学位論文要旨



No 212497
著者(漢字) 鈴木,達雄
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タツオ
標題(和) 生物生産に係る礁による湧昇の研究
標題(洋)
報告番号 212497
報告番号 乙12497
学位授与日 1995.10.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12497号
研究科 工学系研究科
専攻 土木工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邉,晃
 東京大学 教授 玉井,信行
 東京大学 教授 虫明,功臣
 東京大学 助教授 河原,能久
 東京大学 助教授 ディバジニア,モハンマド
 東京大学 教授 高橋,正征
 福井県立大学 教授 中村,允
内容要旨

 沿岸の好漁場は、海丘、堆、海脚、海領、海盆、海谷などの地形変化に富んだ海域に形成されることが多い。これは、流れ環境の多様性がつくり出す変化に富む物理・化学環境、また、これに誘起される生物にとっての好適環境の形成によると考えられる。しかし、これらの地形と生物生産の関係を科学的に解き明かしたものは無かった。

 本研究は海洋の栄養塩類(硝酸態窒素、燐酸態燐などの無機塩類で、一般的に底層ほど濃度が高い)の鉛直混合による海域の肥沃化に着目し地形性湧昇流に焦点を置いて、その特徴を明らかにし、これに基づいて湧昇流発生量の大きい構造形式を提案した。これを利用して海丘、海脚あるいは平坦な海域などの天然地形をさらに生産性の高い地形に改良することよる巨視的な漁場改良・造成方法への示唆を与えるものである。また、湧昇流の効果評価の一例として、底層水に含まれる栄養塩類の湧昇による基礎生産増大の可能性を試算した。さらに、本研究の実用面での応用として天然礁規模の人工湧昇流発生構造物を石炭灰を安定化させたブロックで構築する事業について、設計、施工、管理の方法および今後の課題についてまとめた。以下、各章の内容と得られた成果を述べる。

 第一章では、本研究の背景となっている漁場開発の必要性、礁周辺流況の研究や礁周辺の生産性の研究の必要性、石炭灰の有効利用の必要性について述べた。

 第二章では、関連する249編の文献を分類・整理し既往の研究で得られた成果のうち、湧昇流の生物学的意味、地形性湧昇流の実海域調査の成果、水理模型実験に関する成果を概説した。調査の結果、湧昇流を発生させることによる生物生産の増加は帰納的に証明されており、水産庁の補助金で(社)マリノフォーラム21が湧昇流による生物生産の増加を実証する事業を実海域で実施している。しかし、物体と流れに関する既往の研究を見ると、天然礁による湧昇流の意義が大きいにも係わらず、礁の形状と周辺流況や湧昇流の関係についての研究は少なく、湧昇流による栄養塩類の上昇、あるいはこれと生物生産を関連付けた研究は無いことが分かった。

 第三章では、物体の後流域で発生する湧昇渦(水底に固定された物体の下流側に発生する強い上昇力を持つ合体渦)の特徴を把握するため、3次元模型を用いた水槽実験について述べた。湧昇流の発生は物体周辺の流況と深く係わっていると考えられる。既往の研究で不足していた物体形状と周辺流況の関係を、新たな流れの可視化手法により系統的に調べた。可視化方法としては粒状染料散布法(水槽の底面に粒状の染料を散布して底面の流況を把握する方法)が有効であり、この方法を使って物体の形状と再付着点までの距離など周辺流況との間に一定の関係があること。物体形状が湧昇渦の発生と深く関係していることなどを明らかにした。また、2次元物体と3次元物体とでは物体の天端から発生する水平剥離渦と物体の側方端部から発生する鉛直剥離渦の合体機構が異なるため、3次元現象を2次元模型で実験することには問題があることを確認した。

 実験の結果、マウンド状模型の中でも天端が尖っているものが強い湧昇渦を発生することが分かった。また、模型の高さ(H)と流れに直角方向の模型の天端長さ(L)の比によって湧昇渦の強さが異なり、L/Hが4〜6のとき湧昇渦の平均到達高さは4〜4.5Hに達する。湧昇渦の可視化により、底層の栄養塩類が表層まで間欠的に上昇する状況を明らかにした。形状が天然礁に類似したマウンド状の模型の内、2つの円錐の間をこれらの円錐より若干高さの低いマウンドでつないだ構造物(以下、2連マウンドと呼ぶ)は他のマウンド型模型と比較して湧昇渦の到達高さが高く発生周期が短いので効率が良い。湧昇渦の発生周期は水平剥離渦の発生周期の3〜4倍になっており、模型の端部から剥離した渦が反流域で3〜4個分合体して湧昇渦が形成されると考えられる。

 第4章では、湧昇と生物生産の関係を知るために、湧昇により有光層(植物プランクトンの光合成による酸素生産が呼吸による酸素消費より大きくなる層、一般的には30m以浅の表層)内に添加される栄養塩類の量を把握するための実験について述べた。この実験では一定濃度の染料を模型の上流底層部から流し、模型下流側で染料の濃度を測定して有光層内での濃度分布を求めた。この結果でも可視化実験で得た模型形状と湧昇渦の到達高さの関係と同様な結果を得た。また、湧昇渦の発生状況は模型の形状、流況によって大きく変化し、流速が低下したり流れが構造物の法線に対して傾斜して当たると湧昇流量が低下すること、構造物の形状としては2連マウンドが単位体積当たりの湧昇流量が多いことを再確認した。実験結果から海域での栄養塩類の有光層への添加量を試算した。水深50mの海域に高さ12m、天端長さ50m、幅40mのマウンドを設置すると、平均流速が40cm/sの場合、約260m3/sの湧昇流が発生し、底層の栄養塩濃度を20,000g-atN/m3と仮定すると、5.2g-atN/sの栄養塩が有光層内に添加される。実海域では流向、流速は時々刻々変化するので、礁から発生する湧昇流量も変化する。したがって、ある海域で一定期間に湧昇する栄養塩類の総量は、その海域の流向、流速分布、栄養塩類の鉛直分布、および実験で得た各条件下での湧昇流量から求めることができる。

 第5章では、礁による湧昇の発生と生物生産の関係について述べた。一般に海洋の有光層では光とCO2は充分に存在するので、栄養塩類濃度によって植物プランクトンの増殖量が制限される。このため自然の湧昇流によって栄養塩類が底層から供給される海域は生産性が非常に高いことが確認されている。一方、礁などで発生する地形性の湧昇流で上昇した底層の海水は、表層の海水より密度が大きいため沈降し易く、一定方向の流れの場では湧昇した水塊が生物生産に十分に結びつく前に沈降してしまう可能性もある。

 本研究では、往きの潮汐流によって有光層に湧昇した栄養塩類を含む水塊は移流・拡散するが、帰りの潮汐流による湧昇によって再び栄養塩類を添加され、次第に濃度を増加するという仮説を立てた。これを数値解析で確認するため、実測データの比較的整っている豊後水道を例に2次元単層モデルで解析した。実測された流況と解析値が整合することを確かめ、この流れ解析結果を用いて上記の実験で得た湧昇流量に相当する栄養塩量(窒素換算)を流向、流速に対応して湧昇流発生地点のセルに添加し、栄養塩の移流・拡散状況を60潮汐分計算した。その結果、栄養塩を添加したセルを中心にほぼ楕円状に栄養塩濃度の高くなる分布図が描かれ100g-atN/m3の等濃度線は100km2程度の範囲に及ぶことが分かった。一般に実海域の表層では夏期に数g-atN/m3程度に低下していることが実測されているので、この程度の栄養塩濃度の増加でも生物生産に寄与すると考えられる。

 上記の流れおよび移流・拡散計算に栄養塩、植物プランクトン、動物プランクトンおよびデトリタスの4コンパートメントの生態系項を加えて計算すると、植物プランクトン濃度で100g-atN/m3以上の増加を見込める海域は、栄養塩が植物プランクトンなどに転移するため、南北6km、東西3km、面積約15km2程度に減少した。これらの計算では河川や島からの湧昇による栄養塩類の添加、魚介類による捕食などを考慮していないので、実海域での実測値と単純に比較することはできない。しかし、このような解析によって礁から発生する湧昇流が、生物生産の増加に貢献し得ることを説明できる。前述した検討の結果、これまで疑問視されることもあった海底に設置された人工構造物による効率的な湧昇流の発生、人工湧昇による栄養塩類の有光層への添加、実海域での栄養塩類添加による生物生産の増大などに対して1つの科学的な根拠を提供することができた。

 第6章では、本研究で提案した人工湧昇流発生構造物の事業展開について述べた。例えば、漁場として利用されていない水深100m程度の平坦な砂泥海域に高さ30m、延長300mの2連マウンド群を多数の石炭灰コンクリートブロックを積み上げて構築する場合、マウンド1基当たり21万m3の材料が必要になる。この量は100万kwの石炭火力発電所から発生する1年分の石炭灰量の60%にのぼる。この石炭灰コンクリートは、強度、耐久性、安全性などが確認され、水産庁の「沿岸漁場整備開発事業施設設計指針」で漁場造成の材料としての利用を認められた。この石炭灰コンクリートを利用し、海底に湧昇効率の良いマウンドを構築するための製造、貯蔵、海上運搬、位置決め、沈設、洗掘防止などについて実施可能な具体的方法を示した。この人工湧昇流発生構造物は沖合で基礎生産を増大し巨視的な漁場を形成すると同時に産業発生材を長期間、大量に有効利用することになるので、これまで埋立てられていた海洋生物の再生産の場である干潟や藻場などの浅海域を保護することができる。また、植物プランクトンを増殖させることはCO2の固定、O2を生産することになり地球環境の保全に貢献でき、臨海における電源立地の促進にもつながる。

 残された課題として、湧昇流発生構造物の設計手法、実海域での生物生産効果を事前に予測する手法の確立などが挙げられる。そのために、本研究で提案した可視化方法、濃度測定方法、生態系シミュレーション技術などを発展させ、密度成層や内部波などを考慮した水理実験や数値解析技術の開発、これと並行した海域での実証実験が必要である。

審査要旨

 本論文は、沿岸海域の海底に人工礁を設置して湧昇流を発生させ、底層の栄養塩を海面付近の有光層に輸送することによって生産性の高い漁場を造成することを最終的な目的としており、そのための基礎研究として、湧昇流を効果的に発生するために有効な人工礁の形状や規模、湧昇流で有光層に付加された栄養塩の挙動とそれに伴う生物生産性の増加の程度、ならびに人工礁の建設材料としての石炭灰の利用可能性等を論じたものであり、7章より構成されている。

 第1章「序論」では、本研究の背景として、沿岸漁場の開発と改良の重要性を論じるとともに人工礁により発生する湧昇流の利用可能性について述べたのち、そのためには人工礁周辺の流況の定量的把握、湧昇流に伴う礁周辺海域の生産性の向上の評価、更には石炭灰利用の実現性等に関する研究が重要であることを示している。

 次いで、第2章「関連する既往の研究」においては、湧昇流の概説、湧昇流および海域生態系に対する現地調査、ならびに実験・解析、更に石炭灰硬化体の海域利用の、4つのテーマに関連する249編の文献の整理をとおして既往の研究成果をまとめ、本課題の重要性にも拘らず礁の形状と湧昇流の関係や湧昇流と生物生産の関連を扱った研究が極めて少ないと結論づけている。

 第3章は「水底の物体周辺の流況に関する実験」と題する。ここでは、各種形状人工礁の2次元・3次元模型を用いた水槽実験を行い、定常流中の礁周辺の流況を可視化法により測定した結果に基づいて明らかとなった流れ場の特徴を論じている。その結果、1)礁の形状と前方分流点・再付着点までの距離との間には密接な関係があること、2)再付着点までの距離や礁極近傍の流況が湧昇流の発生に大きく関わること、3)2次元物体と3次元物体とではそれぞれから剥離発生する渦とその合体過程が異なるため、2次元模型実験では現象を正しく把握できないこと、等を明らかにした。更に、本研究課題により直接的に関わる結果として、1)流れに垂直方向の礁の長さが礁の高さの4〜6倍のときに湧昇渦が最も効率よく上昇し、その平均到達高さは礁の高さの4倍以上に達すること、2)各種形状の礁の中では、2連マウンドの場合に湧昇渦の到達高さが最大になり、しかも渦の発生周期が最短になるので、湧昇流の発生に最も有効であるとの結論を得ることに成功した。

 第4章「湧昇水塊による栄養塩類の持ち上げに関する実験」においては、前章の結論を受け、効率よく湧昇渦を発生することのできるマウンド型人工礁に焦点を絞って、湧昇渦による栄養塩類の上昇量を定量的に把握するために行った実験結果を示している。具体的には栄養塩類の代わりに染料を礁模型の上流底層部から流し、礁の下流側での染料濃度を測定することにより、特に有光層内での濃度分布を求めた。その結果、染料の濃度分布が礁の形状・流速・流向により大きく影響されることや、マウンド型礁の中でも2連マウンドの場合に単位体積当たりの湧昇流量が最大となり最も有効であること等、前章の可視化実験で得られた結論を再確認できた。同時に、種々の礁形状と定常流条件の下での湧昇流による栄養塩類の有光層への供給量を定量的に求めることができた。更に、実海域にマウンド型人工礁を設置した場合を対象に、礁の諸元、設置位置水深、および潮流や海流の流速・流向の時間変化から栄養塩類供給量を予測する手法を示している。なお、この実験においては密度の差異の影響が考慮されていない点に問題があるものの、2連マウンド型人工礁が湧昇流の発生ひいては栄養塩の有光層への供給に最も有効であるとした結論、ならびに提案された栄養塩類供給量の予測手法の有用性は充分に評価できる。

 第5章「礁による湧昇の発生と生物生産」では、潮汐流ならびに栄養塩類の移流・拡散に対する水平2次元解析モデルと前章で得られた栄養塩類供給量評価手法を組み合わせ、1例としてそれを豊後水道海域に適用することによって、人工礁設置に伴う有光層内の栄養塩類の増加量を算定し、人工礁の有効性を定性的ながら明確にしている。更に、既存の生態系モデルを応用することをとおして、人工湧昇流の生物生産性向上効果に関しても、定量的には未だ不十分な点があることは否めないものの、その評価手法の基本的枠組みの提示と生物生産性向上の現実性の確認とに成功したと判断できる。

 さらに、第6章「事業への展開」においては、ここで提案した2連マウンド型を中心とする湧昇流発生人工礁の造成の事業化へ論を進め、人工礁の造成に必要となる材料の量が相当になることから、産業発生材である石炭灰を硬化させてできる石炭灰コンクリートを以てこれにあてることが、資源のリサイクルの点からも望ましいと提案している。そして具体的に、石炭灰コンクリートの耐久性・安全性について検討と確認ののち、それを用いたブロックの製造・貯蔵・海上運搬・位置決め・沈設・洗掘防止方法についても検討を加え、その実現性を確かめることにも成功したと判定できる。

 第7章「結論」では、本研究で得られた主な結論をまとめている。

 以上を要するに、本論文は、沿岸海域の生物生産性の向上を目的とした湧昇流発生人工礁に関し、各種形状の人工礁周辺の流況ならびに湧昇流発生に最も有効な人工礁形状を実験的に明らかにするとともに、現地海域での有効性と事業化の実現性をも確認しており、海岸工学上貢献するところが大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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