米ソ冷戦体制は崩壊し、東西ドイツの統一は平和的に行われた。しかし他方で、世界の各地ではふたたび民族主義的潮流が台頭し、世界の不安定要因の一つとなっている。まさに現在、20世紀をどう総括するかが問われているともいえよう。20世紀末の世界的現実の意味を理解するために、そしてそこでの日本の位置を理解するために、米ソ冷戦体制発生の前提条件と意味内容を解明する課題が、われわれの歴史研究に課せられた重大課題の一つになっていることは間違いないであろう。 ところが、冷戦体制の一方の極をなすソ連の大国化・覇権化を規定した第二次世界大戦期のドイツ第三帝国との争闘のダイナミズムに関しては、まったくといっていいほど歴史学的研究がなされていない。ドイツ史研究において、戦時期の研究の欠如で戦前と戦後の歴史がつながらないと指摘されたのは、すでにかなり以前のことである。この未開拓の問題に関して、一次史料をもとに、できるだけ一次史料でもって歴史を再構成し、現在の世界の到達点とその意味を確認しようとするのが、本論文の目的とするところである。 旧ユーゴなど若干の地域を別として、世界の主要諸国が、地球上の多数の諸民族や諸国家とともに、民族排外主義的潮流の跳梁を許していないというのが、現在の世界と人類の到達点の概括であろう。それは、二つの世界大戦の現実、20世紀前半の世界の支配的潮流を考えるとき、決して見逃すことのできない中心的事実である。この事実をふまえて、それを可能にした諸条件を解明する作業の一つとして、ナチズム・第三帝国の歴史と行動を19世紀末から20世紀前半の世界の支配的潮流の中に適切に位置づけること、これが本論文の基本的見地である。 この見地に立つとき、世界で流布している「ユダヤ人問題」の把握の仕方、ホロコーストの理解の仕方は、根底的に批判されなければならない。そこでは、ナチズムの問題が反ユダヤ主義の問題、ユダヤ人大量虐殺の問題に一面化されているからである。西ドイツを初めとする歴史学会に浸透している史観、その本質においてユダヤ民族主義的・シオニスト的ともいうべき史観を、「ユダヤ人問題」の展開を戦争の総体的連関性の中で実証することによって批判することが、本論文の主要目的の一つである。 そして、戦争末期のドイツ人民衆の「麻痺」を成り立たせる条件の一つは民族主義的な論理であり、そこでの「ユダヤ人問題」の取り上げ方であり、その処理の仕方である。この「麻痺」の構造の解明は、ドイツ史が経験した戦争からの脱却の別の可能性としての「兵士の反乱」(十一月革命)との内的連関性を問うことでもある。 民衆の「麻痺」も構造的連関性において解明されなければならない。「麻痺」の構造性とダイナミズムをそのいくつかの要因で解明し、その方法的必要性を指摘する。すなわちこの点からすればあらたな問題提起が、本論文の意図するもう一つの主要点てある。 まず1章では、ナチズム、ヒトラー把握における「近代化」論的解釈などについて、研究史の批判的総括を行い、問題視角を限定し、上記の課題を設定した。ついで2章では、ドイツ第三帝国の東方政策全体の中にポーランド占領政策とソ連占領政策とを適切に位置づけるべきことを指摘した。そもそも戦時期の実態、占領政策の実態が未解明であることもあって、ポーランドの問題とソ連の問題とが切り離されて理解されている。 しかし、事実を直視すれば明らかなように、また本章で解明したように、ドイツの領土拡大、民族主義的膨張の論理、ドイツ民族至上主義の基軸論理は、戦局の展開ごとにポーランドとソ連地域とを分け隔てることなく貫徹し、先鋭化する。 1章におけるヒトラーの論理、2章におけるヒムラーの論理の解明から明らかなように、基軸論理をなすドイツ民族至上主義を把握してはじめて、彼ら、そして第三帝国のユダヤ人迫害政策の展開の意味が理解できる。ドイツ民族を頂点におき、ユダヤ民族を最底辺においてその中間に諸民族を位置づける階層秩序的論理こそは、戦局の展開、とりわけ電撃戦戦略の挫折以後の、すなわち実質的総力戦化の段階でのユダヤ人大量虐殺を必然化するものであったことがわかる。 しかし、このヒトラーやヒムラーの観念世界に凝結した思想の核心は、第一次世界大戦の煉獄とその帰結から、ドイツ民族主義が導き出したものであること、その世界大戦の総体的連関性との関係を明確にしておかなければならない。彼らの思想は、通常の単純な反ユダヤ主義とはその構造が違うからであり、たんなる伝統的な反ユダヤ主義の継承ではないからである。 3章は、ほとんど顧みられたことのないドイツ第三帝国のソ連占領政策の基本的内容を、重要なドキュメント(多くはニュルンベルク裁判のために集められた第三帝国の国家・党軍の極秘文書)をもとに、再構成した。そこからは、第三帝国の本質と目的が、たんなる反ユダヤ主義などではないことが歴然とする。そして、あらためて、20世紀前半の世界を支配していた列強(イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、日本、イタリア、そして後にはソ連)の領土膨張・帝国主義・覇権主義の相互連関性の深刻さを明らかにする。 第三帝国のソ連分割政策は、ヒトラーと第三帝国の首脳にとって、またそれを支持するドイツ人の民衆にとって、時代の当然の要請となっていたからである。こうしたドイツ人の民衆の意識において、ドイツ第三帝国の膨張的あり方への批判はみられないのである。日本の対米英戦、東南アジア侵略の開始は、ドイツ人民衆の驚嘆の的ですらあった。 4章は、「ユダヤ人」虐殺が占領権力確立の一手段であったことを解明する。ソ連占領開始から半年間に、ソ連地域で行われた数十万人以上のユダヤ人の虐殺が、反ユダヤ主義の自己目的的展開ではなかったことを、特別出動部隊の報告書をもとに追跡した。また、電撃戦戦略の挫折が食糧調達、住宅確保、占領地治安秩序の確立、占領地民衆の統合において提起した諸困難と「ユダヤ人」虐殺との関連性を実証した。 5章は、総力戦化が民衆の「麻痺」の一転機となることをライヒ保安本部第III局の秘密民情報告をもとに解明し、ドイツ人民衆、占領地一般民衆の統合のための抜本的措置を第三帝国指導部に突きつけたことを明らかにする。 ドイツ人民衆が不安感にみたされながらも非統合状態にいたらず、占領下のポーランド人やロシア人の一般民衆の苦境が一挙に深刻化しないための隠された食糧供給源、治安維持要因として、「ユダヤ人問題最終解決」への道があったことをみる。また、それは、対ソ前線への新たな大攻勢のために、死活的重要性を持つ前線への交通の結節点であり重要拠点だった総督府の治安秩序を維持することと内的に関連していたことを明らかにする。 しかし、そのような1942年の全面的な総攻撃のための努力も、ソ連軍の反撃によって、とりわけスターリングラードの敗北に象徴される軍事的敗北によって、無に帰した。その窮地においては、支配下民衆全体の統合の武器とした反ユダヤ主義とユダヤ人虐殺では済まなくなった。支配下民衆のもっと広範な層を犠牲にせざるを得なくなってくる。 6章は、ドイツ民族至上主義の論理と行動が、この段階において仮借なく一般のポーランド人、一般のロシア人の虐殺へと進む事態を解明する。ナチズムの問題をユダヤ人問題に一面化する議論の問題性は、ここからも歴然となる。 ソ連赤軍による第三帝国の占領からの解放は、ウクライナ、白ロシア、バルト諸国、そしてポーランドの人々にとって、第三帝国の苛烈な危機転嫁策から解放されることを意味した。しかし、その解放がソ連赤軍の武力によってしかなし得なかったこと、あるいはそれが解放の主たる要因であったことは、あらたな負担を大戦終結後にもたらすこととなった。 平和の半世紀と主要列強の帝国主義的覇権主義の克服の総体的過程とが、ソ連の東欧支配を形骸化し、ソ連体制の崩壊をもたらした。塹壕の社会化、社会の塹壕化としてのソ連体制、前線社会主義の全社会化としてのソ連社会主義は、世界大戦の危機の希釈化、世界の主要列強における反帝国主義の潮流の民衆的レベルにいたる強靭化なくしては、根底からは形骸化し得なかった。このことが、第二次大戦の占領政策の分析、その悲惨の連鎖の解明を通して、間接的ながら、浮かび上がってくる結論である。 ところで、本論文の主たる実証範囲は1942年までであり、1943年以降1945年にいたる占領政策の展開とそこでの民族主義的論理の展開は、未解明のままである。この段階におけるドイツ人民衆の意識状況、末期にいたるにしたがって反抗的な雰囲気と反ドイツ的行動の諸形態が広がる外国人労働者の状態、それらと、末期段階においてもなお総力戦遂行にかけるドイツ第三帝国機関の必死の戦争努力とのダイナミズムの解明は、今後の課題である。そこでは、戦後を見通した経済界や「7月20日」のヒトラー暗殺計画に結集したような潮流の戦後構想も、解明されなければならない。本論文は、これら次の課題への問題提起をも意味する。 |