学位論文要旨



No 212493
著者(漢字) 李,元範
著者(英字)
著者(カナ) リ,オンボン
標題(和) 日本の近代化と民衆宗教 : 近代天理教運動の社会史的考察
標題(洋)
報告番号 212493
報告番号 乙12493
学位授与日 1995.10.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第12493号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 金井,新二
 東京大学 助教授 市川,裕
 東京大学 助教授 黒住,真
 一橋大学 教授 安丸,良夫
内容要旨

 本稿は、近代天理教運動の成立と展開過程の分析を通して、(1)近代期の日本における伝統的価値意識の保存と変容の一形態を明らかにし、(2)それが近代日韓交流史のなかでどのような意味を持っていたのかを、実証的に考察してみようとするものである。

 幕末維新期、日本の民衆たちを担い手として展開された天理教運動は、近代天皇制国家形成期においては、愚昧な民衆の「迷信」とされ、弾圧を受けなければならなかった。一方、日清・日露戦争後の国家経営に取り込んだ明治政府の官僚たちは、民衆の日常的・宗教的なエネルギーを国家目標の方向へと濾過受容するために、民衆の宗教運動に対するさまざまな融和策を講じていたが、天理教団はこうした政治的状況に積極的に対応することによって、独立した宗教集団として認められることができた。

 だが、民衆の宗教運動に対する明治官僚の融和策とは、はじめからそのイデオロギー的な枠組みが設定されており、そこからはみ出さないことを前提とするものであった。そのため、既成宗教のような伝統的・宗教的権威による社会的な正当性を後ろ盾に持たなかった天理教は、そのイデオロギー的な枠組みに大きく規定されざるを得なかった。そして、その限りでは、天理教の社会集団としての「成功」は、日本の近代国家権力への順応や妥協の産物であったといえる。

 にもかかわらず、近代天理教運動の展開には、近代国家の設定した枠組みに容易に納まらない民衆の主体性が確保されており、自らの価値意識による自律的な態度があったことも事実である。日本の近代化過程が民俗的なものを啓蒙主義的に抑圧し、編成し直そうとする一貫した方向性を持っていたにも拘らず、民俗社会の基盤の上に成立した天理教が信仰集団としてのアイデンティティーを維持し得たのは、「他人への配慮や人間同士の助け合いを第一義的な価値」とする教祖ミキの「おしえ」が、時代を越えて、生活者である多くの民衆の支持を獲得したからであった。そして、その背景となるのは、当時の信者たちの真剣な宗教的・倫理的実践であった。彼等は、その実践を通して、教祖ミキの「おしえ」を自分たちの日常的な生活場において具体化し、自ら納得するものに再解釈することができた。

 もちろん、こうして形成された天理教の倫理的伝統は、そもそも対面的な二者関係を前提とする布教活動において形成されたものであったため、歴史的・客観的な状況を認識する能力に乏しい場合が少なくなかった。その結果、教勢拡張という目的合理的な集団目標に彼等の宗教的情熱が動員されると、自らの倫理的伝統そのものが変質してしまう可能性が多くなる。それは、彼等の集団的な活動を認めた「国家公認」とは、天理教が当時の国家神道体制に組込まれたことを意味するものであり、神道教団としてのイデオロギー的な役割を背負わされたことを意味するものであったからである。

 天理教の教団運営者たちが、外部から多くの神道学者を迎え入れ、国家主義的な宣伝活動を始めたのは、そうすることによって、天理教に対する国家権力の支持を得し、集団の維持・発展をはかることができると判断したからである。だが、こうした目的合理的な目標に信者たちの宗教的情熱が容易に動員されてしまうところに、当時の天理教運動を含む民衆宗教運動の限界があった。それゆえ、その倫理的伝統は、本来自分たちが納得し、共感してきたものよりも、国家のイデオロギー的要請としての倫理的内容が強調されてしまう。また、国家神道体制という近代国家の設定した枠組みに適応していくことによって、教団内の行政官僚的権威主義が強められてしまい、これまで信者たちの憧れの対象であった布教者たちの教内での役割は益々低下してしまうのであった。

 しかし、以上のことは、天皇制国家における天理教の公認が、その倫理的伝統の内在的発展の道をすべて防いでしまったということを意味するものではなかった。むしろ、近代天理教運動は、国家のイデオロギー的な要請としての倫理的枠組みと、自らの倫理的伝統のズレを知覚し、そこから新たな集団活動の道を見出していくところに大きな特徴があった。彼らの実感の世界のなかで、そのイデオロギー的枠組みの倫理的虚偽性が明らかとなるとき、それに異議を申し立て、排除しようとする自立的な態度が現れていた。

 天理教のなかで知的・行政的エリートとなった神道学者たちにみせた布教者たちの批判は、彼等が知識階級の思弁的道徳主義を排除し、自らの納得した信仰を「実践」しようとしたからである。また、若い世代を中心として教祖や初期の信者たちの言説を直接「探求」しようとした「原典掘り下げ運動」が起こったのも、教内の知識青年たちが、これまでの教義解釈におけるイデオロギー的な言説を排除し、自分たちの共感する信仰のあり方を求めたからにほかならなかった。それゆえ、こうした信者たち自立的な姿勢によって受け継がれ、再解釈が行なわれた天理教の倫理的伝統は、時代のイデオロギー的枠組みを越えた普遍性を獲得することができた。

 植民地朝鮮における天理教運動が、植民地社会における民族間の葛藤を克服し、そこに朝鮮人信者集団を形成することができたのは、何よりも、上記のような天理教の倫理的伝統の普遍的な性格によるものであった。その倫理的伝統は、近代的な価値観を前提にした思弁的なものではなく、生活者である日本の民衆が納得し、生きることの豊かな意味を見出してきたものであっただけに、朝鮮の民衆にも共感を得ることができたわけである。

 当時の植民地社会の全体からすれば一部ではあったが、天理教布教者たちが接した朝鮮人の中では、布教者たちを深く信頼し、彼等の提示する倫理観や救済の理念を実践しようとする人々がいた。そして、それを可能にしたのは、何よりも、両国民俗文化の共通する「癒し」伝統であった。天理教布教者たちは、彼等の呪術的=宗教的病気治癒の能力をみせることによって、神威との実践的な交流と、その実在感を与え、朝鮮人を引き付けることができたわけである。

 しかし、天理教の朝鮮布教がこうした「癒し」の伝統だけによるものであったとすれば、教団宗教としての天理教の朝鮮人への伝播は不可能だったであろう。そこに提示されている独自な教義や儀礼の普遍性への共感があったからこそ、天理教の信仰は植民地朝鮮社会で、その具体性や現実性を維持することができた。そして、その前提には、倫理的自己規律の能力を持つ布教者の高い精神性に対する、朝鮮人信者たちの尊敬の念があった。見知らぬ異国人による呪術的=宗教的病気治癒の体験から得られた感動が、彼等の精神の高貴さと気高さへの憧れと変わることによって、布教者としての道が朝鮮人信者たちの新たな精進の目標となるのであった。こうして、本席から布教者へ布教者から入信者へと宗教的な情熱を伝える連鎖の序列化という天理教の組織上の「原形」が朝鮮の地に移稙されたわけである。

 支配者の宗教としてみられた天理教が、植民地朝鮮社会のなかに受入れられ、敗戦後も宗教共同体としての実体を保持することができたのは、そこに実践的倫理意識を共有する価値共同体が成立していたからにほかならない。そして、この価値共同体が、植民地社会における支配者のイデオロギー的要請に対して自立的な態度を持ち得たのは、思弁的な価値意識に対する両国信者たちの批判能力であった。思弁的な世界の価値観が日常的な実践と体験の中から再吟味され、自からの確信の世界に濾過受容されることによって、思弁的な世界のもつ虚偽性への鋭い洞察が可能になる。つまり、日本の近代国家のイデオロギー的要請としての倫理的枠組みを、実践的体験世界のなかで編成し直すことによって、その枠組みに容易に還元されない、彼らの価値意識や行動様式が再生産されたわけである。

 もちろん、近代化や合理化への要求は、社会的な存在である教団宗教としては避けられない課題であったことはいうまでもないが、天理教のような民衆宗教運動の先立つ課題は、日常に密着した問題の解決を求める信者たちの要求に応えるための実践的な行為であった。そして、こうした実践的な行為のなかで得られた倫理的な自覚と確信こそ、天理教信者たちが時代のイデオロギー的要請としての倫理的枠組みを克服する基盤であった。民俗社会の共通の基盤の上に展開した植民地朝鮮における天理教運動が、植民地支配という政治的な状況に大きく規定されたことは明かであるが、にもかかわらず、死や病気といった民衆の根源的な不安状況を媒介にして成立した両国民衆の交流には、それ自身の価値意識や行動様式による歴史的な存在根拠があったのである。

審査要旨

 李元範氏の「日本の近代化と民衆宗教--近代天理教運動の社会史的考察」は、19世紀中葉に始まり、1920年代までに日本国内に深く浸透し、30年代の初めまでには植民地、朝鮮にも相当程度の波及をとげた天理教運動についての研究である。本論文は二部構成をとり、第一部では教祖中山ミキが獲得した新しい信仰が、天理教という宗教伝統の体系に形成されるとともに、近代天皇制国家とのあつれきの中で変容していく過程が解明される。次いで第二部では1893年以来の天理教の朝鮮布教の足跡をたどり、それが試行錯誤の末にかなりの数の朝鮮人に受容されるまでの経過を明らかにしている。

 本論文は史実の究明に多大な成果をあげるとともに、近代日本および朝鮮における天理教運動の意義について、新たな理解の枠組みを提示しようとする野心的な業績でもある。李氏はこれまでの研究のように、単に教祖中山ミキの言説の革新性を示し、教祖死後の教団は国家統制に妥協して、教祖の教えを歪めたと捉えるのではなく、国家統制の中でなお独自の「異端的」な価値意識を保持し、それを新たな状況の中で独自に具現していこうとする信仰生活や思想があったとする。とりわけ、草の根の布教者や信徒の信仰が、村社会的な相互扶助を重んじる伝統的価値意識を保存しつつ、倫理的主体としての誇りを自覚し、病気や不幸を積極的な自己変革の契機として捉えるような新しい価値意識を含んでいたことに注目している。

 この観点は朝鮮での天理教の展開にも適用される。朝鮮での天理教は試行錯誤の末に朝鮮人への布教に成功したが、氏によればそれはまず、村社会的な相互扶助やシャーマニズム的な癒しといった両地域住民の共通の伝統が存在したためである。また天理教の日韓双方の布教者や青年知識層が、植民地布教という性格を越えて、普遍的な人類的連帯に通じる価値意識を自覚し、思想として、また教団制度として具体化するのに成功したからだという。

 これらの論点は、この時期の天理教教団史や宗教政策に関する綿密な資料検討によって裏付けられている。この論文によって1890年頃から1930年頃に至る天理教史はまったく新たな光をあてられることになった。思想史的な研究伝統を踏まえた上に、一般信仰者の信仰世界に立ち入ってその構造を描き出すとともに、社会的政治的状況の分析にも十分な目配りを行っていること、とりわけ植民地状況の下での信仰活動の問題について、詳細な叙述と分析を行ったことは本論文の大きな功績である。

 草の根の信仰者・布教者の信仰が、既存の支配関係を相対化し、自律的な共同性を形成するだけではなく、むしろ既存の権威秩序を支持し強化する側面についての分析が乏しいこと、解釈枠組みとなる概念が十分に磨きあげられていないことなどの欠点はあるものの、これまでの近代日本宗教史研究に欠落していた視点を豊富に含む重要な業績であり、博士論文として高く評価すべきものである。

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