「自敬表現」は、話手が自分の動作や自分に関する物事を尊敬語によって表現し、聞手や第三者の話手に対する行為を謙譲語によって表現する敬語表現である。これは話手が自分自身を聞手や第三者よりも上位に位置づけた「話者上位顕示敬語表現」とも言うべき表現である。従来「自敬表現」は、古事記、万葉集、宣命などの神や天皇の発言中に見られる古代敬語特有のものとされてきた。しかし、こうした「自敬表現」は、天皇等の実際の発言にはなく、文章化される際に記載者の敬意が加えられて敬語表現化されたものだとする否定説もあった(尾崎知光、三矢重松など)。 本論文は、「自敬表現」が天皇自ら用いたものか、文章化の際に付加されたものか、古代特有のものか、その表現の実相を明かにするために、古代から近代に至る文献を博捜し、考究した結果、古代に限らず、中世、近世、近代に至るまで、それぞれの時代の社会的最高権威としての神(古代の神話)や天皇、また政治的最高権力者であった摂政・関白、室町幕府・江戸幕府の将軍等が「自敬表現」を用いていた事実を明かにした。「自敬表現」は古代から近代に至るまでいわば「王者のことば」として社会の支配者の最高権威、最高権力の言語的顕示として用いられた。本論文は、この実相を歴史的に論述した「『自敬表現』の歴史的研究」を本論とし、中世以降現代に至る「『自敬表現』研究史」を付説とする。 「『自敬表現』の歴史的研究」は、序章から終章に至る二十二章から成る。 序章 序論として、「自敬表現」の規定、研究上の問題点を述べ、敬語を礼節の言語的表現として見ること、研究の対象を従来のように口頭語中心ではなく、文章語にも向け、天皇や貴族の日記、公私の文書、武家文書等にも「自敬表現」の探索を行い、その史的展開を明かにする必要があることを提言した。 第二章 敬語の史的展開 -絶対敬語から相対敬語へ- 日本語の敬語の歴史的展開の流れを金田一京助に従って絶対敬語から相対敬語へと把え、その史的様相を述べた。古代の「自敬表現」は絶対敬語の現れとした。 第三章 古事記会話文の敬語表現と「自敬表現] 古事記の会話文の敬語表現中の「自敬表現」を調べると、伊耶那岐命、天照大御神から雄略天皇、倭建命に至るまで大和朝廷の祖神と天皇一族に限って用いられている。これは編者太安万侶が皇統の尊厳性を示すために意図的に会話文の表現を整備したものと考えられる。 第四章 記紀歌謡の「自敬表現」 従来定説化されている土橋寛、小島憲之の「人称転換説」を言語伝達・受容の視点から再検討し、記紀歌謡に「自敬表現」と認むべきもののあることを主張した。 第五章 風土記の「自敬表現」 全用例を検討すると、風土記には古事記よりも古いかと思われる「自敬表現」の姿が伺えることを示した。 第六章 万葉集御製歌と「自敬表現」 1945年の敗戦以前は注釈の全てが御製歌の「自敬表現」は"国体と天皇の尊厳の現れ"と説き、敗戦後は「自敬表現」の御製歌は"代作歌の証拠"と説いた。確実な御製歌の「自敬表現」の例は聖武、孝謙二帝であることから、中国式専制皇帝として君臨した両帝の「自敬表現」はその絶対的地位、権威を言語的に示す表現であるとした。 第七章 宣命の文章構造と敬語表現 宣命は宣命使による天皇の詞(ことば)の伝言的表現であるか、宣命使の宣制詞と天皇の直接の詞(ことば)から成るかという問題がある。称徳天皇の口勅、聖武天皇に尊敬表現を用いない宣命、内裏式、新儀式によって、天皇の詞(ことば)を宣命使が復唱するのが基本構造で、「自敬表現」も天皇の詞(ことば)として発せられたものであることを明かにした。 第八章 公事における天皇のことば 内裏式、新儀式、建武年中行事により、公事における天皇の発言の雛型に「自敬表現」が定められていることを示した。 第九章 訓点資料の「自敬表現」 訓点資料では仏や王の発言に原典にない「自敬表現」が付されている。これは「自敬表現」が「王者のことば」として社会的コードになっていたために訓読として付けられたとする新解釈を提示した。 第十章 『宇多天皇御記』『醍醐天皇御記』の「自敬表現」 抄録転写本であるが、宇多、醍醐両天皇の日記に「自敬表現」が認められることを示した。 第十一章 源氏物語における天皇のことばと「自敬表現」 「自敬表現」は天皇や院の日常会話には用いられていないが、公的な立場での発言と伝達者による仰言には用いられていることを示した。 第十二章 平安時代の物語、仮名日記等における「自敬表現」の用例 主要な用例は尾崎知光、小松正によって既に示されている。その全用例を掲げて、解釈上の誤りや問題点を指摘し、新たな用例を加えた。 第十三章 平家物語における敬語表現の様相 敬語と人物の関係という視点から地の文と会話の文における敬語表現の様相を述べ、次章の考察の前提きして敬語的環境を示した。 第十四章 平家物語の「自敬表現」の性格 平家物語の天皇・法皇等の「自敬表現」を同時代の慈円の『愚管抄』と『源家長日記』の天皇の詞(ことば)と比較検討すると、『平家物語』の「自敬表現」は伝奏等によって公にされる仰言のスタイルを模したものと言えるとした。 第十五章 後鳥羽上皇消息、『後深草天皇御記』の「自敬表現」 『鎌倉遺文』所収後鳥羽上皇自筆消息四通の「自敬表現」は奉書形式の消息の案文を上皇自ら書したものである。『後深草天皇御記』には「自敬表現」が見られることを示した。 第十六章 「伏見天皇宸記」の敬語表現 現存最古の天皇自筆日記である「伏見天皇宸記」について対人関係(対上皇、対三后・女院・皇太子、対臣下等)から敬語表現を分析し、摂関以下の臣下に対して「自敬表現」が用いられていることを明かにした。天皇の「自敬表現」使用が確実に証明された。 第十七章 「花園天皇宸記」の敬語表現 天皇自筆日記の敬語表現の全例を調査し、天皇の「自敬表現」は第一人称尊敬表現を用いることは少いが、臣下の天皇に対する行為は常に第二人称・第三人称謙譲表現によって記されていることを明かにした。 第十八章 「後奈良天皇宸記」の敬語表現 天皇は自筆日記に「自関白鴈一折給之」と記し「給之」を「被進」と訂正している。天皇に「自敬表現」意識・天皇語コードのあったことは明白である。 第十九章 ロドリゲス『日本大文典』の「自敬表現」記述とその背景 ロドリゲスがその文典に詳細な敬語説明をし、「自敬表現」のあることを注意した16、17世紀の政治的社会的状況と「関白」と「公方」の文書について調査した。その結果、室町幕府の将軍(公方)は直書形式の「御内書」に「自敬表現」を用いたことを初めて明かにした。関白豊臣秀吉と豊臣秀次は「朱印状」に「自敬表現」を用い、江戸幕府の将軍徳川家康、徳川秀忠も「御内書」に「自敬表現」を用いた。ともに室町幕府将軍の方式を踏襲したものであるが、時の最高権力者が「王者のことば」(コリャード『日本文典』)として用いたものであることを明かにした。 第二十章 豊臣秀吉文書の「自敬表現」 秀吉の地位の昇進とその文書の敬語表現との関係を調査し、関白就任後二ヶ月目以降に「自敬表現」を用い始め、天下統一が進むにつれて「朱印状」の「自敬表現」が多くなり、家族宛の自筆仮名書状に用いるまでに「自敬表現」を好み、関白・太閤の権威を誇示した実相を明かにした。 第二十一章 徳川家康・徳川秀忠文書の「自敬表現」 家康、秀忠文書の「自敬表現」全用例を掲げて考察した。家康は大納言になると自領向け文書に「自敬表現」を用い、秀忠は将軍就任後に用いている。なお、ロドリゲスのいう「渡航兔許状」の「自敬表現」は探索したが実例は見出せなかった。 終章 古代的「自敬表現」の終焉 徳川家光以後の江戸幕府将軍は礼状として形式化した「御内書」に「自敬表現」を用い続けた。代々の天皇は宣命に「自敬表現」を用いていたが、明治6年に宣命の制は廃止された。天皇の「自敬表現」は勅使の「祭文」等になお見られたが、1945年の敗戦によって国民の前から姿を消した。 付説「『自敬表現』研究史」は、以下の五章より成る。 第一章 「自敬表現」研究史の時代区分 研究史上の指標となる本居宣長、明治維新、1945年(昭和20年)の敗戦によって時代区分を行い、第一期中世・近世(本居宣長以前)、第二期近世(本居宣長以後)、第三期近代(明治・大正・昭和20年まで)、第四期現代(1945年以後)とした。 第二章 第一期 仙覚以降賀茂真淵まで「自敬表現」は注意されなかった。17世紀のロドリゲス、コリャードの説明は近代まで日本人には知られなかった。 第三章 第二期 本居宣長が初めて「自敬表現」に注意し、神や天皇の実際の詞(ことば)とした。鹿持雅澄は更に国体・皇統の神聖・尊厳を示すものと説いた。 第四章 第三期 「自敬表現」研究は昭和になって本格化し、湯澤幸吉郎、松尾捨治郎、金田一京助等が出るが、思想的には国体論的な「自敬表現」解釈が主流であった。 第五章 第四期 敗戦後、尾崎知光の「自敬表現」否定説が大きな反響を呼ぶが、やがて辻村敏樹等の肯定説が定説化した。「自敬表現」の史的解明は、遅れていたが、西田の資料探索活動によってようやくその全体像が明かになってきた。 |