内容要旨 | | インド中世の宗教思想を解明する有力な手がかりの一つに,ヴィシュメ教諸派に属するパーンチャラートラ派がある。この派は最高神ヴィシュヌを種々の形態で崇拝するばかりではなく,そこには多くのタントラ的要素を含んでおり,この派の解明はとりもなおさずヒンドゥータントリズムの哲学思想や儀礼の特徴を知ることにほかならない。従来インドの宗教に関する研究は,ヴェーダ聖典や六派哲学といった正統的でしかも古代を中心とした文献の解明にその重点が置かれてきた。「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」といった叙事詩はともかくとして,ブラーナ文献は未だ完全に研究されたとは言い難く,ましてやタントラ文献はつい最近までインド学の分野では継子扱いされ,その批判的な研究はこの20年くらい前からやっと世界的に始まったばかりである。タントラ研究が遅れた理由は,左道派に代表されるような一見して非道徳的な実践徳目が西洋人学者の興味をひかなかったこと,内容自体にそのセクトに属する師でなければ到底理解できないような秘密の箇所が多くあったこと,さらに文献の批判的校訂出版が進んでいなかったことが挙げられよう。しかし最近この校訂出版も進み,Andre PadouxやJ.Gondaの門下生を中心にタントラ研究が盛んになってきた。ここで問題とするパーンチャラートラ派について言えば,Otto F.Schrader,Daniel Smith,Sanjukta Guptaがその嚆矢であると言って良かろう。 この派で「三宝」として尊重され,最もその成立が古いと考えられているテクストが,この論文で扱う『サートヴァタ・サンヒター』である。これは,最高神ナーラーヤナを,最高(Para)・ヴューハ(Vyuha)・ヴィバヴァ(Vibhava)という3種の形態で崇拝することを主たる内容とするものであるが,同時に先に述べたように多くのタントラ的要素を含んでいる。本論文は,このヴィシュヌ教の特色を中心とした前者と,タントラ的要素の後者の両面から総合的にこのテクストを考察し,インド中世の宗教思想の一端を紹介することを目的としたものである。またこのサンヒターを骨格としながらも,その他同派の聖典であるLaksmI-Tantra,Jayakhya-Samhita,Paramesvara-Samhita,Ahirbudhnya-Samhita等を随時参照し,この派における共通の概念とこのSattvata-Samhita独自の概念との異同を明確にした。さらにこの派とは異なるセクトである南インド聖典シヴァ派の祭式綱要書であるSomasambhu-paddhatiをかなり頻繁に参照した。この理由は,たとえ崇拝する神やマントラが異なっていようともタントラ的要素はさほど違わずに各セクトに取り入れられたのではないかという筆者自身の仮説に基づいて,両派,もっと厳密に言うならば両テクストの内容を比較検討することによって先の仮説の立証を試みようとしたことが第1であり,第2はなんと言ってもHelene Brunner-Lachauxによる仏訳とその詳細な訳注は大いに参考になるからである。 この論文の構成は第5章に分かれる。第1章は,ヒンドゥータントリズムとパーンチャラートラ派と題して,パーンチャラートラ派のインド中世宗教思想における位置,「パーンチャラートラ」の語義,パーンチャラートラ文献の中での『サートヴァタ・サンヒター』の位置,パーンチャラートラ,パーガヴァタ,サートヴァタの定義を第1節で考察し,第2節では,タントリズムの語義,タントラ的要素,タントラとヴェーダを骨子として,ヒンドゥータントリズムの内容を概観し,『サートヴァタ・サンヒター』の構成とその主たる内容を簡略に述べた。 第2章は,最高神の展開とマントラと題して,先ず最高神の展開と瞑想の対象としての姿を,4ヴューハ神とヴィシャーカユーパ(Visakhayupa)・各月の主としてのヴューハーンタラ神(Vyuhantara)・ヴィバヴァ神(Vibhava)に分けて述べ,次いで第2節ではこれらの神々を指示する手段であるマントラの性格と種類を,その性格と機能・マントラの抽出(mantroddhara)・マントラの構造分析・SSに説くマントラの具体例に分けて述べた。 第3章は最高神崇拝の種類と次第と題して,先ずタントリズムにおける崇拝の種類を第1節で挙げた。即ち,nitya-,naimittika-,kamya-pujaの種類,jnana-,yoga-,kriya-,carya-padaの種類,祭祀者の資格,最後に一日5回の義務時間(panca-kala)である。次いで第2節の毎日の儀礼では,瞑想による祭祀(antar-yaga)と実際の祭祀(bahiryaga)の2種類を詳述した。特に後者では,呼吸の制御(pranayama)・肉身の浄化(bhutasuddhi)・ニアーサ(nyasa)の祭祀の準備段階のグループ,実際の祭祀(瞑想による祭祀を含む)・火供(homa,vahni-samtarpana)の祭祀自体を示すグループ,祖霊祭(sraddha)・他の祭祀者への供応(kari-pradana)・過失の寛恕(aparadha-ksamapana)・神の見送り(visarjana)・Visvaksena神の供養・祭祀者自身の供養(atma-yaga,anuyaga)・マントラの瞑想と念誦(japa)・ニアーサの解除(nyasopasamhara)の祭祀終了儀礼のグループとに分けて述べた。 第4章はパーンチャラートラ派とプラーナ文献―4ヵ月間の供養(caturmasya-puja)と開眼供養(pratistha)を中心に―と題して,プラーナ文献とパーンチャラートラ派文献との比較をこの4ヵ月間の供養を中心として行った。これはヴィシュヌ神の眠りと目覚めの儀礼を骨格とするものであるが,プラーナに認められるこの供養は,実は王の沐浴やパーンチャラートラ派に認められる新しい神像を寺院に奉納する儀礼である開眼供養を主な資料としていることを証明した。 第5章は入門儀礼(dIksa)と灌頂儀礼(abhiseka)と題して,このテクストの中で最も大切であり,かつ最も難解である箇所の分析と考察を試みた。ある特定の集団への参加の為に不可欠である入門儀礼の種類と構造,さらにその集団内での地位の変化を伴う灌頂儀礼の内容と4種の弟子の定義,そして両儀礼の関係を解明した。先ず第1節の入門儀礼では,nrsimha-dIksaを中心として,一般的なdIksaの定義と種類・ナラシンハ(narasimha)-dIksaと6種の呪術行為(sat-karman)・narasimha-dIksaとsamaya-dIksaとの関係を論じ,次にはvibhava-dIksaを中心としたdIksaの基本構造を,前夜儀礼(adhivasa)と当日の儀礼に分けて述べた。前者は,儀礼に必要なものの準備,祭具・祭場・弟子・師自身の浄化,神の供養,祭火献供物の準備(havih-paka),弟子の浄化,紐の安置,牛の五種の産物(pancagavya)の摂取,楊子占い,夢占いの儀礼の順に行われる。一方後者は真夜中の儀礼と当日の儀礼に分かれるが,後者は弟子が見た夢の検証,不吉な夢の鎮静法,主要瓶にいる神の供養,師による弟子の浄化,紐による弟子の浄化,6つの元素浄化後の儀礼,6つの階梯の教授,供養方法の教授,弟子の頭へのアルガの灌水,祝祷という次第で行われる。さらにこれらの儀礼の中心的教理である6種の階梯(sad-adhvan)の内容を詳述した。最後の第3節では,灌頂儀礼と4種の弟子,さらに入門儀礼と灌頂儀礼との関係を考察した。 以上の内容を本論文の骨子とし,さらにこれを執筆する上での基礎的な研究としてこのSattvata-Samhitaの英訳を試みた。英訳に際しては,少し前に出版されたこのテクストの批判的校訂本に基づいたが,幸いなことにAlasinga Bhattaの注釈が付加されており大いに役だった。ただ英訳に際してはなるべく注釈より本偈の内容のほうに従うよう心がけ,両者の違いについてはかなり注意を払って列挙したつもりであるが,知らぬまに注釈に引きずられた点も多々あるのではないかと思われる。 |