本論文は幕末開港以後、帝国主義世界体制下における日本の国際的自立の過程を海運業に即して解明しようとしたものである。 欧米列強の東アジア経済進出を運輪面から支えたのは汽船海運であり、列強が帝国主義世界体制を樹立していく際の重要な手段となった。その意味で汽船海運は列強のアジア進出の尖兵としての役割を果たしたのであり、その実態を解明することは、当該期の欧米外圧の歴史的性格を解明することにつながると考えられる。 幕末開港によって日本の海運市場は欧米海運の圧力に直接さらされるに至った。以後外圧は交通革命の進展とともに強化され、東アジア海運市場における欧米海運の影響力は強大になっていった。19世紀後半の帝国主義的世界環境のなかで、日本海運が国際海運市場において対外自立を達成するには、これらの外圧と対抗し克服していかねばならなかった。日本海運は帝国主義世界体制下における国際関係の最前線に位置していたのであり、この過程が如何に進んでいったのか、という問題は、日本の対外自立の評価に関わる重要な論点である。 この論点を今少し具体的に展開すると、以下の三点となろう。 第一は、対外自立の前提条件となる外圧の実態、即ち欧米海運の東アジア海運市場への進出の実態を究明することである。第二は、対外自立の核となる日本側の主体が如何にして形成されたのか、という自立の基礎条件の形成の問題である。第三は、日本海運がどのように国際海運市場においてその地位を確立し、国際的自立を達成していったのか、という問題である。 I.自立の前提 1860年代から80年代にかけて、東アジア海運市場は大きな構造的転換を遂げた。この過程は、以下の三期に区分することができる。 第一期は、幕末開港とともに対日定期航路が開設され、郵便輸送補助を梃子とした遠洋汽船航路の拡張による迅速かつ定期的な輸送網が形成され、日本が世界航路網の一環に組み込まれた1860年代である。汽船海運による遠洋定期航路網の開設は、輸送機能および情報伝達機能を通じて欧米資本主義のアジア進出を促進する役割を果たしていった。そのなかで英仏米の対日定期航路の起点となった横浜は上海、香港とならんで東アジアにおける定期航路の拠点港としての地位を獲得していった。 第二期は、スエズ運河開通とアメリカ大陸横断鉄道の開通による世界交通ルートの再編と、技術革新による汽船海運の伸張によって世界交通網が一変し、ヨーロッパ・東アジア間の海底電信網の完成による情報網の整備とあいまった交通革命の進展により、世界経済が急速に一体化を強めた1870年代である。東アジアでは、商社の海運部門の独立および専業海運の台頭など地域的な欧米海運の活動が活発化し海運市場を掌握していったが、そのなかにあって、70年代半ばに日本の郵便汽船三菱会社、中国の輪船招商局の民族海運資本が国家的支援を受けて相次いで設立され、海運市場において一定の地歩を築くことに成功した。 第三期は、造船技術の急速な進展にともなう帆船に対する汽船海運の優位の確立を背景に、東アジア海運市場が本格的な拡大を開始した1880年代である。とくに東アジア域内海運市場が活発化して第二期には停滞を見せていたイギリス海運を中心とする欧米列強海運が再び拡大をみせたのに対し、日中の民族資本は国際競争のなかで停滞し、その国際的比重を低下させていった。 こうして、東アジアには欧米の遠洋ライナー、地域内欧米海運資本、日中の民族資本の三種の海運資本が併存するに至った。拡大強化される外圧に対抗して、日本海運が国際自立を実現していくためには、短期間のうちに外圧を上回る速度で変質成長を遂げていかねばならなかったのである。 II.自立の基礎条件 幕末・明治初期の日本における欧米海運の中心は定期船(ライナー)であった。神戸開港と国内物資輸送の外国船への解禁により、開港場間航路での外国船の活動は活発化した。1870年以降はアメリカの太平洋郵船会社が日本沿岸航路を掌握するに至り、そのシェアは開港場全入港船(外国航路、沿岸航路を含む)トン数のうち7割、日本沿岸航路就航船トン数においても7割強を占めた。 しかし太平洋郵船の優位は民族資本としての郵便汽船三菱会社の出現により動揺し、1875年の横浜・上海線における競争に敗れたのを機に日本沿岸航路から撤退した。三菱は翌年、アジア航路最大の汽船会社であるイギリスのP&O汽船との競争にも打ち勝って上海航路を確保し、ナショナル・フラッグとしての国際的地位を確立し、太平洋郵船にかわって日本沿岸航路の主導権を握った。 上海航路の航権確保は、日本の外交的地位の向上につながった。上海航路の維持は国際的郵便ルートの一端を日本が担うことを意味していたが、これが万国郵便連合への参加の論拠として機能し、国際条約体制への参加を実現したのである。 当該期の海運政策は対外自立の達成と汽船海運の拡充を目指したものであった。殖産興業政策のなかで流通政策の柱として位置づけられた海運政策は、1874・75年における内務省と大蔵省との対立、明治14年の政変後における三菱保護と共同運輸助成の並立などの政策的ロスを発生させたが、全体としては汽船海運網の拡充に成功した。当初国家保護を独占的に享受し総合的流通資本として成長した三菱は、ライバル企業として渋沢栄一や三井組によって設立された共同運輸と激しい海運競争を展開したが、その過程で汽船海運市場は急速に拡大していった。1885年、両社の合併によって成立した日本郵船会社は、三菱の人材と共同の優秀船隊を結合させた強力な汽船海運企業であり、政府との関係も政商的結合から脱して、1893年には安定した関係を結ぶに至った。 また汽船海運の拡充により、1875年頃を起点として日本海運の全国的な構造転換が開始され、明治10年代後半には汽船優位の海運市場が形成された。海運市場における近代化は、1880年代に再び強化されたヨーロッパ海運の日本進出に対して国内市場への浸透を防ぐ障壁として機能したのである。その後汽船の急増、和船の改良を軸とする船種の近代化が進展し、1900年頃には大幅な海上輸送力の拡充が実現して、産業革命期の経済成長を輸送面から支えていったのである。 III.自立の達成 19世紀から20世紀にかけて日本海運は本格的な国際的自立の過程に入り、東アジア国際海運市場における三種の海運資本、即ちアジア民族資本としての輪船招商局、太古洋行・怡和洋行をはじめとするアジア域内欧米資本、P&Oをはじめとする遠洋ライナー等と激しい国際競争を展開しつつ、第一次大戦直前に対外航路入港船舶トン数の比率において50%を凌駕して、ほぼ自立を達成した。その過程は日本の帝国主義転化の過程と同時並行的に進展していった。 朝鮮航路における招商局との競争は日清の外交的対立を反映したものであり、日清戦争の日本の勝利によって決着がついた。以後、朝鮮半島は日本海運が掌握し、日本経済の朝鮮市場の包摂過程の進展とともに海運網は拡充されていった。アジア域内資本との競争は長江航路において最も激しく展開されたが、辛亥革命期に国策会社として設立された日清汽船の優位がほぼ確立した。また、日清戦争後に定期航路として開設された遠洋航路では、既存のヨーロッパ資本が結成する国際カルテルである海運同盟と競争を展開したが、日本船は経済界のバックアップおよび政府の海運保護政策に支援されて同盟の航路支配権を切り崩すことに成功し、日露戦後には同盟内部において、他の構成員とほぼ同等の地位を確保するに至った。 このように外圧排除が実現すると同時に、東アジアの各地域で航路の拡充と統が進み、急速に拡充される鉄道網を編み込んで日本を扇の要とする東アジア交通網とも言うべき新たな国際的運輸ネットワークが日露戦後期に形成されていった。 第一に、台湾における縦貫鉄道と結びついた流通ルートの再編、朝鮮における半島全体に広がる交通網の形成等、植民地鉄道との結合によって流通網の再編が進められ、自生的、在来的な流通貿易関係を破壊し、これらの地域の植民地化=日本の国民経済圏への従属的包摂を加速していった。 第二に中国においては、東北部における朝鮮鉄道から満鉄、シベリア鉄道へと繋がる鉄道網と航路網との連絡強化、華中方面における長江流域での航路統一に基づく勢力拡大と国際競争力の強化など、満鉄及び日清汽船という「国策」会社を中軸とした中国進出の主副両軸における運輸基盤の強化が進展し、日本の大陸進出を運輸面から強化していった。 第三に、こうして編成された運輸網は、上海、基隆などを結節点として同時期に拡充が図られた遠洋航路網との結びつきを強化する一方、新たに大連、ウラジオストックの二方向からシベリア横断鉄道網と結合して陸路欧亜連絡ルートを形成し、自らを世界運輸網の一環として有機的に組み込むに至った。 国有化された内地鉄道を扇の要として、近海定期航路網及び植民地鉄道が立体的に結びついた東アジア交通網は1910年代初頭に形成された。こうした運輸網の骨格の形成と並行して、日露戦後期に社外船の近海航路進出が本格化し、日本海運業は東アジア海域において、イギリスに次ぐ勢力を有するに至った。 日露戦争の勝利によって最後の帝国主義国への道程を確かなものとした日本は、ここに本格的な植民地支配及び中国大陸への帝国主義的進出を本格化する交通基盤を手中にしたのである。 |