学位論文要旨



No 212491
著者(漢字) 上原,克人
著者(英字)
著者(カナ) ウエハラ,カツト
標題(和) 拡散型鉛直モード展開に基づく海洋熱塩循環の力学
標題(洋) On the dynamics of thermohaline circulation based on the expansion in terms of diffusive vertical modes
報告番号 212491
報告番号 乙12491
学位授与日 1995.09.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12491号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉ノ原,伸夫
 東京大学 教授 平,啓介
 東京大学 教授 山形,俊男
 東京大学 助教授 川辺,正樹
 東京大学 助教授 松田,佳久
内容要旨

 観測や数値実験の技術が進歩した今日でも、熱塩循環の基本的な力学に対する理解は風成循環と比べて遅れていると言わざるを得ない。これは一つには、熱塩循環が中規模渦等の強い変動成分に比べてはるかに緩やかな運動であり、その実態を観測から直接明らかにすること自体が難しいためである。もう一つの原因としては、密度場と流れが密接に関連する本質的に三次元の運動である点が挙げられ、このことが熱塩循環を直感的あるいは力学的に理解する上での大きな妨げとなっている。

 本研究は、通常の視点では理解が困難とされる複雑な熱塩循環の基本的な力学を、拡散型鉛直モードによる直交関数展開という視点で理解しようと試みたものである。この方法では、基本成層をあらかじめ規定し、非線形項に代表される残差項を既知の外力項とみなす必要があるため、完結した形式で循環を扱うわけではない。しかし取り扱う対象が元の空間三次元場から各モードの二次元平面場に変換されるため、力学的には格段に扱いやすくなる。また、狭い領域で生じる深層水形成のような強非線形物理過程には立ち入らず、それ以外の受動的な広い領域の運動を調べるという立場をとることにより、各モードの線形応答を調べる問題に帰着し、見通しが良くなるという利点を持つ。各モードの支配方程式系はreduced-gravity方程式系とほとんど同じ形をとるが、境界面変位に関する式に、密度の水平・鉛直拡散に起因する項が加わる点が異なる。これらの項の有無により循環の性質が大きく変わることは渦度の考察から理解できる。渦位で言えば、密度拡散項は渦柱厚みの消散に相当しており、渦柱伸縮を密度拡散で表現したものに他ならないことがわかる。この「拡散性伸縮」が密度成層をなす海洋の緩やかな循環を理解するのに欠かせない極めて重要な概念であることは以下の研究によって明らかになる。

 多モード模型では、(1)方程式系を鉛直モードに分解し、(2)各鉛直モードの力学を理解し、(3)鉛直モードを重ね合わせて三次元構造を再現した上で、(4)循環の三次元構造を性質のわかった各モードの重ね合わせとして理解する。本研究は、全体の序にあたる第1章とそれに続く三つの章から構成されるが、力学解釈の基礎となる(2)を第2章で、変換の枠組みである(1)と(3)については第3章で扱う。最後の第4章で、三次元数値実験によって得た二つの熱塩循環に対して(1)-(4)の考え方を適用する。

 第2章では、多モード模型の基礎として深層循環を題材に単一鉛直モードの力学を調べる。まず南大洋に供給される深層水が駆動する太平洋を模した深層循環を時間積分により求める。この実験で、深層西岸付近や内部領域に現れる複雑な湧昇・沈降流の分布が、密度拡散を考慮した場合にのみ再現されることが示される。これらは三次元数値実験でしばしば報告されていたものの、明快な説明が提出されていなかったものである。次に、より基礎的な場合として北半球の海洋中央部に集中した深層水源がある場合の深層循環を求め、密度拡散の影響を単純化した形で調べる。

 以上の実験結果は、境界層解析と単純化した方程式の漸近解を用いて力学的に説明される。特に極向き(赤道向き)の外側西岸境界層に湧昇(沈降)流、その内側の境界層で逆向きの鉛直流が出現する物理的理由が明らかになる。また、水平拡散の大きさによって西岸境界層が粘性型と拡散型という二つの型に分かれることが示される。水平拡散の小さい粘性型では、再循環が現れ境界層幅は粘性係数で決まる。逆に水平拡散の影響が大きい拡散型では、水平拡散による渦柱伸縮の働きにより再循環を伴わない幅の広い境界層が生じる。どちらの型でも密度拡散項が鉛直流すなわち渦柱伸縮を支配しており、一見したところ複雑な湧昇・沈降流の分布を拡散性伸縮の概念を用いて明快に説明することができる。注意すべきは、高次モードほど、そして高緯度ほど拡散係数の実質的な効果が大きくなる点である。そのため高緯度と高次モードでは拡散型境界層が現れやすくなる。拡散型と粘性型の差異は、内部領域に点源を置いた場合にも現れ普遍的なものであることが示される。そのほか点源によって生じる高圧性循環が低緯度ほど西側に伸びる理由も明らかになる。

 以上のように、単一モードの力学の解析だけからでも熱塩(深層)循環の多くの特徴を説明することができる。また拡散性伸縮の概念と単一モードの理論は、表層循環の季節変動や、深層循環に及ぼす海底地形の影響を調べる研究にも応用され、大きな成果を上げている。しかし循環の三次元構造を調べることは鉛直構造を最初に規定している単一モードだけでは不可能であり、多モード解へと研究を進める必要がある。そこで第3章では拡散型reduced-gravity模型を多モード模型へと拡張していくための方法論を展開する。まず三次元循環場を拡散型鉛直モードに変換し、逆に鉛直モードから三次元循環場を再合成する枠組みを整備する。これは、順圧・傾圧モードへの良く知られた展開法をほぼ踏襲するものであるが、密度拡散・粘性項を陽に取り入れ、遅い熱塩循環に適用する点で従来のものと異なる。次に各モードの定常線形応答を高精度に効率よく求めるために、従来の時間積分法に代わって行列演算により直接数値解を求める手法を開発する。更に予備的な計算として、太平洋を模した簡単な熱塩循環に対し、低次モードと高次モードの応答の差ならびに循環の三次元構造を求め、多モード模型の枠組みと数値直接解法の精度を吟味する。

 最後の第4章で、第2章で展開した単一モードの力学と第3章で整備した多モード模型の枠組みを組み合わせる。適用の対象とするのはGFDL型三次元数値実験で得た二つの(準)定常熱塩循環である。海面冷却のみで平坦な矩形海洋の循環を駆動しており、中規模擾乱も存在しないので、現実の海洋と比べれば極めて単純な状況であるが、それでも循環の三次元構造はかなり複雑になり、循環の空間分布だけからその力学を理解することは容易ではない。

 最初の実験では、海面中央に集中した冷却源で循環を駆動する。その場合表層に現れる軸対称形の低圧性循環は高次モードの循環パターンを、底層での西に伸びた高圧性循環は低次モードの循環パターンを反映したものであることが示される。これは駆動因が表層に集中しているために、表層では各モードが強め合い、底層では各モードが打ち消し合う結果生じたものと説明できる。そのほか中層をも含めた循環の三次元分布を、鉛直モードの干渉ないし重ね合わせとして理解できることがわかる。更に各モードの応答自体は、表層中央に局在する対流調節をモデル化した冷却源に対する応答として、単一モードの力学を用いて明快に説明される。加えてその合成が三次元実験の流速場を極めて良く再現することは、熱塩循環の大規模三次元構造が対流調節による冷却ないし深層水形成の詳細に依存しないことを示している。以上により、海盆中心部の表層付近に集中した対流冷却に対する各モードの応答の合成としてこの熱塩循環の三次元構造を理解できたことになる。

 海面を低緯度で暖め高緯度で冷やすことにより循環を駆動する第二の実験では、冷却域が広く複雑に分布しているため、単純なモード分解だけでは理解が難しい。そこで、循環を主要な四つの循環成分に分けて考える。その各々は、北岸、対流域、東岸、西岸の各領域に分布する強い冷却(加熱)源に代ってそれぞれ駆動されるとする。この場合、冷却源を単純化し局所化しているので、各循環成分は、最初の実験と同様、単一モードの力学とモード合成により容易に理解することができる。例えば、北岸に沿う冷却源による循環成分は、前の実験で考えたような集中した冷却源が線状に並んだ場合の応答として理解することができる。従って表層北側で低圧性循環が、南側で高圧性循環が生じ、底層では逆になる。対流域の冷却源は、低緯度側まで広く浅く分布することを除くと、北岸冷却源と同様の効果を持ち、南側に少し偏った循環を生み出すことも容易にわかる。東岸、西岸の冷却源による循環成分も同様に考察できる。但し、西岸の冷却源の効果は西岸境界層の付近に留まるので、北岸と対流域における冷却源に東岸の冷却源を含めれば循環の様相はほぼ決まってしまう。その結果、この場合の循環は、前に調べた局在する冷却源が駆動する循環の南ないし南東側の部分にほぼ対応することになる。このようにして薄く広く分布する加熱冷却源のため複雑に見えた循環も、物理過程と領域を異にする冷却源が駆動する循環成分の組み合わせとして、また循環成分自体は拡散型鉛直モードの合成として理解できることがわかる。

 海洋の熱塩循環は、多くの数値実験で扱われてきた単純な状況においてすら極めて理解困難であるとされてきた。しかし本研究の結果によれば、深層における奇妙な沈降流の分布や、解釈が難しかった循環の三次元構造について拡散型鉛直モードの視点を通して理解可能であることが示された。このように、拡散型鉛直モードによる展開は、三次元循環場のみからは困難な海洋熱塩循環の力学を理解するための有力な視点を提供すると言えよう。

審査要旨

 海洋大循環はその駆動力によって洋上の卓越風による風成循環と海面を通しての熱収支・水収支の地域差による熱塩循環とに分けて考えることができるが、熱塩循環の理解は風成循環に比べて著しく遅れている。これは熱塩循環が、極端に長い時間スケールの非常にゆっくりとした運動であり、熱力学的釣合いが非線型であること等により、観測を困難にし理論的考察を妨げているからである。本研究は、拡散型の鉛直多モード模型を用いることにより、熱塩循環の基本的力学の理解を図ったものである。

 本論文は4つの章からなっている。第1章では、緒言として、本研究の基本的な考え方とその科学的背景を述べている。鉛直モード展開により海洋循環の力学を理解しようとする考えは古くからあるが、境界変位に関する式に密度の水平そして鉛直拡散に起因する項を加えたことが本研究を新しくかつ興味深いものにしている。すなわち、拡散に起因する項は、渦度について考察すればすぐわかるように、渦柱伸縮を密度拡散で表現したものに他ならないことから、循環の性質を大きく変えることができるからである。

 第2章では、多モード模型の基礎として、太平洋の深層循環を取り上げ、単一鉛直モードの力学を調べている。まず、reduced-gravityモデルを用いた数値実験を2つの例について実施した。一つは、南大洋から供給される深層水が駆動する太平洋深層循環である。この実験で、西岸付近に生じる複雑に分布した湧昇・沈降が、水平密度拡散を考慮した場合のみに生じることを示した。この湧昇・沈降は、三次元モデル実験でしばしば報告されていたものの、明快な説明が提出されていなかった現象である。もう一つはより基礎的な実験であるが、密度拡散の影響を単純化した形で調べるため、北半球の海洋中央部に集中した深層水の源がある場合の深層循環を計算した。つぎに、これらの数値実験結果を、境界層解析と単純化した方程式の漸近解を用いて力学的に解釈している。特筆すべきは、水平拡散の大きさによって西岸境界層が粘性型と拡散型という2つの型に分かれることを明瞭に示したことである。水平拡散の小さい粘性型では、西岸境界流はその沖側に反流を伴い、境界層の幅は狭く粘性によって決まる。一方、水平拡散の大きい拡散型では、水平拡散による渦柱伸縮の働きにより反流を伴わない幅の広い境界層になる。これらの境界層に伴う鉛直運動が前述の複雑に分布した湧昇・沈降である。拡散型と粘性型の相違は内部領域に点源を置いた場合にも現れ、この現象は普遍的なものであることが明らかにされた。

 第3章では拡散型reduced-gravityモデルを多モード模型へと拡張していくための方法論を展開している。すなわち、三次元循環場を拡散型鉛直モードに変換し、逆に鉛直モードから三次元循環場を再合成する枠組みを整備している。ここで各モードの定常線型応答を高精度に効率よく求めるため、従来の時間発展法に代わって、行列演算による直接解法を開発したことは評価できる。

 第4章では、第2章で展開した単一モードの力学と第3章で整備した多モード模型の枠組みを結合している。2種類の(準)定常熱塩循環について考察する。まず海洋中央部に集中した冷却源で循環を駆動する実験では、各モードの応答が海洋中央部に局在する対流調節をモデル化した内部冷却に対する応答として単一モード力学を用いて明快に説明できることを示した。つぎに海面を低緯度で暖め高緯度で冷やすことにより循環を駆動する実験を行なった。冷却域が広く複雑に分布しているため単純なモードの分解だけでは理解できないが、物理過程と領域を異にする加熱冷却源が駆動する循環成分の組み合わせとして表現することにより理解できることを示した。

 以上をまとめると、本論文は拡散型多モード模型を導入することにより、深層における複雑に分布した鉛直流等の今迄に解釈が難しかった熱塩循環の三次元構造を明らかにしたものである。したがって、本研究で提出された拡散型多モード模型は、三次元循環場のみからは困難な熱塩循環の力学の理解にとって、一つの興味ある視点を提供するものと評価できる。なお、本論文第2章、3章、4章は増田章氏との共同研究であるが、主要部分は論文提出者によってなされた研究であり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53926