学位論文要旨



No 212436
著者(漢字) 木下,俊彦
著者(英字)
著者(カナ) キノシタ,トシヒコ
標題(和) Arachidonic acidの脱落膜Prolactin産生に及ぼす影響に関する研究 : 特に分娩経過との関連において
標題(洋)
報告番号 212436
報告番号 乙12436
学位授与日 1995.07.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12436号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川名,尚
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 助教授 福岡,秀興
 東京大学 助教授 滝沢,憲
 東京大学 講師 山路,徹
内容要旨

 Riddickらの報告以来、in vitro系で脱落膜組織からのPRL分泌、あるいは免疫組織化学的に胎盤組織内にPRLを証明したという結果が多数報告され、脱落膜においてPRLが産生分泌されることは、ほぼ疑いのない事実となっている。その結果羊水中に存在しているPRLは主として脱落膜で産生されたPRLが移行したものであることも明らかにされた。しかしながら、その産生調節機序については、下垂体のPRL産生に対し影響を与えるtyiroid-releasing hormoneやdopapine、bromocriptineなどは脱落膜PRLの産生に対しては影響を与えないことが知られていることから、脱落膜PRLの産生調節機構は下垂体前葉とは異なり、局所的に調節されている可能性が示唆されているが、未だ明確にはされていない。

 最近、prostaglandin(PG)の前駆物質であるアラキドン酸が妊娠末期の脱落膜PRL産生を抑制することが報告されている。アラキドン酸は羊水中にも比較的高濃度に存在し、脱落膜組織においてもアラキドン酸を介し各種のPGが産生されることが知られている。さらにアラキドン酸自体が細胞増殖やホルモン分泌にも関与していることが明らかにされており、アラキドン酸が脱落膜組織におけるPRL分泌の生理的調節因子の一つとなっている可能性がある。

 そこで、今回まず妊娠初期の脱落膜を用いて脱落膜PRL産生に対するアラキドン酸の影響を検討した。つぎに、脱落膜および羊水中のPRLの生理的意義を解析するために、妊娠末期で陣痛発来前と発来後の各組織におけるPRL濃度を比較して、ヒトの分娩時におけるアラキドン酸代謝とPRLとの関係について検討を加えた。

 (1)アラキドン酸(3〜300M)はin vitroで脱落膜PRLの産生を用量依存的に抑制した。アラキドン酸を精製してperoxideを除去しても抑制効果は不変であった。他のpoly-unsaturated fatty acidも脱落膜PRLの産生を抑制したが、mono-unsaturated fatty acidは無効であった。また、saturated fatty acidにも抑制効果は認められなかった。

 (2)PGE2には脱落膜PRLの産生抑制効果は認められず、またcyclooxygenaseのinhibitorであるindomethacin、およびlipoxygenase系のinhibitorであるBW-755Cをアラキドン酸と併用したが、アラキドン酸は脱落膜のPRLの産生を抑制した。

 (3)phorbol 12-myristate 13 acetateは脱落膜PRL産生に影響しなかった。また、dibutyryl-c-AMPも、脱落膜PRL産生に影響しなかった。

 (4)陣痛開始前の帝王切開例より得た羊水と、陣痛開始後即ち経膣分娩時に得た羊水中PRL値を比較したところ陣痛開始後の羊水中では有意(p<0.01)に低値であった。羊水中のPRL濃度は分娩時間の経過にともない有意(p<0.05)に減少し、陣痛開始後の所要時間との間には負の相関性(r=-0.34)を認めた。

 陣痛開始後に採取した脱落膜におけるPRL含量は、陣痛開始前の含量に比べて有意(p<0.05)に少なかった。

 (5)羊水には各種の脂肪酸が存在した。しかし、陣痛開始後の羊水中では陣痛開始前に比べてpalmitic acid,palmitoleic acid,oleic acid,linoleic acid,arachidonic acidは、各々126%,295%,283%,382%,226%増加していた。

 本研究により、妊娠初期の脱落膜PRL産生はアラキドン酸により抑制されることが明らかとなった。脱落膜組織においてはphosholipase A2の活性が認められ、しかも非妊時の子宮内膜よりはるかに高い活性を示していると報告されている。さらに卵膜からも多量のアラキドン酸が分泌されていることも知られている。これらの事実と今回の成績を勘案すると、脱落膜由来のPRLは局所において放出されるアラキドン酸により、その産生分泌が調節されている可能性が示唆される。

 脱落膜PRL産生はindomethacinやPGE2によって影響されなかった。さらに、lipoxygenase系酵素阻害剤であるBW755-Cの添加によってもアラキドン酸の脱落膜PRL産生抑制効果は影響されなかった。以上より、脱落膜PRL産生抑制機序にlipoxygenaseやcyclooxygenase系代謝物の関与の可能性は少なく、アラキドン酸それ自体あるいはこれらの経路以外のアラキドン酸代謝経路が脱落膜PRLの産生抑制に関与しているものと考えられる。

 アラキドン酸とホルモン分泌との関係については、すでに膵、下垂体などにおいても報告されている。しかし、いずれもindomethacinやBW755-Cなどのアラキドン酸代謝阻害物がアラキドン酸のホルモン分泌効果に影響することから、アラキドン酸自体の作用よりはアラキドン酸代謝物の関与が示唆されている。したがって、脱落膜PRL産生に対するアラキドン酸の作用機構は他のホルモン分泌におけるそれとは異なっているものと考えられる。また、ある種の組織においてはアラキドン酸やPGがcAMP産生を亢進することが知られている。さらにcAMPが脱落膜PRL産生を抑制するとの報告もあり、アラキドン酸がcAMP産生を亢進した可能性も考慮される。しかしながら、PGE2はcAMP増量作用を有するにも関わらず、脱落膜PRLの産生を抑制しなかった。また、今回の実験ではdibutyryl-cAMPの添加やcAMP分解酵素であるphosphodiesteraseのinhibitorであるiso-butyl-methyl-xanthine(IBMX)の添加も脱落膜PRL産生に影響しなかったことからアラキドン酸はcAMPを介さずに作用しているものと判断される。

 最近、アラキドン酸が好中球に対して直接protein kinase Cを活性化することが報告され、細胞内のシグナル伝達のsecond messengerとしての役割が注目されている。今回protein kinase Cを活性化するphorbol esterの一種であるphorbol 12-myristate 13 acetateによっても脱落膜PRLの産生は影響されなかった。従って、アラキドン酸による脱落膜PRL産生抑制機構においては、protein kinase Cの関与は否定的である。

 陣痛開始後の羊水中では、アラキドン酸をはじめとして各種脂肪酸濃度の増加が確認された。組織中ではアラキドン酸は大部分がリン脂質中にエステル結合型として存在し、PG合成の基質として利用されるためには酵素的に分解されて遊離型に転換される必要がある。羊水腔を取り囲んでいる卵膜組織中のアラキドン酸濃度は他の組織に比べて非常に高値であり、陣痛開始後には特異的に減少することから、羊水中のアラキドン酸の供給源は卵膜組織と考えられている。また羊水中に存在しているPRLは主として脱落膜で産生されたPRLが移行したものであることも報告されているが、羊水中のPRL値はアラキドン酸濃度とは逆に陣痛開始後においては低下し、しかも分娩時間の経過に逆相関して減少することが明らかになった。脱落膜においても陣痛開始後はPRL含量が低下した。以上より分娩経過にともない増加する卵膜中からのアラキドン酸遊離が脱落膜PRLの産生を抑制した結果、羊水中PRL濃度が減少するものとの推論が可能である。

 また最近、ヒト羊膜のphosholipase A2活性はestrone sulfataseにより著しく亢進するという報告がなされている。一方、estrone sulfatase活性は陣痛を経過した脱落膜組織では高値を示すこともしられている。その結果、陣痛例では脱落膜のphosholipase A2活性が上昇し、アラキドン酸の遊離が増加することが想定されるが、今回認められた陣痛例での羊水中のアラキドン酸の濃度の上昇は上記の推論と合致する事実である。さらに興味あることにPRLは陣痛発来後の脱落膜組織のestrone sulfatase活性を抑制することが示されており、上述の陣痛を経過した例でのestrone sulfatase活性の上昇は今回観察されたPRL濃度の低下による結果ということも否定できない。

 分娩発来の機序については現在なお明らかではないが、卵膜より分泌されているPGE2が子宮収縮に関与することは認められている。一方、近年PRLが卵膜のPGE2産生を抑制することも報告されている。今回、陣痛を経験した例では脱落膜組織および羊水中のPRL濃度が低下しているという成績が得られたが、卵膜局所でのPRL濃度の低下がPGの卵膜からの分泌をさらに亢進した可能性も推定される。すなわちPRLの濃度の低下によりPG分泌の抑制が解除され、その結果子宮収縮が促進されるという推論も可能である。

 脱落膜PRLは主に羊水中に移行し、羊水の浸透圧や水電解質代謝を調節していると想定されているが、脱落膜PRLの生理的意義の詳細は不明であった。今回、脱落膜PRL分泌に与えるアラキドン酸の影響が明らかとなり、特に分娩経過に伴い羊水中PRLの低下および脱落膜におけるPRL含量の低下を見いだしたことはこれまでにない新知見であり、今後の脱落膜PRLの生理的意義の解明において新しい視点を与え、意義深いものと考えられる。

審査要旨

 本研究はヒトの脱落膜および羊水中PRLの生理的意義を解析することを目的に、脱落膜組織培養を用いての脱落膜PRL産生に対するアラキドン酸の影響の検討、および妊娠末期で陣痛発来前と発来後の各組織におけるPRL濃度を比較して、ヒトの分娩時におけるアラキドン酸とPRLとの関係について検討を加えたものである。下記のごとく結果を得た。

 (1) アラキドン酸(3〜300M)はin vitroで脱落膜PRLの産生を用量依存的に抑制した。アラキドン酸を精製してperoxideを除去しても抑制効果は不変であった。他のpoly-unsaturatedfatty acidも脱落膜PRLの産生を抑制したが、mono-unsaturated fatty acidは無効であった。また、saturated fatty acidにも抑制効果は認められなかった。

 (2) PGE2とPGF2には脱落膜PRLの産生抑制効果は認められず、またcyclooxygenaseのinhibitorであるindomethacin、およびlipoxygenase系のinhibitorであるBW-755Cをアラキドン酸と併用したが、アラキドン酸は脱落膜のPRLの産生を抑制した。

 (3) phorbol 12-myristate 13 acetateは脱落膜PRL産生に影響しなかった。また、dibutyryl-c-AMPも、脱落膜PRL産生に影響しなかった。

 (4) 陣痛開始前の帝王切開例より得た羊水と、陣痛開始後即ち経膣分娩時に得た羊水中PRL随を比較したところ陣痛開始後の羊水中では有意(p<0.01に低値であった。羊水中のPRL濃度は分娩時間の経過にともない有意(p<0.05)に減少し、陣痛開始後の所要時間との間には負の相関性(r=-0.34)を認めた。

 陣痛開始後に採取した脱落膜におけるPRL含量は、陣痛開始前の含量に比べて有意(p<0.05)に少なかった。

 (5) 羊水には各種の脂肪酸が存在した。しかし、陣痛開始後の羊水中では陣痛開始前に比べてpalmitic acid,palmitoleic acid,oleic acid,linoleic acid,arachidonic acidは、各々126%,295%,283%,382%,226%増加していた。

 以上、本論文から脱落膜PRL分泌に与えるアラキドン酸の影響が明らかとなり、特に分娩経過に伴い羊水中PRLの低下および脱落膜におけるPRL含量の低下を見いだされたことはこれまでにない新知見である。本研究はこれまでは不明であったヒトの脱落膜PRLの生理的意義の解明において新しい視点を与え、意義深いものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50955