学位論文要旨



No 212508
著者(漢字) 藤谷,洋平
著者(英字)
著者(カナ) フジタニ,ヨウヘイ
標題(和) 生体物質の動力学的解析
標題(洋) Dynamical Analyses of Biomaterials
報告番号 212508
報告番号 乙12508
学位授与日 1995.10.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12508号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和達,三樹
 東京大学 教授 吉澤,徴
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 助教授 楠見,明弘
 東京大学 助教授 桑島,邦博
内容要旨

 本論文は、生体物質の動的現象の理論的解析の数例からなっている。第一部では膜蛋白質等の不純物を含まない脂質二重膜を対象とし、第二部では遺伝子の相同組換えの反応機構の解明を試みる。

第一部小胞形態をとる脂質二重膜の動力学

 脂質二重膜(以下、膜)は、親水性の頭部と疎水性の尾部からなる脂質分子が尾部を向かいあわせて作る二分子層からなり、細胞の基本的な構成単位である。膜で囲まれた小胞を人工的に作ることもでき、リポソームと呼ぶ。

 膜は曲げに対して復元力を持つとされる。この復元力は膜の法線方向を向き、大きさは膜の平均曲率によって決まり、膜の物性定数であるペンディングリジディティー(以下、リジディティー)と自発曲率が関わるとされる。膜が二次元方向の伸展圧縮に対して等方的な弾性を持つと考えると、これに関わる圧縮係数が、膜のまた一つの物性定数となる。膜は、さらに二次元流体とも考えられている。これを二次元ニュートン流体とすれば、膜は物性定数として粘性係数()を持つことになる。膜の運動方程式は、二次元ニュートン流体の運動方程式に法線方向の復元力の項を追加することで作ることができる。

 この定式化の応用例として、流体中にあり且つその内部に流体を含んでいて、静止している時には球形のリポソームを考え、この系の静止からわずかにずれた運動を線形近似の範囲で解析する。以下の例ではリポソームの内外の流体は非圧縮であるとし、ストークス方程式に従うと考える。膜と内外の流体との間の界面張力係数は、膜の圧縮係数に含めてしまうことにする。計算は、リポソームの半径(r0)、リジディティー、外部流体の粘性係数()で無次元化してから行なった。

 第一例目は、外部の流体が遠方で弱い線形剪断流である時のリポソームの変形を求める問題である。膜がない場合つまり線形剪断流中での液滴の変形は古くから研究されており、また曲げに対する復元力のない膜からなる球状小胞の場合も既に研究がある。しかし、例えば、球形リポソームの変形の測定から膜の物性定数の情報を得ようとすると、曲げに対する復元力を考慮に入れた計算が必要となる。計算結果は、膜の圧縮係数が零であるか否かで場合が分かれるが、変形の表式そのものは線形の範囲では圧縮係数には依らない。零である場合の計算は、液滴の半径、液滴の表面張力係数、外部流体の粘性係数で無次元化された液滴の変形の計算と同じになるが、リポソームの変形問題としては例外的な場合となる。

 第二例目は、外部の流体が遠方で静止している場合の系の過減衰運動を考え、膜の半径方向の変位のモード毎の減衰係数を計算する。これは系の平衡のまわりの揺らぎの時間依存相関の減衰係数でもある。この表式は、実験から膜の物性定数についての情報を得る際に有用であると考えられ、従来から理論的研究がいくつかなされてきたが、いずれも膜の粘性を無視している。計算の結果、膜の粘性係数をも含んだ減衰係数の表式を得てみると、従来の研究では膜の粘性を無視しているばかりか、膜の二次元流体としての連続性の条件に膜の動きによる効果がとりいれられてなかったり、あるいは、膜が容易に伸び縮みする極限で考えられていたりしたことがわかった。実験によると膜はほとんど非圧縮である。非圧縮性を考慮に入れて求めた本論文での表式は、粘性による項を無視しても従来のものと一致しない。内部の流体の粘性係数をとすると、r0.r0よりあまりに小さいときを除いて、膜の粘性は低モードの減衰係数に対して無視できない影響があることがわかった。実測されている膜の粘性係数を使うと、内外の流体が水であるとき、膜の粘性を無視できぬ状況が実際にもおこりうることがわかる。

第二部相同組換えの中間体構造の動力学

 相同組換えは二重鎖DNA上の、相同な(つまり、全く、あるいは、ほとんど同一の塩基配列を持つ)二つの区間どうしで起こる。しばしば遺伝子の組換えの原因となり、生物における基本的な化学反応の一つである。細菌を使った実験等から、相同組換えの頻度(F)は相同領域の長さ、つまり相同領域にある塩基の数(N)とF=aN-bの関係があると考えられてきた。ここでa、bは正定数であり、FをNに対して線形にプロットする際のN軸切片b/aは関わる酵素等の立体障害による閾値(MEPS=minimal effective processing segment:ペアリングに必要な相同領域の最小長さ)を示すものとされてきた。ところが最近、哺乳動物細胞を使ったジーンターゲッティングの実験で、FはNの高次の巾ないし指数関数であるという結果が報告された。本論文では、これらの異なった依存性を統一的に説明する以下のようなモデルを提唱する。(簡単のため、ホリデーモデルの用語を用いて説明するが、本論文のモデルはホリデーモデルにのみ基礎をおくものではない。)

 まずホリデー中間体の交叉部は、反応開始の直後のみ、ベースペアー間の長さあたり稀な頻度で生じるとする。できた中間体は交叉部が相同領域に沿ってランダムウオークする間に、最終生成物(即ち組換え体)になるか、壊される(即ち、反応物に戻る等して、組換え体を作ることなく中間体がなくなる)かする。中間体は交叉部が相同領域の端に来ると壊されるか、壊されることなく相同領域にはねかえされる(この確率を反射係数と呼ぼう)かする。本論文では,交叉部がベースペアー毎に一つあるサイト間を遷移するランダムウオークとしてマスター方程式をたてた。

 反射係数が零の場合、係数行列の固有値問題を解くことでマスター方程式は解ける。少し近似を使うと、FはNの一次の項とNの双曲線関数の項の和で表わされる。これから、Nが小さい時FはNの三乗に比例し、Nが大きい時はF=aN-bの形になることがわかった。どれくらいの長さで、Nの三乗依存性から一乗依存性に移るかは、中間体の被処理効率のサイト間遷移確率に対する比(relative probability of intermediate processingと名づけたが以下ではRPIPと呼ぶ)で決まる。

 組換え頻度の相同領域の長さへの依存性が明確な、いくつかの実験データと計算結果を比較してみた。上記の哺乳動物細胞を使った実験では、データを対数プロットしてみると三乗依存性を示していることわかる。また、一乗依存性と報告された細菌を使った実験のデータは、対数プロットしてみると三乗依存性を示していることがわかった例もあるし、三乗依存性から一乗依存性への遷移を示すと考えられる例もあった。なお、本論文のモデルによれば切片b/aは酵素等の立体障害を表わすものではなく、RPIPに依存する。哺乳動物細胞でNが相当大きいところまで三乗依存性が見えるのは、RPIPが比較的低い、つまり中間体の相対的な処理効率が低く、端で壊される影響がNの相当大きいところまで無視できないからだと考えればよい。

 このように反射係数が零の上記の計算結果は、極めてよく多くのwild-typeの系の実験結果を説明するが、比較的広い相同領域の長さにわたって二乗依存性を示す二つのmutantの系のデータは説明できない。生物学的にも、これらの系で反射係数がwild-typeの系より高いことが、充分考えられる。そこで、反射係数が非零の場合の計算が必要になるわけだが、この場合は固有値問題が簡単には解けない。しかし、数列の三項間漸化式の問題に置き換えることができて、解を得ることができる。近似を使うと反射係数があがるにつれて、非線形依存性部分の指数は上述の三乗から減少し、二乗依存性が出現する。こうして本論文のモデルは、mutantの系も含めた多くの系の実験結果を説明できることがわかった。なお、生物では通常RPIPは充分小さいと考えられ、線形依存性部分の切片b/aは、反射係数が余程1に近い場合を除いて、反射係数にはあまり依存しないし、また、その傾きaは反射係数に依らないことがわかった。

 以上の解析においては、遷移確率は相同領域に沿って変化しないと考えた。ある程度まで塩基配列の不一致を含んでも、一定の遷移確率を仮定して定式化できるようである。しかしながら、解析した実験系にはなかったようだが、塩基配列の不一致が多くなったりして、この仮定がなりたたなくなる系はありえる。

審査要旨

 本論文は第一部と第二部からなり、計5章からなる。

 第一章から第三章までの第一部では小胞形態をとる脂質二重膜の動的性質が解析されている。脂質二重膜に対しては、曲げ弾性を持った二次元流体という標準的な力学モデル(curvature model,fluid-mosaic model)が採用されている。第一章では二次元ニュートン流体の支配方程式に曲げ弾性からくる復元力の項を加える定式化が述べられ、小胞の変形が球からわずかである場合に応用するための線形近似の枠組みが提示されている。第二章では流体中に浸った(静止時には球状の)小胞の線形剪断流中での微小変形が論じられている。従来の研究で考えに入れられていなかった膜の曲げ弾性の影響を調べる目的である。第三章では静止流体中での微小変形の緩和、即ち平衡のまわりの揺らぎの時間依存相関の緩和、が論じられている。従来の研究で考えに入れられていなかった膜の粘性の影響を調べる目的である。これらは、すべて線形の範囲で解析されており、膜のまわりの流体は定常ストークス方程式で取り扱われている。

 膜の粘性と曲げ弾性を取り入れることによって、小胞の変形や緩和係数の計測から膜の物性定数を決める時に使われうる表式を、従来のものより現実の膜に適するよう改良された形で求めることができている。実際よくある実験条件でも、緩和係数への膜粘性の影響は小さくないことがあることを指摘している。緩和係数の表式を求める際の従来の研究の誤り(連続性の条件において膜の変形による効果が無視されていたり、膜が容易に伸び縮みする極限で論じられていたりした)を指摘している点も特記される。

 第四章、第五章からなる第二部では、DNA分子が関与する相同組換えという化学反応の機構をランダムウォークを用いて解明されている。組換え頻度の相同領域の長さへの依存性が、線形である系と非線形である系とがあるという、いく人かの実験家による報告があったので、これに統一的な理論的説明を試みようというものである。

 中間体の分岐部が相同部分に沿ってランダムウォークすることは従来から示唆されていたが、第四章では分岐部が相同領域の両端で少なくとも一部分は破壊されるものとして反応機構が定式化されている。固有値問題や数列の三項間漸化式を解析的に解くことで、組換えの頻度が相同部分の長さの三乗に比例する長さ領域、二乗に比例する長さ領域、線形に依存する長さ領域が、この順で短い方から存在しうることを導いている。ここで、分岐部が相同部分の端で破壊されずに反射される確率(反射係数)が、よほど高くないかぎり「二乗」領域は存在しない。第五章で、これらの計算結果が従来の実験データをよく説明できることが示されている。相同組換えの頻度の相同部分の長さへの線形依存性が示されているとされた細菌を使った実験のデータは両対数プロットすると実は傾き3の直線にのったり(つまり「三乗」依存性)、傾き3から1への遷移が見られたりすることが示されている。また、哺乳細胞を使った実験で指数関数依存性とされたデータも「三乗」依存性でよく説明できることも明らかにされている。以上は野生株を使った実験のデータだが反応機構が異なると考えられる変異株を使った実験のデータは「二乗」依存性で説明できることが示されている。

 このように上記のランダムウォークモデルでは、相同部分の端で分岐部が破壊されることがあるとして、組換え頻度の相同部分の長さへの依存性を計算することで、多様な実験データを統一的に説明できている。従来の実験で示された非線形依存性部分が、この理論と矛盾しない「三乗」依存性を示している点は特記される。また、野生株を使った系と比べて、変異株を使った系では分岐部が相同部分の端で壊れにくいことを予測している。

 以上のように、本論文は、脂質二重膜の動的性質を低レイノルズ数流体力学の手法で解析し、またDNAの関与する相同組換えの反応機構をランダムウオークで定式化して解析し実験と比較したものである。これらの結果は、生体物質の動的現象を流体力学あるいは非平衡統計力学で解析しようとする理論生物物理学の一分野に貢献したとともに、実験生物学にあたえる影響も小さくない。なお、本論文第二部は、山本健二氏及び小林一三氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって計算解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。従って、論文提出者に博士(理学)を授与できると認める。

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