本論文では、動物細胞における変異株を用いた転写調節因子クローニング法の確立に寄与するために、抗体遺伝子(鎖遺伝子)を例に取り上げ、その転写調節因子変異株等の、遺伝子発現調節機構における変異株の取得系に関して検討を行った。 第1章(序論) 動物細胞における遺伝子の転写には、転写蛋白であるRNAポリメラーゼと、その活性発現に必要とされる蛋白である転写基本因子に加えて、転写活性を調節する転写調節因子(転写因子)という蛋白が関与する。遺伝子の転写調節機構を解明するには、これらの転写因子のクローニング、つまりその遺伝子の単離が不可欠である。転写因子は、基礎研究にとどまらず、動物細胞の蛋白生産性を亢進させる手段としても利用が期待され、医学的にも最近、転写因子を標的とする医薬の開発が注目されている。最近、蛋白精製を介さない転写因子クローニングの重要性が指摘されており、転写因子の変異細胞株は、遺伝子発現調節機構の解明および転写因子の遺伝子クローニングのための有力な手段となり得る。変異株を用いた遺伝子クローニング法では、変異株に遺伝子導入した時に、変異を復帰する遺伝子を目的遺伝子として、原理的にあらゆる遺伝子の単離が可能である。しかし、動物細胞は2倍体であることにより変異株取得が困難なため、転写因子クローニングのために変異株を用いたという研究はこれまでになく、動物細胞における転写因子変異株取得法の開発が課題となっていた。転写因子変異株は、転写調節される遺伝子の発現のない細胞として選択される。しかし、選択された細胞の中には、転写調節される遺伝子に変異を持つためその発現がない細胞も相当含まれる。選択された細胞を1つ1つ解析する必要なく、選択された細胞が全て目的とする転写因子変異株であるような変異株取得系が理想的である。鎖遺伝子をモデルとした理由の1つは、鎖遺伝子がクローニングされており、研究材料として簡単に用いることができる上に、抗体遺伝子は、動物細胞の遺伝子の中でも、転写機構に関する研究が比較的進んでいるためである。 本論文では、第2章において山田らが取得した抗体分泌異常変異株について解析し、第4章から第6章にかけて新たな抗体鎖遺伝子転写因子変異株取得系の構築に関して検討を行った。なお、第3章は転写活性を測定するための新たなレポーター遺伝子の開発に関するものである。 第2章 東京大学工学部旧西村研究室の山田らが取得した抗体分泌異常変異株の中に、抗体鎖遺伝子転写因子変異株があるかどうかを調べた。山田らは、抗体遺伝子発現調節機構における変異株を取得するために、抗体L鎖を産生するミエローマ細胞株J558Lに、突然変異誘発後、分泌型抗NP(nitrop henacetyl-hapten)抗体鎖遺伝子プラスミドpSV-V1の導入操作を行い、このように処理した細胞から抗体分泌異常変異株を選択、濃縮した。その選択法は、細胞膜に抗原NPを結合させて補体を作用させることにより、正常抗体分泌細胞を死滅させるという方法である。この変異株取得系では、抗体鎖遺伝子は変異処理を受けていないため、得られる抗体分泌異常変異株は抗体L鎖あるいは抗体遺伝子発現調節機構に変異を有すると考えられた。しかし、山田らが取得した変異株を、ノーザンアッセイ、CAT(chloramphenicol acetyltransferase)アッセイおよび鎖遺伝子再導入実験により解析した結果、これらは抗体遺伝子発現調節機構には変異を持たないということが判明した。そこで、L鎖変異や抗原結合性の変異を考慮する必要のない鎖非発現変異株取得系の構築が課題と思われた。 第3章 遺伝子導入効率をモニターすることにより、遺伝子転写活性測定法であるCATアッセイを定量化するためのレポーター遺伝子として、同研究室の喜多山らがPseudomonas aeruginosaよりクローニングしたcatechol 2,3-dioxygenase(C23O)遺伝子が有効かどうかを検討した。その結果、C23O遺伝子はレポーター遺伝子として既存の-galactosidase遺伝子より優れていることがわかり、C23O遺伝子をレポーター遺伝子として活用する技術の開発に成功した。 第4章 鎖遺伝子転写因子変異株を含む鎖非発現変異株を山田らの系より効率的に取得するために、膜鎖発現細胞株を材料に膜鎖非発現変異株を取得する系を構築した。鎖遺伝子のC末端領域をEGFR(epidermal growth factor receptor)の細胞膜貫通領域に換え、CH1(heavy chain constant region 1)領域を削除することにより、この遺伝子を抗体非産生ミエローマ細胞株X63.653に導入した時に、細胞膜表面に単独で鎖を発現させる(m)ことに成功した。また、膜鎖発現(m+)細胞を特異的に死滅させ、膜鎖非発現変異株を選択するために、毒素ricin A結合抗鎖抗体を用いる方法を適用した。実際に、m+細胞を突然変異誘発剤で処理し、m-変異株を選択した。その結果、得られたm-変異株は、m-/+、m-/s、m-/-の3つの表現型に分類できた。鎖遺伝子転写因子変異株を含むと思われるm-/-変異株の選択割合は約50%であり、転写因子変異株の効率的取得のためには、さらにm-/-変異株の選択割合を高める必要がある。一方、m-/+、m-/s、の表現型を示す変異株は、抗体の構造変異による発現異常と考えられ、抗体の構造とその輸送機構の関係等を調べるのに有効な材料となり得る。 第5章 第4章で構築した系において得られるようなm-変異株の中で、転写因子変異株の頻度を高くするには、転写因子により転写調節される鎖遺伝子に変異を有する株を排除して変異株選択する必要がある。そのためには、変異株選択の材料となる細胞株において、転写調節される遺伝子の数を増やすことが、これらの遺伝子の変異が現れる可能性を小さくするため有効である。鎖遺伝子自体の数を増やすことは簡単でないため、鎖エンハンサーに着目し、これを2コピーにするために、レポーターEco-GPT(E.coli guanine phosphoribosyltransferase)遺伝子を活用した。すなわち、鎖遺伝子に加え、鎖エンハンサーを転写調節配列とするEco-GPT遺伝子発現ユニット(E gpt)を有し、mとEco-GPTを発現させた細胞株からm-/GPT-2重変異株を選択する系を構築した。HGPRT(hypoxanthine guanine phosphoribosyltransferase)ネガティブ細胞株であるX63.653を親株として用いることにより、Eco-GPT発現細胞を、Eco-GPTの基質となり得る核酸アナログ6-thioguanineを用いて特異的に死滅させることが可能となった。実際に、この系によりいくつかのm-/GPT-2重変異株を選択した結果、変異株選択率(≡変異処理した細胞クローン数に対する選択された変異株数比)が第4章の系より低く、転写調節される遺伝子に変異を有する細胞がある程度排除されたことが推定された。 第6章 転写調節される遺伝子に変異を有する細胞の排除効率を第5章よりさらに高くして変異株を選択するために、Egptをdhfr(dehydrofolate reductase)ベクターを用いて多コピー化した細胞株を材料に、GPT変異株を選択する系の構築を検討した。MTX(methotrex ate)選択圧をかけない段階で数コピーのEgptを有するEco-GPT発現細胞株が得られた。実際に、この系によりいくつかのGPT-変異株を選択した結果、変異株選択率が第5章の系よりさらに低く、期待通りEgptに変異を有する細胞がかなり排除されたことを示している。 第7章(総括) 以上をまとめると、本研究で新たに構築した変異株取得系では、第4章、第5章、第6章と変異株選択率が低下し、これは転写調節される遺伝子に変異を有する株の排除効率が高まったためであると思われ、変異株取得の材料となる細胞株における転写調節される遺伝子の多重化が、効率的転写因子変異株取得のために重要であることを示した。また、レポーターEco-GPT遺伝子を活用した変異株取得法はより一般化可能であるため、第6章の系が、動物細胞における転写因子変異株取得系のモデル系として活用されることが期待できる。また、抗体の輸送機構の解析に役立つような変異株の取得にとって、第4章の系が有効であることがわかり、そこで開発された抗体の膜発現技術は、抗体のスクリーニング等の他の目的にも応用可能である。 このように、本論文では、抗体遺伝子を例として、動物細胞における転写因子変異株を効率的に取得するのに有効な戦略、技術を系統的に検討し、その展望を示すことができた。 |