脂質は、生体構成物質の4大要素の一つであり、生体内で重要な役割を果たしている。生体構成物質のうち核酸、タンパク質、糖質がそれぞれ「遺伝子工学」「タンパク質工学」「糖鎖工学」として取り組まれ、バイオテクノロジー分野で発展しているのに対し、脂質を対象とするバイオテクノロジーは、世界的に未踏な分野である。脂質は生体機能にとって重要な物質であるとともに、産業上も重要な物質である。したがって脂質の構造変換技術の開発による機能性脂質のデザインは、「脂質工学」のひとつの分野として研究の進展が期待されている。 ホスホリパーゼDは、リン脂質のリン酸基と塩基とのエステル結合を切断する加水分解反応を触媒する酵素であるが、反応系に水酸基を有する化合物が共存するとホスファチジル基を他の分子の水酸基に転移させる。この反応を利用することにより、リン脂質の塩基を任意の化合物と置換することができる。そこで著者らは、ホスホリパーゼDの転移反応を用いて抗酸化リン脂質を合成し、その抗酸化活性発現機構について詳細に研究を行なった。以下に概要を述べる。 リン脂質に導入する分子として、ビタミンEの抗酸化活性基であるクロマノールを選択した。卵黄ホスファチジルコリン(EYPC)とクロマノール上2位にhydroxyethyl基をもつクロマノール誘導体2,5,7,8-tetramethyl-6-hydroxy-2-(hydroxyethyl)chromanを基質として放線菌ホスホリパーゼDを反応させたところ、未知の反応物が生成した。反応生成物をシリカゲルカラムクロマトグラフィーで精製し、機器分析に供した。SIMSスペクトル、IRスペクトル、1H-NMR、13C-NMRの結果より、反応物はリン脂質のリン酸基にクロマノールがエステル結合した1,2-diacyl-sn-glycero-3-phospho-2’-hydroxyethyl-2’,5’,7’,8’-tetramethyl-6’-hydroxy-chromanと同定しホスファチジルクロマノール(PCh)と命名した。 PChの抗酸化作用を調べた。まずPChの均一溶液系でのラジカル捕捉能を測定した。その結果、PChはビタミンEおよびその側鎖のない誘導体2,2,5,7,8-pentamethyl-6-chromanol(PMC)と同様のメカニズムでラジカルを捕捉することが明らかになったが、その反応性はわずかに低かった。これは、リン脂質の特性である会合体の形成により運動性が低下した結果と考えられた。つぎにラードの自動酸化に対する抗酸化作用を調べた。PChを添加したラードはビタミンEを等モル量添加したものよりも酸化安定性が優れていた。一方、EYPCは単独では抗酸化活性を示さなかったが、EYPCとビタミンEを同時に添加したところ、ビタミンEを単独で添加した時よりも酸化抑制期間(誘導期)は延長した。これは従来より知られているリン脂質とビタミンEの相乗的作用によるものと考えられた。興味深いことに、PChはEYPCとビタミンEを添加した場合よりもさらに長く酸化を抑制した。 PChの油脂中での抗酸化活性の発現機構を、油脂の酸化を単純化したモデル系で解析した。油相でラジカルを発生させモデル油脂を酸化させた場合、ビタミンEとPChの抗酸化活性はほぼ等しかった。一方、水に溶解した鉄イオンを添加して酸化を引き起こした場合、PChはビタミンEよりも強く酸化を抑制した。油脂の自動酸化は油脂中に微量存在する金属イオンによって極性の高い部位でラジカルが生じ、連鎖反応が引き起こされると考えられている。PChはリン脂質の特性により逆ミセルを形成し、極性基に結合しているクロマノールはコアの極性の高い部位に位置する。そして、そこで起る酸化のイニシエーションを効率的に抑制する機構が考えられた。これまでの抗酸化剤の開発は、抗酸化剤の化学的反応性を上げることに主眼がおかれてきた。本研究は、不均一な場において、抗酸化剤を必要な場に必要な量をいかに正しく運ぶかも重要であることを示した興味深い結果である。 PChの生体での抗酸化作用を調べるために、モデル系で解析した。脳ホモジネート上清の自動酸化反応に対し、添加したビタミンE誘導体はいずれも酸化抑制効果を示したが、その抑制効果には違いがみられた。PMCは低濃度でも強く酸化を抑制した(IC50=0.065M)。PChは高濃度添加すると酸化を完全に抑制したが(IC50=5.4M)、ビタミンEは高濃度添加しても酸化を完全に抑制することはできなかった(IC50=13.7M)。これらの誘導体は、クロマノール上2位に結合した分子の違いにより極性が異なる。したがって、ラジカル発生部位に近づける物質が容易にラジカルを消去して強く酸化を抑制する機構が考えられた。ビタミンEを高濃度添加しても酸化を完全には抑制できなかったことは、生体において様々な部位で様々な要因により引き起こされるフリーラジカルによる障害に対し、ビタミンEのみでは十分に防御できないことを示唆している。 抗酸化リン脂質PChが生体膜中でどの様な抗酸化作用を発現するのかは興味深い。そこで細胞膜モデルとして自動酸化反応の特徴が異なる3種類の一枚膜リポソームを用い、ビタミンE誘導体の抗酸化作用を調べた。その結果、誘導期の長さはビタミンE>PCh>PMCの順であった。ビタミンE誘導体と各種ラジカルとの反応性を調べた結果、膜外あるいは膜内でアゾ化合物より発生するフリーラジカルとの反応性はPMC>PCh>ビタミンEの順であった。一方、膜内でラジカル連鎖反応により発生する脂質ベルオキシラジカルとの反応性はビタミンE>PCh>PMCの順であった。これらの結果より、3種のビタミンE誘導体のリポソーム膜中での抗酸化作用の違いは、各抗酸化剤が捕捉するラジカル種が異なることによるものであると結論した。すなわち、ラジカル連鎖反応で進行するリポソーム膜の酸化反応に対し、PMCとPChは主に膜外で発生したフリーラジカルと反応して消失するため連鎖反応を十分抑制できないのに対し、膜の内部に位置するビタミンEは主に脂質ベルオキシラジカルを捕捉して連鎖反応を切断し、効率的に過酸化脂質の蓄積を抑制した。また、膜外にビタミンCが存在した場合一様に再生され、各誘導体の誘導期に差はなくなった。したがって、再生系が十分に機能すれば、PChもビタミンEと同程度の抗酸化活性を生体内で発現することが期待された。 牛大動脈血管内皮細胞を用いて過酸化脂質(tert-butyl hydroperoxide:t-BOOH)の細胞毒性に対するビタミンE誘導体の防御効果を調べた。細胞をビタミンEで前処理すると、t-BOOHの毒性は完全に抑制されが、PMCとPChの前処理では抑制することはできなかった。各誘導体の細胞への取込量を調べたところ、ビタミンEのみが細胞内に取り込まれ、細胞内で起るラジカル反応を抑制すると考えられた。一方、t-BOOHと抗酸化剤を同時に添加した場合、ビタミンEは細胞毒性を抑制することができなかったが、PMCとPChは抑制効果を示した。したがって、PMCとPChは細胞外でラジカルを捕捉して毒性を抑制するが、ビタミンEは細胞内に取り込まれる過程においては、細胞外で起る反応および細胞膜の障害を抑制することはできないことが示唆された。以上の結果より、PChは生体というヘテロな場においてビタミンEが十分に抑制できない酸化的障害を抑制できる可能性が考えられた。 油脂にビタミンEとリン脂質を添加すると、ビタミンEのみを添加した時よりも酸化安定性が高まることが知られている。これは両者の相乗的な作用によると考えられているがそのメカニズムは不明である。そこで、ビタミンEとリン脂質の相乗作用をモデル系で再現し、作用機構を解析した。両者の相乗作用は水相でラジカルを発生させて酸化を開始した時にのみ発現した。また、リン脂質を添加するとビタミンEと水相で発生するラジカルとの反応性は高まることが判明した。その効果は、添加するリン脂質のアシル基の炭素鎖長が長いほど強いことより、リン脂質の逆ミセル構造の形成がその作用に関与していることが考えられた。また、ビタミンEがラジカルと反応して生じるビタミンEラジカルのリン脂質による再生は確認されず、両者の相乗作用はビタミンEとビタミンCで知られているような再生機構による相乗作用ではないと考えられた。以上の結果より、リン脂質が存在した場合、ビタミンEはリン脂質が形成した逆ミセルのコアで起る酸化のイニシエーションを抑制し、その後のラジカル連鎖反応を効率的に抑制したものと考えられた。 PChを工業的に利用するために、セミ工業的スケールによる試験製造を行なった。酵素反応は有機合成用40L反応槽を用いて行ない、中圧クロマトグラフィーで精製し、PCh粉末約9.1gを得た。酵素反応による変換効率は試験管レベルの反応よりも低下したが、十分に工業レベルでの製造が可能であることが示された。 PChは化粧品原料にとって重要な2つの機能を有している。リン脂質の乳化、保湿機能と抗酸化機能である。現在化粧品メーカー2社にPChサンプルを提供し、化粧品材料としての機能性および有用性について検討中である。 以上本研究は、抗酸化機能を持つ全く新しいリン脂質の酵素的合成に成功し、油脂中および生体モデル中での抗酸化活性発現機構を明らかにした。また、PChの活性発現機構に基づいて、これまで不明であったリン脂質とビタミンEの相乗的抗酸化作用のメカニズムについて、新しい作用機作を提案した。最後に、PChの工業生産を目的として、製造のスケールアップを行ない用途開発を行なうに十分な量の試料の製造に成功した。 |