著者(漢字) 蓮尾,昌裕
著者(英字) Hasuo,Masahiro
著者(カナ) ハスオ,マサヒロ
標題(和) 非線形分光法による塩化第一銅の波数ゼロ近傍の励起子分子の研究
標題(洋) STUDY ON K〜0 BIEXCITONS IN CuCl BY NONLINEAR SPECTROSCOPY
報告番号 212430
報告番号 乙12430
学位授与日 1995.07.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12430号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 小林,俊一
 東京大学 教授 三浦,登
内容要旨

 直接遷移型半導体の一つであるCuCl(塩化第一銅)は、単純なバンド構造を反映した簡単な励起子構造や励起子分子二光子共鳴に伴い現れる多彩な非線形光学現象で有名であり、光物性のモデル物質として活発な研究が続けられている。その結果多くの物性パラメータが精度良く求められており、今日では次世代の光学素子としての応用や、基本的な物理法則の検証の場としても多くの情報を提供し、注目を集め続けている物質である。本研究はその中でも重要視されている次の二点を取り上げ、非線形分光法を活用し研究を行った。

 1)波数ゼロ近傍(k〜0)の励起子分子二光子共鳴とそれに伴う非線形感受率(|(3)|)の精密測定。

 2)励起子分子のボーズ・アインシュタイン凝縮に伴い波数ゼロ状態に発生するマクロなボピュレーションおよびコヒーレンスの探査。

 1)で調べるk〜0の励起子分子の二光子共鳴はいわゆる巨大振動子効果と中間状態の共鳴効果のためその効率が非常に大きいこと、さらにはその共鳴エネルギーが結晶の透明領域あることなどにより、次世代の光源として期待されるスクィーズド光や二光子対の発生素子や超高速光スイッチング素子などへの応用が期待されているものである。そのため、これまでその性能の評価に必要なこの二光子共鳴に伴う|(3)|の定量が行われてきたが、(1)非常に弱い励起強度(〜数kW/cm2)においても飽和現象がみられること、(2)共鳴線の幅が非常に狭く(〜10eV)、通常のパルス色素レーザーを用いたのでは光源のスペクトル幅に共鳴線幅が埋もれてしまうことのため困難であった。そこで本研究においてスペクトル幅の非常に狭い光源を開発し、二光子偏光回転分光法を用いて直接的に二光子共鳴スペクトルを測定した。実験装置の概略を図1に示す。本研究で開発した光源は、Ti-サファイアリングレーザー、色素増輻セル、SHG素子(LiIO3)を組み合せたスペクトル幅が非常に狭く(〜1eV)、強度が十分な(〜数kW/cm2)、紫外光源(図1中点線で囲んだ部分。実験ではポンプ光として使用。)とファプリーペロー干渉計を用いた波長掃引が可能なエキシマレーザー励起の色素レーザー光源(線幅3eV、実験ではプローブ光として使用。)である。図2に励起子分子二光子共鳴の観測例を示す。図中には2つの構造が見られるが大きなピークがk=3×103cm-1、小さなピークがk=8.85×105cm-1の励起子分子の二光子共鳴によるものである。また図中に点線で示した曲線はこの2つの共鳴(ローレンツ型と仮定)、結晶の反射、透過を考慮したモデル計算の結果である。ここで、k=3×103cm-1とk=8.85×105cm-1の励起子分子のエネルギー差は励起子分子の有効質量近似を用いて決めたが、このように実験結果を非常に良く再現することが分かる。これにより、波数ゼロ近傍においても励起子分子の有効質量近似が成立することが初めて確認された。このことは次に述べる励起子分子のボーズアインシュタイン凝縮を議論する上でも非常に重要なことである。さて、このようにして得られたk=3×103cm-1の励起子分子の二光子共鳴線の幅とそのピークでのシグナル強度のポンプ光強度依存性を図3に示す。1kW/cm2以下の励起強度では実験誤差の範囲でスペクトル線幅の広がりや飽和などの強励起効果がみられず、その領域でそれぞれ(3.0±0.9)×10-4esu、24±2eVと求められた。また、別の試料においても同様の測定を行い、これらの値には試料依存性があることが明かになった。

図1 二光子偏光回転分光法の実験装置図図表図2 二光子偏光回転スペクトルの測定例(実線)とモデル計算(点線) / 図3 k=3×103cm-1の励起子分子の二光子共鳴線の輻x(A)とそのピークでのシグナル強度(B)のポンプ光強度1pump依存性 プローブ光の強度は0.18kW/cm2である。(B)中の直線は目安として強励起効果がないときに期待されるポンプ光強度依存性(ポンプ光強度の2乗)を示している。

 ここで得られた|(3)|の値は透明領域にあるものでは最大のもので、あらためて励起子分子二光子共鳴の有用性が確認された。今後、定常光を用いた測定が可能になれば、さらに弱い励起強度での精度の高い|(3)|の定量が可能になるとともに、スクィーズ光や二光子対の発生の大きな発展が期待される。

 一方、2)で取り上げた励起子系のポーズ・アインシュタイン凝縮については、ポーズ・アインシュタイン凝縮自体が物理的に非常に興味が持たれる現象であることのみならず、励起子、励起子分子の質量が自由電子程度と非常に軽いために比較的高温、低密度で相転移が起こると期待できること、また励起光強度を変えることによって密度を自由に制御できること等の理由から活発な研究がなされている分野である。CuClの励起子分子もその有力な候補として研究が進められてきた。ところでこれまでの励起子分子のポーズ・アインシュタイン凝縮に関する研究手法は主に励起子分子が励起子を一つ残して消滅するときに放出されるいわゆるM発光の観測による励起子分子の運動量空間での分布の観測であった。しかしこの手法では、波数ゼロの励起子分子の観測が選択則などにより容易ではなく、さらにはコヒーレンスに関する情報を得ることが困難であった。この困難を打開するため共同研究者のミジロビッツ博士が励起子分子の二光子共鳴に伴い発生する位相共役波を観測することを提案した。その原理を図4に示す。位相共役波は向い合わせのポンプ光(Pump1,2)によって作られたコヒーレントな波数ゼロの励起子分子をプローブ光で誘導することにより発生する(図4(A))。一方、先ほど述べたように励起子分子には波数ゼロ近傍でも有効質量近似が成立するのでポーズ・アインシュタイン凝縮が起こると波数ゼロの状態に凝縮が生じる。とすれば、ポンプ光がなくともプローブ光を入射すれば位相共役波が発生することになる(図4(B))。実際にはポンプ光なしでは位相共役波はノイズ限界の範囲で観測されず、通常の位相共役波が発生しているもとで高密度のインコヒーレントな(熱的な)励起子分子を生成したときにどのような変化が見られるかを調べた。なお、実験は比較的容易な縮退配置(ポンプ光とプローブ光の光子エネルギーが等しい配置)と、非常に複雑になるが分解能が向上し波数ゼロ状態の共鳴幅が直接的に観測される非縮退配置(ポンプ光とプローブ光の光子エネルギーが異なる配置)で行った。

図4 位相共役波の発生通常の場合(A)とポーズ・アインシュタイン凝縮の場合(B)。

 図5は縮退配置で得られた位相共役波の励起スペクトルである。(a)(b)(c)はそれぞれインコヒーレントな励起子分子がある場合、ない場合、およびその差スペクトルである。なお(A)(B)はそれぞれ質が非常に良い試料および悪い試料の場合である。質の良い試料においては励起子分子二光子共鳴のごく近傍でインコヒーレントな励起子分子の導入によって位相共役波が約30%も増大することが見いだされた。一方、質の悪い試料では位相共役波は増大をみせず、減少するのみであった。このように実験結果は試料の質に大きく左右されることが分かり、この現象と試料の劣化の関連も調べられた。

図5 質の良い試料(A)と質の悪い試料(B)で観測された縮退配置での位相共役波の励起スペクトル(a)(b)(c)はそれぞれインコヒーレントな励起子分子がある場合、ない場合、およびその差スペクトルである。位相共役波を発生させるレーザー光の強度はポンプ光がそれぞれ50kW/cm2、プローブ光が15kW/cm2である。インコヒーレントな励起子分子を生成する光の強度は400kW/cm3である。図中右上に位相共役波発生の光学配置を示す。

 一方、図6はインコヒーレントな励起子分子を生成させる光(これからこの光をインコヒーレントポンプ光と呼ぶ)のいろいろな強度に対して非縮退配置で得られた位相共役波のスペクトルから位相共役波の強度、スペクトルのインコヒーレントポンプ光強度依存性を調べ、プロットしたものである。なお、非縮退配置での位相共役波のスペクトル幅が励起子分子の共鳴線幅に対応することが簡単な解析により分かっている。一方、図上部には簡単な励起子・励起子分子系の速度方程式を用いて求められるインコヒーレントな励起子分子の密度をスケールした。図から位相共役波の強度変化と共鳴線幅の変化が相関をもって起こっているのが良くわかる。さらに位相共役波の顕著な増大および共鳴線幅の顕著な減少が見られるのは励起子分子の密度が図中矢印で示したポーズ・アインシュタイン凝縮の臨界密度付近であることがわかった。すなわちこのような条件のもとで波数ゼロの励起子分子数の増大とともにその状態のコヒーレンスの増強が生じていると考えられ、このことはポーズ・アインシュタイン凝縮の実現を示唆している。

図6 位相共役波のピーク強度とスペクトル幅のインコヒーレントポンプ光強度依存性ピーク強度、スペクトル幅ともにインコヒーレントポンプ光がないときのもので規格化されている。スペクトル幅は励起子分子の共鳴線幅に対応している。図中上部には計算によって求めた励起子分子の密度が記入されている。矢印は2Kでの臨界密度を示している。

 このように本研究により、波数ゼロの励起子分子やポーズ・アインシュタイン凝縮について知見を得るために位相共役波が有用であることが明かになった。もちろんこの方法は三次の光学的非線形性を有する系で一般的に適用可能な方法である。また、本研究で見い出された位相共役波の増大という現象は1)で議論された波数ゼロの励起子分子による二光子対発生の増幅法としても有用と考えられ、非常に意義深いものである。

審査要旨

 本論文は,CuCl(塩化第一銅)における波数ゼロ近傍の励起子分子について,非線形分光学の手法を用いて研究したものであり,第1章序論,第2章試料作製に始まって,第3章高分解能二光子偏光分光,第4章位相共役波によるポーズアインシュタイン凝縮(ポーズ凝縮)の研究,そして第5章まとめの全5章からなる.

 直接遷移半導体の一つであるCuClは,単純なバンド構造を反映した比較的簡単な励起子構造を持ち,励起子分子の二光子共鳴に伴って現れる各種の非線形光学現象で有名な物質である.本論文ではその中でも特に重要視されている次の2点をとりあげて研究を行っている.すなわち

 1.波数ゼロ近傍の励起子分子二光子共鳴とそれに伴う非線形感受率(3)の精密測定,

 2.励起子分子のポーズ凝縮に伴って現れる波数ゼロの励起子のマクロな分布と,そのコヒーレンスの探索,である.

 第3章ではまず1の問題をとりあげている.二光子共鳴に伴う(3)の正確な評価は,非常に弱い励起強度においても飽和現象が現れてしまうこと,共鳴線幅が通常の励起レーザーのスペクトル幅より狭いことのために,従来困難であった.申請者はこれらの問題点を解決するために,スペクトル線幅の非常に狭いレーザー光源を開発し,二光子偏光分光法を用いて直接的に二光子共鳴スペクトルを測定した.その結果1kW/cm2以下の励起強度においては,スペクトル線輻の広がりや飽和などの強励効果は見られず,信頼できる値として,(3)=(3.0±0.9)x10-4esu,幅は24±2eVが求められた.ここで得られた(3)は透明領域にあるものとしては最大のものである.以上,前半部分では重要なバラメーターである非線形感受率の精密決定を行った点が評価された.

 第4章では2の問題を取り扱っている.He4以外の系におけるポーズ凝縮とそれに伴う超流動などのマクロな量子効果の探索は,物理の基礎的な問題として興味が持たれている.励起子,励起子分子の系は質量が自由電子程度と非常に軽いために,比較的高温低密度で相転移が起こることが期待されること,また励起光強度を変えることにより密度を自由に制御できることなどの理由から,このような研究に有望と考えられている.ところがこれまでの励起子分子のポーズ凝縮に関する研究手法は,主に励起子分子が励起子を一つ残して消減するときに放出される,いわゆるM発光のスペクトル形状から,励起子分子の波数空間における分布を推定するというものであった.しかしこの方法では,波数ゼロの励起子分子からの発光遷移が禁制遷移であるため,直接観測できないという問題がある.またポーズ凝縮状態の一つの重要な特徴であるコヒーレンスについての情報を得ることは困難である.これに対し,位相共役波の観測によりこれらの困難を打開する可能性がミジロビッツ博士により示唆された.申請者はこの考えに基づき,二種の実験を行った.

 まず対向する2本のレーザービーム(ポンプ光)を用いて,二光子共鳴励起により波数ゼロ近傍の励起子分子を生成し,もう一つのビーム(プローブ光)によって生じる位相共役波を観測した.次に同時に別のレーザー光(インコヒーレントポンプ光)によってインコヒーレントな励起子分子を生成付加したときに,それが位相共役波の強度やスペクトル幅に与える影響を調べた.第一の実験は縮退配置と言われるもので,ポンプ光とプローブ光に同じ波長の光を用いたものである.その結果,良質の試料においては,励起子分子二光子共鳴の極く近傍で,インコヒーレントな励起分子の導入によって,位相共役波の強度が30%も増大することが見出された.第二の実験は,非縮退配置すなわちポンプ光とプローブ光の波長が異なる場合であり,波数ゼロ状態の共鳴幅が直接観測できる.その結果,インコヒーレントポンプ光の強度の増加とともに位相共役波が増大し,同時に共鳴線幅の顕著な減少が見られた.しかもこの時実験条件から推定されれ励起子分子の密度はポーズ凝縮の臨界密度に近い.また,位相共役光のスペクトルのピークシフトから,励起子分子の化学ポテンシャルの変化が検知された.これらの実験事実は,ポーズ凝縮の実現によるマクロなポビュレーションの増加と,コヒーレンスの増大を反映しているものと解釈された.

 第4章の結論についてはまだ検討の余地があると考えられるが,ポーズ凝縮の研究において,位相共役光の検出という新しい手法の有効性を示した点が,特に高く評優された.

 以上のように本論文は,波数ゼロ近傍の励起子分子系について非線形光学を駆使して解明を試みた画期的な研究であり,博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め,合格と判断した.

 なお,本論文には長沢信方氏との共同研究が含まれるが,主要部分は申請者が実質的に独力で行ったものと認められる.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50670