学位論文要旨



No 212492
著者(漢字) 近藤,寛
著者(英字)
著者(カナ) コンドウ,ヒロシ
標題(和) 金属の清浄表面及びアルカリ修飾表面における水素と一酸化炭素の吸着
標題(洋) Adsorption of Hydrogen and Carbon Monoxide on Clean and Alkali-covered Metal Surfaces
報告番号 212492
報告番号 乙12492
学位授与日 1995.09.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12492号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 村田,好正
 東京大学 助教授 朝倉,清高
内容要旨

 金属単結晶の清浄表面及びアルカリ金属修飾表面における水素や一酸化炭素などの小分子の吸着・脱離現象の研究は、不均一系触媒に関わる実用上の重要性に加え、その電子構造の単純さから化学吸着のメカニズムの基本的な理解に重要な役割を果たすために、長い間強い興味が寄せられてきた。そのため、今日では上記のような表面上で、このような分子がどのようなサイトにどのように吸着するかという問題についてはかなり広範囲にわたる系について調べられており、構造や物性が様々な角度から検討されている。これらの系では、多くの場合、吸着種は下地表面をほとんど乱すことなくエネルギー的に安定な比較的対称性の良いサイトに落ち着く傾向が見られ、他の多くの吸着系と同様に通常の"吸着"の描像で捉えられてきた。一方、酸素、窒素、硫黄などの金属と強く結合する吸着系では、このような"表面の好ましいサイトに吸着する"という描像よりは"表面と反応する"という視点で捉えた方が妥当にみえる系が見いだされてきている。このような系では、"表面化合物"といえる化学種の形成がその原子、分子の吸着・脱離現象の支配的な要因になっている。これまで"表面化合物"の形成という観点で捉えられることがあまりなかった水素及び一酸化炭素の単独吸着系及びアルカリ金属との共吸着系の中にも、表面から二種類の原子あるいは分子が同時に脱離する"coincident desorption"が見られる場合があり、そのような系では、吸着種と下地原子、あるいは異なる吸着種どうしの間に強い相互作用が働いていることが推測される。しかし、その強い相互作用の性質及び"表面化合物"の生成との関わりについてはあまり明確にされていない。本研究では、このような強い相互作用を示す吸着状態に注目しながら、金属単結晶表面における水素及び一酸化炭素の単独吸着系及びアルカリ金属との共吸着系の分光法的検討を行なった。具体的には、明確な"coincident desorption"が見られるH/Al(111),H/Cs/Al(111),及びCO/Cs/Ru(001)の三つの系について、電子エネルギー損失分光法(EELS)を主とした表面分光法を用いてその吸着状態を詳細に検討した。また、比較・参照実験としてH/Al(110),Cs,K/Al(111),Cs/Ru(001)について構造及び電子状態の検討を行なった。

 本論文の構成は以下のようである。

第1章

 金属単結晶の清浄表面及びアルカリ修飾表面への水素及び一酸化炭素の吸着に関するこれまでの研究を概観し,これらの系についてどのようなことが分かりどのようなことが問題になっているかを示した。このような概観を通して、吸着状態がかなり良く分かってきていると思われる水素や一酸化炭素の吸着系の中で、上記の"coincident desorption"を示す系の場合には多くの未解決の問題を残していることを明確にした。

第2章実験方法

 実験に用いた装置、試料調整法及び主たる実験手法である高分解能EELSの特徴について述べた。

第3章Al(111)とAl(110)への水素吸着

 表面構造の異なる二つのアルミニウム単結晶表面への水素吸着について、高分解能EELSによる水素の振動スペクトルの被覆率依存性及び温度依存性を測定して検討した。H/Al(111)系では吸着水素が下地のアルミニウム原子と共に室温付近でアルミニウム水素化物として脱離してくる。図1は、Al(111)面に低温(85K)で水素を飽和吸着(=1.3)させた表面のEELSスペクトルの温度変化であるが、terminal水素の変角振動と伸縮振動に帰属されるブロードなバンドが600-1000cm-1(A,A’)と1500-2000cm-1(B,B’)に見られ、150K以上に加熱するとterminal水素の高波数側の肩(A’,B’)が消えて代わりに1200cm-1にbridgeサイトに結合した水素の伸縮振動に帰属されるピーク(C)が現われる。脱離が始まる直前の240Kでは、バルクの水素化物のIRスペクトルとよく似たスペクトルを示し、さらに水素化物の脱離が始まる260K以上ではスペクトルの形状は変わらないまま全体の強度だけが減衰する。このような温度変化から、低温でterminalサイトに結合した水素の一部が加熱によってbridgeサイトに移動することによってterminal結合とbridge結合の両方を持つアルミニウム水素化物を形成して脱離すると考えられる。水素の被覆率を変えながら測定したEELSスペクトルでは、強度を除いてスペクトルに全く被覆率依存性がないことから、水素を吸着させていくと、吸着水素が凝集し表面水素化物のアイランドを形成して成長していくと考えられる。また、表面水素化物を形成している水素に加え、サブサーフェスへ潜り込んだ水素も見られることから、この水素の存在が表面層のアルミニウム原子が下地との結合を切って水素化物として脱離することを容易にしているのではないかと考えられる。一方、H/Al(110)系では、吸着様式も脱離様式もAl(111)面と大きく異なる。すなわち、水素原子はシーケンシャルに安定なサイトを占めていき、最終的にはH/Al(111)とは違う局所吸着構造をとる。また、この吸着水素は水素分子として脱離し、水素化物がほとんど脱離しないことが分かった。これは、アルミニウムの表面構造の違いからAl(111)面と同じような安定な水素化物を形成できず、サブサーフェスの水素も存在しないためと考えられる。

図1.Al(111)面に水素を飽和吸着させた表面のEELSスペクトルの温度変化.Xピークは未帰属.
第4章Al(111)とRu(001)へのアルカリ吸着

 5,6章で述べるアルカリ修飾表面における水素及び一酸化炭素の吸着の研究を行なう前に、アルカリ金属のみを吸着させた系の性質を押さえる目的で、上記表面におけるCs吸着系について、特に吸着層の温度による相変化に注目しながら、構造及び電子状態について検討した結果について述べた。

第5章アルカリ修飾Al(111)への水素吸着

 CsでAl(111)面を修飾して水素を吸着したH/Cs/Al(111)系では、共吸着したCsによってアルミニウム水素化物の生成が著しく阻害される一方で、Csと共に高温で脱離してくる安定な水素が見いだされた。この水素はCsと2:1の定比で脱離し、図2に示すEELSスペクトルに二つの鋭く強いピーク(1,2)を与える。これらのピークに対する同位体混合物(H+D)を用いた振動解析を行なった結果、Al原子にジェミナル構造で結合した水素の変角モードと伸縮モードに帰属された。この水素はCsとも2:1の定比で強く相互作用していることから、CsAlH2というようなイオン結合性の表面化合物を形成することを提案した。量子化学計算ではこの化合物は安定に存在することができ、振動スペクトルをよく説明できることが分かった。このような表面化合物の生成には、下地のAl原子の移動過程を必要とするが、アルミニウム表面の第1層には、空孔が比較的容易に生成して表面原子が生じ易い性質があり、それがこのような過程を容易にしているのではないかと考えられる。さらに、Cs原子に影響を受けたCsの周りの下地領域では、水素原子のサブサーフェスサイトへの潜り込みが起きていることが示唆された。このような水素、アルミニウム、セシウムを含む安定な表面化合物の形成と水素原子のサブサーフェスサイトへの潜り込みがアルミニウム水素化物の生成を著しく阻害する原因であると考えられる。

図2.Cs修飾Al(111)面に水素を飽和吸着させた表面のEELSスペクトル.800cm-1(1)と1680cm-1(2)に強く鋭いピークが現われ、2500cm-1にはその結合音(1+2)が見られる.
第6章アルカリ修飾Ru(001)へのCO吸着

 Csで修飾したRu(001)表面にCOを吸着した系では、Csの被覆率が大きい場合、CsとCOが高温で共に脱離してくる。図3に前吸着させるCsの被覆率を変えながらCOを85Kで飽和吸着させた表面のEELSスペクトルを示す。1400-2100cm-1に現われるピークはC-O伸縮振動によるものだが、一番下のCsの被覆率がちょうど1層(=0.33)の場合、CsとCOが1:1の比で脱離してくるのにもかかわらずC-O伸縮モードが全く見えない。電子遷移領域のEELS及びUPSからはこの系でCOは分子状吸着していることが確認された。またEELSのoff-specularモードの測定では、1245cm-1という著しく低い振動数にC-O伸縮モードが現われることを見いだした。さらに、CsとCOが1:1で脱離する前に全体の約1/4のCsが先に単独で脱離するが、このCsの存在がC-O伸縮モードの消失の原因になっていることが分かった。これらのことから、CO分子は1層敷きつまったCsの一部のCs原子を上に押し上げてCs/Cs+CO/Ruというような2層構造を形成し、2層目のCsがCOのdipoleを強力に遮蔽しているモデルを提案した。このように、重いCs原子を2層目に移動させてでもCOが吸着するのは、1層目のCsとCOの1:1の共吸着層が非常に安定なことを示唆しており、CO及着によって再イオン化したと強いbackdonationを受けて負の電荷を帯びたによる2次元的な擬イオン結晶が形成されているのではないかと考えられる。

図3.Cs修飾Ru(001)面にCOを飽和吸着させた表面のEELSスペクトルのCs被覆率依存性.Cs=0.33がCs1原子層に対応する.
第7章結語

 以上のように"coincident desorption"から推測される表面での強い相互作用はそれぞれの系で性質は異なるが、いずれもいわゆる"表面化合物"の形成が深く関与していることを示唆しており、それによって特異な吸着状態が誘起されることが分かった。今後の課題として、このような特徴を示す新たな系の探索や詳細な構造決定、形成過程の解明などについての系統的な理論的・実験的研究が望まれる。

審査要旨

 本論文は7章から成る。第1章は序論、第2章は実験方法、第3章ではアルミニウム表面への水素吸着、第4章でアルミニウム及びルテニウム表面へのアルカリ金属吸着層の構造及び電子状態、第5章ではアルカリ修飾アルミニウム表面へのCO吸着、第6章ではアルカリ修飾ルテニウム表面へのCO吸着、第7章では全体を通しての結論が述べられている。

 第1章では、金属単結晶の清浄表面及びアルカリ修飾表面への水素及びCOの吸着に関するこれまでの研究の概観を通して,"coincident desorption"(共脱離)を示す系が多くの未解決の問題を残している点が指摘され、それに対する本研究の目的が述べられている。

 第2章では、実験に用いた装置、試料調整法及び主たる実験方法である高分解能電子エネルギー損失分光法(HREELS)の特徴について述べられている。

 第3章では、表面構造の異なる二つのアルミニウム単結晶表面(Al(111)とAl(110)への水素吸着について検討した結果について述べられている。H/Al(111)系では吸着水素が下地のアルムニウム原子とともに室温付近で脱離してくる共脱離が見られる。この水素吸着表面に対するHREELS等による詳細な研究の結果、脱離が始まる直前の温度でterminal水素とbridge水素からなる固相のアルムニウム水素化物に近い構造を持った表面水素化物が形成されることが明らかになった。また、表面水素化物に加え、内部に潜り込んだ水素も見られることから、この水素が表面層のアルムニウム原子の下地との結合切断と水素化物としての脱離を容易にしていると考えられる。一方、H/Al(110)系では、アルミニウムと水素の共脱離は見られず、水素のみが脱離し、吸着様式もAl(111)面と著しく異なることが見いだされた。これは、アルミニウムの表面構造の違いからAl(111)面と同じ様な水素化物を形成できず、表面下の水素も存在しないためであることが明らかにされた。以上のような表面水素化物の生成・脱離とその強い面方位依存性は極めて珍しい現象であり、その原因が詳細に検討され、明確にされたことは注目に値する。

 第4章では、5、6章で述べるアルカリ修飾表面における水素及びCOの吸着研究を行うにあたって、アルカリ金属のみを吸着させた系の性質を明確にする目的で、アルミニウム及びルテニウム表面におけるCs及びK吸着層について、構造及び電子状態について系統的に検討・整理した結果について述べられている。特にアルカリ吸着層の熱誘起構造相転移に伴う電子状態の急激な変化について興味深い知見が得られている。

 第5章では、アルカリ修飾Al(111)面への水素吸着について検討した結果について述べられている。CsでAl(111)面を修飾して水素を吸着したH/Cs/Al(111)系では、Csと共に高温で脱離してくる安定な水素が見いだされている。この水素にはアルミニウム原子にジェミナル構造で結合しており、CsAlH2という新規表面化合物の形成が示された。このことから高温で水素とCsが共に脱離してくるのは、このような安定な表面化合物の生成及び分解によることが明らかになった。超高真空下の金属表面上の水素は通常下地を殆ど乱すことなく金属配位数の高いサイト(hollow site)に吸着する傾向があるが、このような表面化合物形成に伴うジェミナル構造の表面水素が見いだされたのはこれが初めての例である。

 第6章では、アルカリ修飾Ru(001)へのCO吸着について検討した結果について述べられている。1原子層のCsで修飾したRu(001)表面にCOを吸着した系では、CsとCOが1:1の比で共脱離するにも関わらずC-O伸縮モードが全く見られない奇妙な現象が観察された。そしてこの原因が一部の単独で共脱離の前に脱離するCsの存在にあることがつきとめられている。これらのことから、CO分子は1層敷き詰まったCs層の一部のCs原子を上に押し上げ,Cs/Cs+CO/Ruというような2層構造を形成し、2層目のCsがCOの双極子を強力に遮蔽しているモデルが提案された。このように、重いアルカリ金属原子を2層目に移動させながらCO分子が置換吸着する要因として、1層目の1:1のCsとCOによる安定な2次元擬イオン結晶の形成が指摘されている。金属表面においてこのようCO分子による置換型吸着が観測されたのは初めてである。

 最後の第7章では、全体を通しての結論として、共脱離から推測される表面での強い相互作用はそれぞれの系で性質は異なるものの、いずれも表面化合物の形成が深く関与しており、それによって特異な吸着状態が誘起されることが指摘された。

 以上を要約すると、本論文の提出者 近藤 寛氏は、これまで未解決な点が多かった共脱離を示す水素及びCOの吸着系の吸着状態を明らかにする目的で、HREELS、昇温脱離、その他の電子分光法を駆使して対象とする共脱離系を詳細に研究し、多くの注目すべき成果を得ている。この研究成果は、一般に比較的単純な吸着系とみなされている水素及びCOの吸着系の非単純性を示す実験的証拠として更なる実験的・理論的研究を喚起するものであり、表面吸着現象の研究の今後の発展に寄与するところ大である。

 したがって、近藤 寛氏は博士(理学)の学位を授与される資格を有するものと認める。

 なお、本論文に述べられている研究成果は共著邦文の形で公表済みであり、共著者は研究の指導者、研究協力者であるが、論文提出者の寄与が最も大きいと判断される。また、共著論文の内容を学位論文にすることについては、全ての共著者の承諾を得ている。

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