学位論文要旨



No 212482
著者(漢字) 福島,徹
著者(英字)
著者(カナ) フクシマ,トオル
標題(和) 公衆光通信網への応用を目的とした長波系多重量子井戸半導体レーザの研究
標題(洋) A Study of Long-Wavelength Semiconductor Multiple Quantum Well Laser for Commercial Fiber Optic Networks
報告番号 212482
報告番号 乙12482
学位授与日 1995.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12482号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菊池,和朗
 東京大学 教授 多田,邦雄
 東京大学 教授 神谷,武志
 東京大学 教授 保立,和夫
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 助教授 中野,義昭
内容要旨 1.はじめに

 光加入者通信網、光CATVシステムなど、光ファイバ技術の公衆通信網への適用は近年ますます活発化している。これら公衆光通信網に用いられる送信光源として、半導体レーザの果たす役割が大きくなりつつあるが、システムの多様化にともなって、レーザへの要求特性もより厳しく、多岐にわたるようになった。例えば、アナログ伝送方式の光CATVシステム用光源には広帯域・低雑音・リニアリティが要求され、ディジタル伝送方式の光加入者ループ用レーザには屋外高温環境での低しきい値・高効率・高信頼動作が要求される。

 多重量子井戸(MQW)レーザは、理論的に予測された微分利得の向上と温度特性の改善を以て、上記のごとき複雑多様な特性及び信頼性を満足するものと期待されてきた。しかしこれまで実際のシステムに適用する場合の特性限界や構造の最適化について詳しく論じた例は少ない。本研究は、長波系MQWレーザをアナログおよびディジタル光通信網のそれぞれに適用する際の課題と、その解決方法を明らかにしたものである。

2.アナログ変調におけるMQWレーザの特性制限要因

 アナログ変調時に最も重要な特性項目は、変調帯域、雑音、変調歪みである。レーザの微分利得を向上すると、緩和振動周波数が増大し、遮断周波数および低域での雑音レベルが改善される。同時に、電流-光出力特性のリニアリティが良好になり、変調歪みが減少する。MQWレーザは従来のダブルヘテロ構造(DH)レーザに比べ高い微分利得を有し、これらの特性を大幅に改善すると期待されてきた。量子井戸構造に格子歪みを導入することでさらに微分利得が増大することも理論的には予測されていた。しかし逆に、狭い量子井戸を用いると、スペクトル・ホールバーニングやキャリア輸送効果により利得の非線形性が増大し、変調帯域、雑音、変調歪みをかえって損なう恐れがある。キャリア輸送効果とは、狭い量子井戸からのキャリアの熱放散(時定数d)と、広い光閉じ込め層を介した量子井戸へのキャリアの供給遅れ(時定数d)から生ずる、実効的な微分利得の抑圧効果である。

 実験では、まずMOCVD(有機金属気相成長)法により、格子歪みを変化させたGaInAs-MQWレーザを作製し、特性を比較した。圧縮歪みの導入により緩和振動周波数および微分利得が増大することを初めて観測した。しかしこれらのサンプルでは、利得の非線形性を表すKファクタ(ダンピング定数と緩和振動周波数の二乗の比で表され、1+d/eに比例して増大する)も同時に増大していることが判明した。そこで設計の異なるサンプルを試した結果、量子井戸幅・数を大きくすることにより、Kファクタが減少し、利得の非線形効果が緩和されることが判明した。また、量子井戸幅・数の大きなサンプルは、それらが小さなサンプルに比べ、Kファクタの温度依存性が極めて小さいことが判明した。これら実験結果と、Kファクタの1+d/eに対する関係から、キャリア輸送効果が、利得の非線形性を招くひとつの要因であると推察した。

3.アナログ変調用高帯域・高出力リッジ導波路型MQWレーザ

 2章の実験結果を考慮に入れて実際にリッジ導波路型レーザ素子を作製し、特性評価を行った。リッジ導波路構造は、素子の信頼性を損なわずに浮遊容量を極小にでき、アナログ高速変調用途に適している。試作したリッジ導波路型レーザは1%の圧縮歪みを加えた厚さ4nmのGaInAsP量子井戸を積層した活性層を有し、1300nm付近の発振波長が得られる。量子井戸層数は、2章の考察から、4、6、8、10層と変化させ、最通な層数を見い出すことにした。まず、高周波変調特性を測定し、遮断周波数と注入電流の関係を調べた。これを図3.1に示す。4層、6層、8層と、層数を増やすに従い、遮断周波数は増加するが、10層の量子井戸レーザではかえって遮断周波数は低くなる。同じ観点で、電流-光出力特性を調べたのが図3.2である。6層および8層に比較して、4層/10層では電流-光出力特性の直線性が悪い。

図表図3.1遮断周波数のバイアス電流依存性比較 / 図3.2電流-光出力特性のリニアリティ比較

 量子井戸層数を4から6及び8に増やした時の諸特性の改善は、2章の検討結果により説明できる。一方量子井戸層数を10層とした時の特性劣化は、遅い正孔の各量子井戸への分配が不均一であることに起因すると考えられる。さらに、歪み量子井戸の層数が多い場合には格子歪みの総和がある上限を越え、結晶欠陥を招くなどの別な劣化要因も考えられる。事実、85℃における高温長期エージング試験結果では、層数8および10の素子サンプル群が若干の劣化傾向を示した。層数の最適値を6とすることで高速、高信頼かつリニアリティの良いレーザを実現することが出来た。さらに縦モード安定性を改善し、長距離通信時の分散の影響を軽減するためには分布帰還構造と組み合わせることは必要であるが、信頼性の高いアナログ変調用MQWレーザの基本設計指針は得られた。

4.ディジタル変調におけるMQWレーザの特性制限要因

 ディジタル光加入者通信網の屋外端末光送受信器に使用される半導体レーザ、および、コンピュータ間の並列データ伝送に用いられるアレイ型レーザでは、85℃などの高温環境にても、しきい値やスロープ効率の温度変動を抑制し、かつ、ゼロバイアスで駆動して消費電力を低減する必要がある。しかし、ゼロバイアス駆動時の現実的な課題は発振遅延による符号誤り率の増加である。レーザの発振遅延時間は、しきい値電流Ith、およびキャリア寿命sを減少させることで低減できる。Ithの低減には歪み量子井戸構造の採用が効果的である。本研究においては、キャリア輸送効果の、Ithおよびsに対する影響に着目して解析を行った。その結果、歪みの導入のために量子井戸幅・層数を小さくした場合、キャリア輸送効果が顕著になり、sおよび、高温でのしきい値Ithがキャリア輸送効果により増大する可能性が指摘された。

5.ディジタル変調用低しきい値及び高温動作MQWレーザ

 4章での検討をもとに、実際のサンプルを作製し、発振遅延特性を調べた。圧縮歪み1%のGaInAsP-MQWおよび圧縮歪み1.7%のInAsP-MQWレーザをMOCVD法により作製した。端面に高反射膜を装荷した埋め込みへテロ構造の採用により、2-3mA程度の低しきい値を実現した。これらのサンプルを125Mbpsのディジタル信号にてゼロバイアス駆動し、発振遅延時間とパルス電流波高値の関係を測定した結果を図5.1に示す。低しきい値化により、パルス電流30mAの低消費電流にても発振遅延時間は200psと極小であった。一方、それぞれの素子のキャリア寿命を図5.1の測定結果から算出したところ、図5.2に示すように、歪みなしのMQWレーザ及び通常のDH活性層レーザと比較して、圧縮歪みMQWレーザのキャリア寿命が顕著に増大していることがわかった。GaInAsP歪み量子井戸、InAsP歪み量子井戸ともにトータルの量子井戸厚みが小さく、4章で論じたキャリア輸送効果が影響している可能性がある。

図表図5.1歪みMQWレーザの発振遅延時間特性 / 図5.2キャリア寿命の比較

 次にMQW構造固有のキャリア輸送効果を抑制する方策として、多重量子障壁(MQB)の導入を検討した。MQBを含めたGaInAs/AlGaInAs歪み量子井戸レーザ(図5.3参照)を、精密な膜厚制御が可能な分子線エピタキシー法にて作製した。MQB装荷素子はMQB無装荷素子にくらべ、スロープ効率の温度依存性が小さく良好であったほか、Kファクタの温度依存性も小さかった。MQBのキャリア閉じ込め効果により、これらの温度特性が改善されたものと思われる。次に、サンプルの自然放出光のスペクトルを測定した結果、光閉じ込め層のバンドギャップ波長での自然放出光がMQB装荷レーザにおいて顕著に抑圧されていることを確認した(図5.4参照)。この結果は、光閉じ込め層へのキャリアの熱放散がMQBにより効果的に抑圧されていることを裏付けている。

図表図5.3MQB装荷GaInAs/AlGaInAs歪み量子井戸レーザのバンド構造 / 図5.4MQB装荷による光閉じ込め層での自然放出光の抑圧
6.結論

 長波系半導体レーザのアナログ変調およびディジタル変調の様々な要求特性に対して、MQW構造の特性限界を論じた。実験による検証を進め、アナログ変調/ディジタル変調の両方の場合につき量子井戸数、幅、格子歪みなどの基本設計パラメータの最適化指針をまとめた。さらに将来の超高速光通信光源の実現に向けて、これらの制限要因を取り除く新しい試みも提案した。

審査要旨

 本論文は、"A Study of Long-Wavelength Semiconductor Multiple Quantum Well Laser for Commercial Fiber Optic Networks(公衆光通信網への応用を目的とした長波系多重量子井戸半導体レーザの研究)"と題し、英文で執筆されている。

 光加入者通信網、光CATVシステムなど、光ファイバ技術の公衆通信網への適用は、近年ますます活発化している。このようなシステムで用いられる半導体レーザには、システムの多様化に伴い、多岐にわたる性能が要求されるようになってきた。例えば、アナログ伝送用光源に要求される性能は、広帯域性、低雑音性、線形性などであり、ディジタル伝送用レーザには、屋外高温環境下での低閾値性、高効率、高信頼性が要求される。

 多重量子井戸(Multiple Quantum Well:MQW)レーザは、理論的に予測される微分利得の向上と温度特性の改善により、上記のような多様な要求に応え得ることが期待されてきた。しかし、実際のシステムに適用した場合の性能限界や、システム固有の要求を満足するための構造最適化を論じた研究は、これまでほとんど行われていない。本論文はこのような観点から、長波系MQWレーザをアナログおよびディジタル光通信網に適用する場合の課題と、その解決方法を明らかにしている。

 本論文は6章から構成されている。第1章は"Introduction"である。光加入者通信網、光CATVシステムなど、光ファイバ技術の公衆通信網への導入の現状と、レーザに対する要求をまとめた後、本論文の目的と構成が述べられている。

 第2章は"Performance Limitation of InP-Based MQW Lasers in Analog Modulation"と題し、アナログ変調におけるMQWレーザの特性制限要因について論じている。アナログ変調時において最も重要な特性項目は、変調帯域、雑音、変調歪である。MQWレーザのもたらす微分利得の向上は、これら全ての特性を改善することが予測されていた。

 本章ではまず、微分利得の向上のためには、圧縮歪の導入が有効性であることを実験的に示した。さらに、井戸幅・数を大きくすることにより、キャリア輸送効果による利得の非線形効果を緩和できることを示した。

 第3章は"Analog GaInAsP/InP MQW Lasers with Wide-Band and Linear Power-Output Performance"と題し、第2章の結果に基づくレーザ素子の作製および特性評価について述べている。

 4nmのCaInAsP量子井戸を積層した活性層を有するリッジ導波路型レーザを試作し、層数を増やしたとき、キャリア輸送効果の抑圧に基づく諸特性の改善が見られることを示した。

 第4章は"Performance Limitation of InP-Based MQW Lasers in Digital Modulation"と題し、ディジタル変調におけるMQWレーザの特性制限要因を明らかにしている。

 ディジタル光加入者通信網の屋外端末送受信器に使用される半導体レーザや、コンピュータ間の並列伝送に用いられるアレーレーザには、高温環境下でのゼロバイアス動作が求められる。ゼロバイアス動作時における発振遅延による符号誤りを抑えるためには、閾値電流Ithおよびキャリア寿命sを減少させる必要がある。

 本章ではキャリア輸送効果のIthおよびsへの影響を解析し、量子井戸幅・層数が小さくなるとキャリア輸送効果によるIthおよびsの上昇が起こることを示した。

 第5章は"Low-Threshold and High-Temperature MQW Lasers for Digital Modulation"と題し、4章の結果に基づくディジタル変調用低閾値高温動作MQWレーザの作製と性能評価について述べている。

 GaInAsP-MQWおよびInAsP-MQWレーザを作製し、2-3mAの低閾値化を達成した。この結果、パルス電流30mAにおいて、発振遅延を200psまで抑え込むことができた。しかし、これらの素子では、キャリア輸送効果によるキャリア寿命の増加が観測された。

 次にキャリア輸送効果を根本的に抑圧する方策として、多重量子障壁の導入を検討し、素子の試作・評価によりその有効性を示した。

 第6章は本論文の結論である。

 以上のように、本研究は、アナログおよびディジタル伝送方式を用いたシステムにおいてMQWレーザに要求される性能を明示し、その性能を満足させるための素子設計法を示したものである。まず、MQWレーザの性能を制限する要因を分析し、量子井戸数、量子井戸幅、格子歪などの基本設計パラメータを最適化することにより、レーザの性能を改善する方策を示した。さらに素子の試作・評価により、設計の有効性を明らかにした。公衆通信網へMQWレーザを適用する場合の課題を明らかにし、その解決法を示したもので、電子工学への貢献が大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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