本論文は、生体物質の動的現象の理論的解析の数例からなっている。第一部では膜蛋白質等の不純物を含まない脂質二重膜を対象とし、第二部では遺伝子の相同組換えの反応機構の解明を試みる。 第一部小胞形態をとる脂質二重膜の動力学 脂質二重膜(以下、膜)は、親水性の頭部と疎水性の尾部からなる脂質分子が尾部を向かいあわせて作る二分子層からなり、細胞の基本的な構成単位である。膜で囲まれた小胞を人工的に作ることもでき、リポソームと呼ぶ。 膜は曲げに対して復元力を持つとされる。この復元力は膜の法線方向を向き、大きさは膜の平均曲率によって決まり、膜の物性定数であるペンディングリジディティー(以下、リジディティー)と自発曲率が関わるとされる。膜が二次元方向の伸展圧縮に対して等方的な弾性を持つと考えると、これに関わる圧縮係数が、膜のまた一つの物性定数となる。膜は、さらに二次元流体とも考えられている。これを二次元ニュートン流体とすれば、膜は物性定数として粘性係数()を持つことになる。膜の運動方程式は、二次元ニュートン流体の運動方程式に法線方向の復元力の項を追加することで作ることができる。 この定式化の応用例として、流体中にあり且つその内部に流体を含んでいて、静止している時には球形のリポソームを考え、この系の静止からわずかにずれた運動を線形近似の範囲で解析する。以下の例ではリポソームの内外の流体は非圧縮であるとし、ストークス方程式に従うと考える。膜と内外の流体との間の界面張力係数は、膜の圧縮係数に含めてしまうことにする。計算は、リポソームの半径(r0)、リジディティー、外部流体の粘性係数()で無次元化してから行なった。 第一例目は、外部の流体が遠方で弱い線形剪断流である時のリポソームの変形を求める問題である。膜がない場合つまり線形剪断流中での液滴の変形は古くから研究されており、また曲げに対する復元力のない膜からなる球状小胞の場合も既に研究がある。しかし、例えば、球形リポソームの変形の測定から膜の物性定数の情報を得ようとすると、曲げに対する復元力を考慮に入れた計算が必要となる。計算結果は、膜の圧縮係数が零であるか否かで場合が分かれるが、変形の表式そのものは線形の範囲では圧縮係数には依らない。零である場合の計算は、液滴の半径、液滴の表面張力係数、外部流体の粘性係数で無次元化された液滴の変形の計算と同じになるが、リポソームの変形問題としては例外的な場合となる。 第二例目は、外部の流体が遠方で静止している場合の系の過減衰運動を考え、膜の半径方向の変位のモード毎の減衰係数を計算する。これは系の平衡のまわりの揺らぎの時間依存相関の減衰係数でもある。この表式は、実験から膜の物性定数についての情報を得る際に有用であると考えられ、従来から理論的研究がいくつかなされてきたが、いずれも膜の粘性を無視している。計算の結果、膜の粘性係数をも含んだ減衰係数の表式を得てみると、従来の研究では膜の粘性を無視しているばかりか、膜の二次元流体としての連続性の条件に膜の動きによる効果がとりいれられてなかったり、あるいは、膜が容易に伸び縮みする極限で考えられていたりしたことがわかった。実験によると膜はほとんど非圧縮である。非圧縮性を考慮に入れて求めた本論文での表式は、粘性による項を無視しても従来のものと一致しない。内部の流体の粘性係数をとすると、がr0や.r0よりあまりに小さいときを除いて、膜の粘性は低モードの減衰係数に対して無視できない影響があることがわかった。実測されている膜の粘性係数を使うと、内外の流体が水であるとき、膜の粘性を無視できぬ状況が実際にもおこりうることがわかる。 第二部相同組換えの中間体構造の動力学 相同組換えは二重鎖DNA上の、相同な(つまり、全く、あるいは、ほとんど同一の塩基配列を持つ)二つの区間どうしで起こる。しばしば遺伝子の組換えの原因となり、生物における基本的な化学反応の一つである。細菌を使った実験等から、相同組換えの頻度(F)は相同領域の長さ、つまり相同領域にある塩基の数(N)とF=aN-bの関係があると考えられてきた。ここでa、bは正定数であり、FをNに対して線形にプロットする際のN軸切片b/aは関わる酵素等の立体障害による閾値(MEPS=minimal effective processing segment:ペアリングに必要な相同領域の最小長さ)を示すものとされてきた。ところが最近、哺乳動物細胞を使ったジーンターゲッティングの実験で、FはNの高次の巾ないし指数関数であるという結果が報告された。本論文では、これらの異なった依存性を統一的に説明する以下のようなモデルを提唱する。(簡単のため、ホリデーモデルの用語を用いて説明するが、本論文のモデルはホリデーモデルにのみ基礎をおくものではない。) まずホリデー中間体の交叉部は、反応開始の直後のみ、ベースペアー間の長さあたり稀な頻度で生じるとする。できた中間体は交叉部が相同領域に沿ってランダムウオークする間に、最終生成物(即ち組換え体)になるか、壊される(即ち、反応物に戻る等して、組換え体を作ることなく中間体がなくなる)かする。中間体は交叉部が相同領域の端に来ると壊されるか、壊されることなく相同領域にはねかえされる(この確率を反射係数と呼ぼう)かする。本論文では,交叉部がベースペアー毎に一つあるサイト間を遷移するランダムウオークとしてマスター方程式をたてた。 反射係数が零の場合、係数行列の固有値問題を解くことでマスター方程式は解ける。少し近似を使うと、FはNの一次の項とNの双曲線関数の項の和で表わされる。これから、Nが小さい時FはNの三乗に比例し、Nが大きい時はF=aN-bの形になることがわかった。どれくらいの長さで、Nの三乗依存性から一乗依存性に移るかは、中間体の被処理効率のサイト間遷移確率に対する比(relative probability of intermediate processingと名づけたが以下ではRPIPと呼ぶ)で決まる。 組換え頻度の相同領域の長さへの依存性が明確な、いくつかの実験データと計算結果を比較してみた。上記の哺乳動物細胞を使った実験では、データを対数プロットしてみると三乗依存性を示していることわかる。また、一乗依存性と報告された細菌を使った実験のデータは、対数プロットしてみると三乗依存性を示していることがわかった例もあるし、三乗依存性から一乗依存性への遷移を示すと考えられる例もあった。なお、本論文のモデルによれば切片b/aは酵素等の立体障害を表わすものではなく、RPIPに依存する。哺乳動物細胞でNが相当大きいところまで三乗依存性が見えるのは、RPIPが比較的低い、つまり中間体の相対的な処理効率が低く、端で壊される影響がNの相当大きいところまで無視できないからだと考えればよい。 このように反射係数が零の上記の計算結果は、極めてよく多くのwild-typeの系の実験結果を説明するが、比較的広い相同領域の長さにわたって二乗依存性を示す二つのmutantの系のデータは説明できない。生物学的にも、これらの系で反射係数がwild-typeの系より高いことが、充分考えられる。そこで、反射係数が非零の場合の計算が必要になるわけだが、この場合は固有値問題が簡単には解けない。しかし、数列の三項間漸化式の問題に置き換えることができて、解を得ることができる。近似を使うと反射係数があがるにつれて、非線形依存性部分の指数は上述の三乗から減少し、二乗依存性が出現する。こうして本論文のモデルは、mutantの系も含めた多くの系の実験結果を説明できることがわかった。なお、生物では通常RPIPは充分小さいと考えられ、線形依存性部分の切片b/aは、反射係数が余程1に近い場合を除いて、反射係数にはあまり依存しないし、また、その傾きaは反射係数に依らないことがわかった。 以上の解析においては、遷移確率は相同領域に沿って変化しないと考えた。ある程度まで塩基配列の不一致を含んでも、一定の遷移確率を仮定して定式化できるようである。しかしながら、解析した実験系にはなかったようだが、塩基配列の不一致が多くなったりして、この仮定がなりたたなくなる系はありえる。 |