学位論文要旨



No 212513
著者(漢字) 阿部,秀樹
著者(英字)
著者(カナ) アベ,ヒデキ
標題(和) 膵臓移植による末梢性高インスリン血症モデルの作成と大動脈壁に及ぼす影響に関する検討
標題(洋)
報告番号 212513
報告番号 乙12513
学位授与日 1995.10.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12513号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 矢崎,義雄
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 渡辺,毅
 東京大学 助教授 山田,信博
 東京大学 助教授 長尾,桓
内容要旨

 糖尿病患者の死亡原因のうち現在増加しているのは、虚血性心疾患・脳血管障害を中心とする粥状動脈硬化症性血管障害である。この粥状動脈硬化症の発症・進展は、糖尿病の罹病期間や重症度、血糖コントロールの状態との間に、細小血管症ほどには相関がみられないことが明らかになりつつあり、血中インスリン値が糖尿病性粥状動脈硬化症の危険因子のひとつである可能性が指摘されている。

 内因性高インスリン血症者は、糖尿病患者のうち肥満や軽度耐糖能障害を示すnon-insulin dependent diabetes mellitus(以下 NIDDM)患者・NIDDM発症前のimpaired glucose tolerance(以下IGT)者・肥満者の中に多くみとめられる。そしてこれら患者の一部に、"SyndoromeX"や"Deadly Quartet"と呼ばれる症候群の、粥状動脈硬化症を招来し易い病態がみられると考えられる。

 一方インスリン製剤により治療中のinsulin dependent diabetes mellitus(以下IDDM)患者やNIDDM患者の多くに、外因性末梢性高インスリン血症のみられることが指摘されている。またIDDMにおける最良の治療方法として最近海外では定着しつつある膵臓移植は、術後患者に移植片静脈血の体循環系潅流に伴う末梢性高インスリン血症がみとめられ、移植後後期合併症との関連が注目されている。

 今回われわれは、末梢性高インスリン血症が糖・脂質代謝及び大動脈壁に及ぼす影響について検討する目的で、正常ラットに移植片静脈血が体循環系に潅流する方法で正常膵を移植し、分泌に調節性を有する内因性・末梢性高インスリン血症モデルを作成した。このモデルでは末梢性高インスリン血症の大動脈壁に及ぼす影響を、粥状動脈硬化症の他の危険因子による影響を除外して検討できると考えられる。また今回Wistar系ラット(WSラット)を用いる(移植群:P群、対照群:C群)と同時に、血管内皮への攻撃因子として高血圧症を有する自然発症高血圧ラット(SHRラット)を用いて同様のモデルを作成した(移植群:PS群、対照群:CS群)。このように膵臓移植を用いた高インスリン血症モデルの作成・検討は、これまで報告されたことはない。

 本研究では、まずモデルの確立を目的として移植後経時的に随時・空腹時・静注ブドウ糖負荷試験時の血中immunoreactive insulin(以下IRI)値の測定を行い、このモデルのインスリン分泌の特徴を明らかにした。これによると正常膵2個を有する移植群は、随時血中IRI値が対照群に比して2倍前後の高値となる高インスリン血症がみられた。インスリン感受性の指標であるIVGTTにおける Glu/IRI(t=0〜180)は、移植9ヶ月後の移植群が対照群のそれぞれ65%(P群)、44%(PS群)であり、インスリン感受性は低下していた(図1)。血糖値とその変動に関しては、移植群と対照群で著変なかった。

図1.WS移植後6ヶ月のIVGTTにおける|R|,血糖の変化.

 この高インスリン血症モデルを通常飼料で自由摂食させ、体重を経時的に測定したところ、移植群は対照群に比して各時期に有意差をもって増量がみられた。また血清脂質を経時的に測定したところ、移植群の血清総コレステロール値とトリグリセライド値は対照群に比して高値である傾向がみられず、血清脂質への高インスリン血症の影響は明らかではなかった。

 移植後9ヶ月間を経過したところで、末梢性高インスリン血症が大動脈壁に及ぼす影響について検討した。粥状動脈硬化症初期病変で主に内膜に沈着するとされるcholesterol ester(以下CE)量を大動脈において測定したところ、SHRラットを用いた移植群は、対照群に比して有意差をもって高値であった(PS群:3.69±1.40mg/g,CS群1.70±1.27mg/g,p=0.0317)。上行大動脈・下行大動脈の光顕所見では、病理学的に明かな粥状硬化病変はみとめなかった。

 また粥状動脈硬化症の独立した危険因子である血清total cholesterol(以下TC)値1mg/mlあたりの血管壁中のCE量は、SHRラット(PS群:7.32±2.77mg/g,CS群:2.96±2.16mg/g,p=0.0317)と同様にWSラット(P群:5.68±3.77mg/g,C群:1.95±1.03mg/g,p=0.0426)においても移植群が対照群に比して有意に高値であった。各個体の大動脈壁中のCE値と随時末梢血IRI平均値の相関を示すと、相関係数はR=0.610(p<0.002)であった。また血清TC値1 mg/mlあたりの大動脈壁CE値について同様に求めると、R=0.717(p<0.0001)であった。したがって大動脈壁中のコレステロールエステル値は随時末梢血IRI平均値と強い相関関係がみとめられた(図2)。これは大動脈壁中のCE値が血中インスリンの値によって規定されることを強く示唆するものである。

図表SHR移植後9ヶ月のIVGTTにおける|R|,血糖の変化. / 図2 大動脈壁含有コレステロールエステル量(mg/g dry weight.または mg/g dry weight/TC)と随時血中|R|平均値(pmol/ml)との相関を示す回帰直線.○:WS正常対照群(C) ●:WS全膵十二指腸移植群(P).△:SHR正常対照群(CS)、▲:SHR全膵十二指腸移植群(CS)

 次に全身代謝系を介さないインスリンの動脈壁への直接作用を検討する目的で、ウサギ培養平滑筋細胞にインスリンを添加したところ、細胞内CE量を規定する酵素のひとつであるneutral cholesterol ester hydrolase(以下NCEH)を濃度依存的に抑制した。

 したがってラット膵臓移植による高インスリン血症は、脂肪細胞においてhormone sensitive lipase(:HSL)活性を抑制して体重を増加させる一方、大動脈壁平滑筋細胞に直接作用してNCEH活性を抑制し、粥状動脈硬化症初期病変に特徴的であるCEの壁内沈着を引き起こしうることが示唆された。

 以上、膵臓移植による末梢性高インスリン血症モデルの作成・検討の結果、高インスリン血症は糖・脂質代謝に影響することなく、粥状動脈硬化症の発症・進展に影響を及ぼすことが明かとなった。

審査要旨

 本研究は、末梢性高インスリン血症が糖・脂質代謝及び大動脈壁組織に対し、直接・単独で及ぼす影響について明らかにする目的で行った。移植片静脈血が体循環系に潅流する方法で正常ラットに正常膵を移植し、これを分泌に調節性を有する内因性・末梢性高インスリン血症モデルとした。このモデルは、粥状動脈硬化症の他の危険因子による影響を排除したうえで、末梢性高インスリン血症の大動脈壁に及ぼす影響を検討できると考えられる。またWistar 系Wistar Shionogiラット(WSラット)を用いると同時に、血管内皮への攻撃因子として高血圧症を有する自然発症高血圧ラット(SHRラット)を用いて同様のモデルを作成・検討した。このような膵臓移植を用いた高インスリン血症モデルによる検討は、これまで報告されたことはなく全く新しいものである。このモデルを通常飼料で自由摂食させ、移植後9ヶ月間、末梢性高インスリン血症が糖・脂質代謝及び大動脈壁に及ぼす影響について検討した。今回の検討では、以下に示す結果を得ている。

 1.通常飼料・自由摂食にて飼育し、移植後経時的に随時(通常飼料・自由摂食時) 血中immunoreactive insulin(以下|R|)値を測定したところ、正常膵2個を有 する移植群は、随時血中|R|値が対照群と比べ2倍前後を示す末梢性高インスリン血症を認めた。

 2.IVGTT時糖負荷後早期の末梢血|R|値は、移植群が対照群に比べ有意に高値を示した。空腹時|R|値・空腹時血糖値・負荷た。インスリン感受性の指標であるGlu/|R|(t=0〜180)は、移植9ヶ月後の移植群が対照群のそれぞれ65%、44%の値であり、インスリン感受性は低下していた。

 3.体重を経時的に測定したところ、移植群は対照群に比べ各時期に有意差をもって増量がみられた。これはインスリンが脂肪細胞においてホルモン感受性リパーゼ(:HSL)活性を抑制することにより、中性脂肪が蓄積した結果と考えられる。血圧については有意差を認めなかった。

 4.血清脂質を経時的に測定したところ、移植群の血清総コレステロール値とトリグリセライド値は対照群に比して高値である傾向はみられず、血清脂質に対する高インスリン血症の影響は明らかではなかった。したがって血圧・血清脂質が示すとおり、高インスリン血症の背後でこのモデルに、強いインスリン抵抗性が存在することは考えられなかった。

 5. 移植後9ヶ月間を経過したところで、末梢性高インスリン血症が大動脈壁に及ぼす影響について検討した。粥状動脈硬化症初期の内膜に沈着するコレステロールエステル(以下CE)量は、SHRラットを用いた移植群が対照群に比して有意差をもって高値であった(3.69±1.40 mg/g vs 1.70±1.27 mg/g,p=0.0317)。また粥状動脈硬化症の独立した危険因子である血清総コレステロール(以下TC)値1mg/mlあたりの血管壁中のCE量は、SHRラット(7.32±2.77mg/g vs 2.96±2.16mg/g,p=0.0317)と同様にWSラット(5.68±3.77mg/g vs1.95±1.03mg/g,p=0.0426)においても、移植群が対照群に比べ有意に高値であった。

 6.上行大動脈・下行大動脈の光学顕微鏡的所見は、病理学的に明かな粥状硬化症病変はみとめなかった。わずかな内膜肥厚を認めたSHRラットにおいて内膜・中膜の厚さを測定したところ移植群・対照群に差を認めなかった。

 7.移植群、移植9ヵ月後の宿主膵・移植膵は、抗インスリン抗体染色を行ったところすべての個体においてそれぞれB細胞を認めた。

 8.各個体の大動脈壁中のCE値と随時|R|平均値の相関を示すと、相関係数はR= 0.610(p<0.002)であった。また血清TC値1 mg/mlあたりの壁中のCE値と 随時|R|平均値について求めるとR=0.717(p<0.0001)であった。したがって各個体における大動脈壁中のCE量は、随時血中|R|平均値との間に強い相関を示す関係があると考えられた。

 9.以上みられたようなインスリンの作用機序を明らかにする目的で、血管壁構成細胞としてウサギ培養平滑筋細胞を用いて、これにインスリンを添加した。すると平滑筋細胞細胞質内の酵素である中性コレステロールエステラーゼ(:NCEH)に、インスリンによる濃度依存的な抑制が認められ、血管壁における全身代謝系を介さないインスリンの直接作用が示された。

 以上本論文は、膵臓移植により末梢性高インスリン血症モデルを作成し、まずこれを実験モデルとして評価した。次にこの高インスリン血症が脂肪細胞においてHSL活性を抑制、体重を増加させ、一方インスリンが大動脈壁平滑筋細胞に直接作用してNCEH活性を抑制、粥状動脈硬化症初期病変に特徴的であるCEの壁内沈着を引き起こすことを明らかにした。

 本研究はこれまでの検討では全く見られなかった膵臓移植を用いる動物実験により、インスリンの影響が可及的単独で検討されている。本論文は、粥状動脈硬化症の発症・進展において、高インスリン血症が単独で影響を及ぼす可能性を示しており、さらにインスリンによる粥状動脈硬化症への新しい作用機序も示している。したがって学位の授与に値するものと考えられる。

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