本論文の課題は、地域・村・豪農の三者に焦点を当てて、近世社会の特質を描き出すことである。 第一編「豪農と地域」の各章では、膨大な研究蓄積をもつ豪農経営研究を、一九八〇年代以降主に組合村論として展開してきた地域論と結び付けようと試みた。第一章は、一九八〇年代に大きく研究が進展した地域論を一九九〇年代半ばの時点でひとまず整理する必要があると考えて書いたものである。ここでは、近世における地域社会の構造の時期的変化と各時期の特徴や、地域社会の結合契機などについて、先行研究に依拠しつつ自分なりのイメージを描いでみた。そして、第一章で取り上げた近世地域社会をめぐる諸論点のうちで、私が重要だと考える都市と農村の関係について、具体的に検討したのが第二章以下である。私は、近世の地域社会を都市と農村とが密接に関連しあったものとして描くことが重要だと考えており、その具体的な事例研究として、第二〜四章で、関東をフィールドに農村から江戸に進出した豪農の経営を分析した。第二章では武蔵国幡羅郡下奈良村吉田家を、第三章では上野国群馬郡下滝村天田家を、第四章と補論では相模国高座郡一之宮村入沢家を取り上げて検討している。第二〜四章で明らかにしたのは、以下の二点である。 第一は、豪農と江戸との関係の仕方の解明である。従来、地域論と豪農論との結合のさせ方としては、豪農主導の地域的市場圏の形成や、それと都市商業資本との関連などが、主要には検討されてきており、関東に関しては江戸地廻り経済圏の問題として研究が深化してきた。すなわち、従来の諸研究は主に商品流通や市場構造の問題を扱っており、そこでは豪農層は居村に定在して商品取引関係において周辺農村や都市と関係をもつものとイメージされていた。私は、さらに一歩進んで、豪農が流通面で江戸との関係を深めていくなかで、自ら江戸に進出して町屋敷を所持し、農村と都市の双方で土地所持者となり、自身は居村と江戸とを往復する生活をし、村と江戸とに片足ずつ経営の重心を置いているような事例があることに着目した。そして、こうしたケースが意外に多くみられることを示しつつ、江戸町屋敷経営を中心に経営内容の具体的分析を行い、このような豪農のあり方を都市商人との商品取引関係の発展線上に位置付けた。都市と農村の関係を実際に担う人々に注目すると、彼らは都市か農村かのどちらかに固定的に縛られていたのではなく、両方を股にかけて活動し、彼らの活動がまた都市と農村との関係を変容させていったのである。 また、一口に江戸に町屋敷をもつ豪農といっても、そのあり方はそれぞれ個性的である。江戸に多数の町屋敷を所持し全経営に占める江戸の比重が非常に高かった吉田・入沢両家と、一カ所の町屋敷しか持たなかった天田家とでは、江戸への関わりの深さに差がある。さらに、吉田・入沢両家をみても、吉田家は、江戸での収入を村や地域の共通利益のために投下し、村・地域における名望と幕府・領主からの褒賞を獲得していった点に特色がある。江戸での経営が順調だった時期には地域への資金投下が増大し、江戸での経営の衰退期には地域への支出も減少しており、豪農をパイプに江戸と関東農村とは密接に関わり合っていたのであった。入沢家の場合は、江戸進出が十組問屋への加入というかたちをとった点が特徴的である。このことは、関東農村と江戸との関係が、農村の在郷商人と江戸の仲間外商人の成長、特権的問屋商人の衰退という図式だけでは割り切れないことを示している。 第二は、江戸の町屋敷経営の具体相の解明である。私は、吉田伸之氏の町屋敷経営についての一般的規定を前提とし、その上で町屋敷の内部構造-これは一等地にあるか場末にあるかという町屋敷の立地条件とも密接に関わる-と町屋敷経営との関係を、時期的変化に留意しつつ検討してみた。そして、江戸の一等地にあって、地借住居のみで裏長屋をもたない「全戸地借型」の町屋敷においては、町屋敷の構造的矛盾が相対的に緩和され矛盾の顕在化が遅れており、そのため天保一三年(一八四二)の地代店賃引下令発布までは十分経営として成り立っていたのだということを述べた。 第一編では豪農と地域の問題を扱い、村についてふれるところが少なかったが、第二編においては村の役割について中心的に取り上げた。第五章では、近世村落共同体の性格を土地をめぐる問題を中心に研究史を整理しつつ検討し、間接的共同所持と形式的平等性を近世村落共同体を特質づける要素として指摘した。第六、七章では間接的共同所持について、村借と他村への土地移動の防止を取り上げて具体的に論じた。 間接的共同所持とは、次のようなものである。(1)近世においでは、個々の農民が耕地の所持権を日常的には保持しつつ、他方で場合によっては、村落共同体の意志で、個別農民の耕地所持権の制限、ひいては否定までが行われた。こうした村落共同体の耕地に対する関与の仕方を間接的共同所持とよぶ。「間接的」とするのは、それが日常的には農民の個別所持の基底に潜在し、共同体成員の生産と生活に関わる重要な局面において初めて発現するものだからである。これに対して、入会林野、秣場、村持地などは直接的共同所持地とよんで区別する。従来から、山野や用水の共同利用にもとづく耕作規制、あるいは耕地の分散錯圃形態に制約された耕作規制については指摘されてきたが、私の言う間接的共同所持とはこうした耕作(経営)規制とはレベルが異なり、農民の耕地所持権自体に対する強制力をもった規制のことを指している。近世村落共同体は、間接的共同所持という形で、従来考えられてきた以上に耕地に対しても強く関与していたのである。(2)間接的共同所持発動の目的は、質地請戻し慣行や、小百姓の年貢未進・夫食不足のために行われる村借のように、小百姓の個別経営の維持を直接的にめざす場合と、他村への土地移動の防止、他村との訴訟費用調達のために行われる村借、村追放のように、直接には村落共同体全体の存続・安寧をめざすなかで、ひいては小百姓経営の存続・発展を求める場合との二つのタイプがある。もちろん両者は厳密に区別されるものではなく、おおよその傾向を示すものである。そして、間接的共同所持は、割地・質地請戻し慣行にみられるように、一部の者による耕地の集積、地主的土地所持の無制限の発展を制約し、小百姓経営の再生産維持を図ろうとする方向性をもつ。だが、一九世紀には、次第に地主的所持によって(村追放の場合には領主権への包摂によって)侵蝕され、そこに激しい矛盾と抵抗を含みつつ、全体として間接的共同所持は弱化していく。(3)間接的共同所持の発現は、村法、村寄合での決定、村役人・村惣代・百姓惣代の連判などにみられるように、共同体構成員の総意をもってなされる。そして、小百姓の経営的自立の進行と彼らの村政上の発言権の増大により、村落共同体の意志決定に際して小百姓層の影響力が大きくなった結果、間接的共同所持が小百姓層の再生産維持を図る目的で村落共同体の意志として発現されるようになったと考えられる。 また、形式的平等性については、次のように述べた。(1)近世の村落共同体において、土地の分配における形式的平等性は、総百姓(水呑を含む場合と含まない場合がある)の家軒割という形であらわれる。(2)耕地(間接的共同所持地)部分においては、日常的には形式的平等原則にもとづく土地配分はみられない。自然災害によって甚大な被害を被り、村落共同体の存続が危うくなったときに初めて、部分的にではあれ、形式的平等原則にもとづく土地配分が行われ、村落共同体の再建が目指されるのである。(3)直接的共同所持地においては、土地を各村民に分割する際に、形式的平等原則にもとづく配分がままみられる。土地の均等分割の事例は一七世紀からみられるが、一八世紀以降、高割など不平等分割のケースが減り、均等分割の事例が増加していく。(4)村落共同体が形式的平等性の実現によってめざすものは、当初は零細で従属的な農民の経営的自立化であったが、次第に商品経済の発展・農民層分解の進行により、没落の淵に立たされた小百姓の再生産維持へと、近世を通じて微妙に変化していく。しかし、いずれの場合も、小百姓が自らの利益のために形式的平等性実現を求めたという点では共通している。 間接的共同所持と形式的平等性とは、近世村落共同体の全てにわたって例外なくみられるというものではないが、無視できない数の近世村落共同体において機能しており、近世村落共同体の一特質として位置付けられる。そして、両者とも、小百姓層の経営的自立化の進行と、村政参加度の増大を背景としており、ともに小百姓経営を維持・発展させるために村落共同体の意志として実現される、という点で共通している。また、この両者は互いに無関係なものではなく、災害による荒廃地の形式的平等分割は、それ自体間接的共同所持の一存在証明であるといえる。 以上のような私の村落共同体論は、近世の村を村落共同体と規定し、その中心的機能として土地所有を位置付けたうえで、共同体的土地所有の対象を入会地・村持地などにのみ限定せず、耕地部分にまで拡大して理解したことに独自性があるといえよう。 |