悪性腫瘍は、体細胞の無制限な過剰分裂を特徴とした疾患であるが、この悪性腫瘍の致死率を決定する最も大きな因子は、腫瘍の発生した部位から離れた器官への病巣の広がり、つまり癌の転移である。転移性癌細胞は臓器、リンパ管あるいは血管内外への浸潤能を有していること、すなわち異常な運動能、接着性、さらに細胞外基質の破壊能などの性質を備えていることを特徴としている。細胞外基質の破壊には多くの種類の細胞外プロテアーゼやグリコシダーゼ等の分解酵素がが関与しており、癌細胞自身の産生する分解酵素だけでなく宿主細胞の産生する酵素も関与していることが明らかとなってきている。 様々な生体反応には多くの種類のプロテアーゼが関わっているが、それらに対する阻害剤も数多く見い出されている。その中の幾つかは、すでに臨床で治療薬として使用されている。さらに、プロテアーゼ阻害剤のなかには動物モデルで癌転移を抑制することが報告され、癌の転移の予防や治療への有効性が期待されるものもある。 ベスタチンはstreptomyces olivoreticuliの培養上清より発見されたアミノペプチダーゼNおよびアミノペプチダーゼBの阻害剤である。この阻害剤は免疫調節作用を有しており、宿主介在性の抗悪性腫瘍剤としてすでに臨床で用いられている。このベスタチンがマウスP388白血病細胞株のリンパ節転移を抑制することが鶴尾らによって示されており、またTalmadgeらはB16-BL6 melanomaの自然転移および実験転移に対しベスタチンの高用量が著明な治療効果を示すことを報告している。これらの効果は主に宿主の免疫応答の増幅を介した作用機序によると考えられてきた。 本研究ではベスタチンの酵素阻害作用に着目し、アミノペプチダーゼ阻害剤が浸潤抑制作用を示すことから、転移性癌細胞の膜貫通型プロテイナーゼであるアミノペプチダーゼNが浸潤と転移に重要な役割を果たしていることを明らかにした。 実験結果 癌細胞の浸潤は細胞外基質への接着、移動あるいは細胞外基質の分解などの複雑な過程を経て成立する。 2種類の転移性癌細胞B16-BL6メラノーマ及び3LL肺癌用いて基底膜マトリジェルへの浸潤に及ぼすベスタチンの影響を調べた。浸潤能の測定は孔経8オmのポリカーボネートフィルターを境にして上下に区画されたトランスウエルチャンバーのフィルターの下部面をファイブロネクチンまたはラミニンで、上部面を再構成基底膜(マトリジェル)でコートし、このトランスウエルチャンバーの上室にB16-BL6あるいは3LLを0.5〜100オg/mlの濃度のベスタチンとともに加えて37℃で8時間培養した。マトリジェル/ラミニンをコートしたフィルターへの2種類の細胞の浸潤は、共存させたべスタチンの濃度に依存して阻害された。同様に、ペスタチンはマトリジェル/フィブロネクチンをコートしたフィルターへの浸潤も阻害した。この癌細胞の浸潤に対するペプスタチン(酸性プロテイナーゼ阻害剤)、ロイペプチン(セリン、システインプロテイナーゼ阻害剤)、SBTI(セリンプロテイナーゼ阻害剤)及び 1,10-フェナンスロリン(メタロプロテイナーゼ阻害剤)の作用を調べた。ベスタチンと1,10-フェナンスロリンはマトリジェル/ラミニンをコートしたフィルターへの浸潤を有意に阻害した。SBTIは3LLの浸潤を抑制したが、ペプスタチン、ロイペプチンには抑制作用が認められなかった。またこれらの阻害剤は接触移動能に影響を与えなかった。これらの結果より癌細胞の浸潤にアミノペプチダーゼが関与しているものと考えられた。 ヒト線維肉腫株HT-1080を用い、特異性の異なるアミノペプチダーゼ阻害剤の浸潤に及ぼす作用を調べた。アミノペプチダーゼNに対し阻害活性を有する阻害剤ベスタチン、ロイヒスチン、マトリスタチンに浸潤抑制作用が認められた。また、血管内皮細胞が産生する細胞外基質のヒト線維肉腫株HT-1080による分解をこれらの阻害剤は抑制した。しかしアミノペプチダーゼBに特異性の高いアルファメニンBには阻害作用が認められなかった。これらの結果からアミノペプチダーゼNが浸潤に関与している可能性が示唆される。 ベスタチンはアミノペプチダーゼN及びBの阻害剤であり、アミノペプチダーゼNは細胞表面抗原のCD13であることが報告されているので、アミノペプチダーゼNが癌細胞の浸潤に関与しているかどうかを抗CD13抗体を用いて調べた。まず、ヒト腎臓癌 SN12M、線維肉腫HT1080,メラノーマA375Mのアラニンアミノペプチダーゼ活性に及ぼす抗CD13抗体の影響を調べた。 WM-15モノクロナール抗体は0.1〜10オg/mlの濃度で濃度依存的にAla-MCAの加水分解活性を阻害したが、別の抗CD13抗体MCS-2は、アミノペプチダーゼ活性に影響をおよぼさなかった。この二つの抗体はアミノペプチダーゼNの異なるエピトープを認識しているためと考えられる。次にこれらの抗体が癌細胞の浸潤に及ぼす影響を前述のトランスウェルチャンバーを用いて調べた。 SN12C腎臓癌、線維肉腫HT1080,、メラノーマA375Mのマトリジェル/ラミニンあるいはマトリジェル/フィプロネクチンをコートしたフィルターへの浸潤はWM-15モノクローナル抗体によって有意に抑制された。一方、アミノペプチダーゼN活性を抑制しない抗CD13抗体(MCS-2,MY7)やCD13抗原とは反応しないコントロールのモノクローナル抗体84H10などでは高濃度にしても影響は認められなかった。免疫電顕により細胞のアミノペプチダーゼNの分布を観察すると、特に癌細胞膜表面のマトリジェルへの浸潤を起こしている部分に多の存在が認められた。 アミノペプチダーゼNが浸潤のどの段階に関与しているのかを詳細に調べるために、SN12M腎臓癌細胞の運動能、細胞外基質への接着能、分解能に及ぼすWM-15抗体の影響をしらべた。WM-15モノクロナール抗体はSN12M腎臓癌のマトリジェル、フィブロネクチン、ラミニンへの接着および接触走化性に対し影響がなかった。 マトリックスメタロプロテイナーゼによるtype IV collagen分解が癌細胞の浸潤や転移に重要な役割を果たしていることが報告されている。そこでSN12Mによるtype IV collagenの分解に及ぼすWM-15モノクロナール抗体の作用を調べた。WM-15モノクロナール抗体は、癌細胞によるtype IV collagenの分解を濃度に依存して抑制した。しかし、アミノペプチダーゼNと無関係なモノクロナール抗体ではこの分解は抑制されなかった。これらの結果はアミノペプチダーゼNが癌細胞の運動や接着能に関係しているのではなくtype IV collagenなどの細胞外基質の分解能に影響しているためであることを示している。 アミノペプチダーゼNが浸潤および癌の転移にかかわっていることを直接的に立証するために、A375Mメラノーマ細胞にアミノペプチダーゼNの遺伝子を導入して多量発現させ、浸潤能、転移能などの形質の変化を調べた。アミノペプチダーゼNの遺伝子導入によってAla-MCA,Arg-MCAなどの合成基質の分解の増強がみられた。さらに蛍光抗体で染色し、フローサイトメーターでその発現の増強を確認した。アミノペプチダーゼNの高発現細胞は、浸潤能及びtype IV collagen分解能の顕著な増強が見られたが、運動能及びラミニンやファイブロネクチンに対する接着能には変化が認められなかった。さらに、ヌードマウスを用いた実験的肺転移モデルにおいて肺転移結節数の顕著な増加が認められた。これらのことは、癌細胞のアミノペプチダーゼNが癌の浸潤、転移に重要な働きをしていることを示している。 結論 アミノペプチダーゼNが癌細胞のマトリックスタンパクの分解、浸潤および転移に関与していることをアミノペプチダーゼ阻害剤、抗アミノペプチダーゼN/CD13抗体およびアミノペプチダーゼN/CD13遺伝子の導入により明らかにした。現在までに、マトリックスメタロプロテイナーゼをなど分泌型のプロテイナーゼが細胞外基質を分解し癌の浸潤転移に関与していることが報告されてい石が、本研究により膜結合型のアミノペプチダーゼNが、癌転移の浸潤に際し局所で働く重要なプロテアーゼであることが明らかとなった。 |