学位論文要旨



No 212568
著者(漢字) 中村,雄祐
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ユウスケ
標題(和) 西スーダンにおける内婚世襲の語り部・楽師の制度、ジェリヤの歴史的変遷
標題(洋)
報告番号 212568
報告番号 乙12568
学位授与日 1995.11.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第12568号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 教授 山内,昌之
 東京外国語大学 教授 川田,順造
内容要旨

 西アフリカ内陸部の西スーダン(West Sudan)一帯は、乾燥気候を特徴とするサバンナ・サヘル地帯に属しているが、地域の中央部をアフリカ大陸有数の大河川ニジェール川が南西から北東方向に縦断しており、中央の低地部には広大な内陸デルタが広がっている.西スーダン一帯がこのような景観を呈するようになったのは、サハラ砂漠の乾燥化がほぼ停止した紀元前500年前後のこととされるが、古来この地域に主に居住してきたのは、「コンゴイド」、いわゆる黒人たちであった.彼らは厳しいながらも複雑多様な生態系を利用して雑穀農耕、牧畜、漁撈等の多様な生産活動を営み、さらに、紀元前後には鉄加工文化や独自の騎馬文化をも備えるようになっていた.そして、それらの技術・物質文化を主たる基盤として、広大な地域にまたがり、数多くの人、物を取り込んだ国家形成や交易活動が展開されてきた.そこでは国家と交易の関係は決して単純なものではなかったが、<奴隷狩〜奴隷使用〜奴隷交易>の連鎖過程を通じて相互に密接につながっており、しかも、それらの活動は、奴隷を主たる品目とする交易活動を通じて、8世紀以降はイスラム・アラブ世界、そして、15世紀以降はヨーロッパ世界、アメリカ大陸の動きとも連動するものであった.

 とりわけ、イスラム・アラブ世界はニジェール川上流部からもたらされる黄金に惹かれて西スーダンの黒人諸社会との間に活発な交易活動を展開した.そして、その刺激を受けて、後者には「ガーナ帝国」(8以前〜11世紀)、「マリ帝国」(13〜15世紀)、「ソンガイ帝国」(15〜16世紀)などの広域交易国家が繁栄するようになった.中でもマリ帝国は莫大な量の黄金を輸出し、皇帝自らがイスラム教に入信し、盛大にメッカ巡礼を行うなど、イスラム・アラブ世界、さらにはヨーロッパ世界にまでその名声を轟かせた.しかしながら、15世紀を境に、これらの広域交易国家群は衰退に向かう.そして、ちょうど同じ時期から、黒人アフリカ世界は大西洋奴隷交易という史上稀に見る苛酷な人的労働力の収奪、それに続く19世紀末の西ヨーロッパ列強による植民地化と、ヨーロッパ世界を中心とする近代世界システムへ破壊的に統合されていくこととなった.

 本論は、西スーダンにおいてマリ帝国の勃興とともに形成されたと推定される内婚世襲の語り部・楽師、「ジェリjeli」の制度、「ジェリャjeliya」の歴史的変遷を、文献資料、ならびに筆者自身のフィールドワーク(1988年より92年までのべ約2年間)に基づいて、1)奴隷制度を主たる基盤とする国家体制、2)コミュニケーション様式という、西スーダン諸社会の存立そのものに深くかかわる二つの領域の変遷に注目しつつ論じるものである.

 西スーダン諸社会の歴史を考察する際、最も注目すべきは、その技術・物質文化の「停滞性」である.というのも、地域自体が持つダイナミズム、外部世界との長期間にわたる接触にもかかわらず、西スーダンの技術・物質文化は、少なくとも紀元前後以降、ほとんど変化することなく続いてきたのである.そこでは、国家形成、交易活動のいずれの領域においても、技術・物質文化の革新よりも、人的労働力の確保が発展のための主要条件であり続け、人間を財として交換の対象とすることを特徴とする奴隷制度が発達していた.そして、こうした技術・物質文化の停滞性は、コミュニケーションの領域においても同様であった.イスラム・アラブ世界、ヨーロッパ世界との接触にもかかわらず、その重要な要素である文字文化が西スーダン諸社会に積極的に取り入れられることはフランスに植民地化される19世紀末までほとんどなかった.つまり、西スーダン諸社会は20世紀を迎えるまで、ほとんど「無文字社会」の状態にあったのである.

 ジェリヤはマリ帝国の勃興とともにその国家体制の一部として形成されたと推定されるが、帝国崩壊の後も、その社会制度を継承する西スーダン各地のマンデ系諸社会に存続してきた.例えば、マリ帝国の支配者集団、マリンケ人が17世紀以降ニジェール川上流部のマンデ地方一帯に分散して形成した小王国、カフは、マンサ(世襲王)を頂点として父系出自を主たる基準として<ホロン(自由民)/ニャマカラ(特殊職能民)/ジョン(奴隷)>から構成される「出自階層」的社会組織を特徴とする国家的社会であった ジェリは3つの出自階層の一つ、ニャマカラに属しており、その主たるつとめは、クマティギ(言葉の主)としてマンサやホロンのための仲介者役をつとめること、そして、ホロン・リニージの成員に向かって、古のマリ帝国以来の歴代の祖先のトゴ(名・名声)を声高く歌い上げること(=マトゴリ(名誉め))にあった.ジェリの名誉めに対して、ホロンは、自分がそのような名誉めを受けるに価する者であることを、ジェリに対する惜しみない財の給付によって示すものとされていた.つまり、ジェリャという制度は、出自階層的社会組織の上に口頭の対面的コミュニケーション様式によって成立する国家的社会においてその出自階層的国家体制の下位機構として機能していたのであり、とりわけ、名誉めは言葉を通じて国家体制を劇的に顕在化させる一種の国家儀礼となっていたのであった.

 しかしながら、このような状態は、19世紀末以来、西スーダン全域が「フランス領スーダン」として、同化主義、直接統治を基本方針とするフランスの植民地支配を受けることによって大きく変化することとなった.西スーダンでは古来、様々な国家的社会が興亡を繰り返してきたが、フランス領スーダンは、官僚機構に代表される文字コミュニケーションを必須の属性とする国家体制であるという点で、それまでの国家的社会とは異質なものであった.また、フランス領スーダンの植民地国家体制が確立される過程で各地の奴隷制度はほとんど解体させられることとなった.ただし、フランス領スーダンにおける文字文化の導入は、あくまでも効率的な植民地支配を目的とした、フランス語のみの使用、少数エリート教育を特徴とする、質、量ともに極めて限定されたものであり、住民の多くはフランス語とも文字とも縁遠い生活を送っていた.

 フランス領スーダンは1960年に国民国家「マリ共和国」として独立を果たした.公用語フランス語をはじめとしてその国家体制の主要な部分は植民地国家からの借り物ではあったが、マリ共和国政府は政治的独立に続く経済的自立、国民文化振興を目指して積極的なネイション・ビルディングに乗り出した.特に、そこでは教育が経済発展、国民文化育成の切り札として注目を浴び、国民皆教育を目標とする教育制度改革が実施され、その過程で少しずつながら「国民語langues nationales」と呼ばれる各地の土着語の文字化、普及にも関心が向けられるようになった.また、文字文化にもフランス語にも馴染みのない多くの住民の間に国民意識を熟成し、政府の政策をいち早く伝達するメディアとしてラジオ放送が導入され、国民語による放送が行なわれるようになった.

 しかしながら、性急なネイション・ビルディングは60年代半ばより破綻をきたした.その後、軍事クーデターによって政権交代があったものの、折あしく起こったサヘル地帯の干魃のダメージもあって、国営企業の倒産、村落部からの人口流出、都市のスラム化が起こり、それにともなって教育環境も悪化するなど、住民の生活は極めて厳しいものとなった.その結果として、20世紀末の現在もなお、住民の多くは植民地化以前とたいして違いのない「前近代的」な生業を営み、フランス語にせよ国民語にせよ、ほとんど読み書きができないという状態にある.

 筆者は1988年よりマリ共和国南西部のキタ地方てジェリヤを主題とするフィールドワークを行なった.キタ地方には、植民地化以前、マリ帝国支配者集団の末裔、マリンケ人によって、マンサ(世襲王)として出自階層的社会組織を持つ小王国、「キタ・カフ」がつくられていたが、筆者の滞在当時、そこにはかつての王国の存在を示す痕跡はほとんどなかった.また、住民の大半が読み書き技能を習得していないとはいえ、社会制度はもちろんのことキタ人の日常生活の多くの局面ももはや「無文字社会」とは大きく異なるものとなっていた.そのことはジェリヤについても同様であった.現在もなお、ジェリという父系出自を継承する人々は存在するが、彼らの多くはその出自とはほとんど無縁の生活を営んでいた.また、ジェリ出自継承者の一部にはニェナジェケラ(芸人)として著名な者もいたが、その演奏は対面的なパフォーマンスからラジオ放送や商業カセットなどの電子的メディアを積極的に用いたものへと徐々に重心を移しつつある.ただ、そのような状況にあって、キタ地方には、ひたすら自らの記憶によって口頭で歴史伝承を伝え続ける、ジェリの中でも特に「ンガラngara」と呼ばれる少数の老人男性が存在する.彼らは、植民地化以前の西スーダンにおいてはジェリヤという制度を通じて肉声が国家的社会をつくるための一つの装置たりえていたことを、その驚異的な記憶力、言葉の技芸によって身をもって示すことのできるおそらく最後の世代である.ジェリヤが置かれたこのような現状は、西スーダンから「完全なる無文字社会」なるものが、国家体制のみならず、住民の生活という次元においてもほとんど消滅しつつあることを示すものである.

審査要旨

 本論文『西スーダンにおける内婚世襲の語り部・楽師の制度、ジェリヤの歴史的変遷』は、西アフリカ内陸のマンデ系住民を中心に形成された内婚・世襲的な語り部・楽師の制度であるジェリヤの特質を、きわめて長い歴史的視野の中で、社会・政治組織とコミュニケーション手段の変化の中に位置づけて考察したものであり、自身による1988年から約2年間にわたるマリ共和国のキタ地方でおこなったフイールドワークに基づいたものである。

 本論文の研究対象であるジェリヤとは、西アフリカ内陸部のマンデ系社会において、かつては諸王国の王宮における儀礼の場において王の系譜の朗詠を世襲するとともに、自由民の英雄叙事詩の語り手でもあり、またリニージの名と出自に対する誉め歌をもおこなう特殊職能民(ジェリ)の制度である。技術の停滞に加えて文字の無かったこの社会においてジェリヤは、王権とリニージの正統性を保障する唯一の技能を専有することによって社会統合に欠かせない存在として、この社会の研究において中心的な位置づけがされてきたものである。またこうした歴史性、社会性、政治性に加えて、この社会でもっとも重視される音声に係わる文化においても、今日にいたるまで重要な位置を占めている。

 本文は、序と四部(全九章)と結論とからなる。その概要を示すと、第一部ではまず西スーダンにおけるイスラム・アラブ世界との接触以前の雑穀農耕文化、物質文化、異なる生態ゾーン間の交易活動の発展に焦点を合わせて概観した後、サハラ横断交易の進展とイスラム世界の拡大、そして西スーダンにおける広域交易国家ガーナ帝国の登場を、先行研究に基づいて跡づけている。次いで、13〜15世紀にこの全域に覇権を誇ったマリ帝国の成立とその交易活動、特に奴隷交易と国家体制との関連、イスラムの影響と交易都市文化とジェリアとの関連性を指摘している。

 第二部では、17〜19世紀の西スーダンについて、マンデ系住民の拡散にともなう自由民・特殊職能民・奴隷による三分社会構造の広がりと、大西洋における奴隷交易の影響の大きさ、その下に形成された「戦争国家」群の興亡に焦点をおいて、特にマリ帝国の消滅後に登場したカフと呼ばれる小王国群と強大なセグ-王国におけるジェリヤの在り方を論じている。自由民・特殊職能民・奴隷による三分社会構造については、それぞれの性格を丹念に検討した上で、ジェリヤが属する特殊職能民(ニャマカラ)の性格を、自由民と奴隷、および自由民どうしの間の仲介者としての属性と役割と、寄生的な性格にあることを明らかにし、また自由民と特殊職能民との間の関係を分析して庇護-依存関係を明らかにしている。とりわけジェリヤにおいては、言葉の技芸と楽器演奏を通して自由民の名を歌いあげること、即ち彼らの偉業の記憶と朗唱によって、この社会の名声と凌辱を統御していることを、ケイタ氏族にかんする叙事詩スンジャータ・マーナの分析によって論じている。

 第三部では、19世紀におけるフルベ系のイスラム神聖国家によるジハードに続いて、19世紀中葉以来のフランスによる西アフリカ内陸への進出による、奴隷制度の解体と土着的国家群の消滅と近代国家体制への移行を辿った後、植民地国家体制の性格について、特に新たなコミュニケーションの在り方に焦点をおいて論じており、公用語としてのフランス語と文字、印刷・電信などの近代的メディアと植民地における官僚機構との関係、従属民教育と書記物の存在と植民地支配との関係が具体的に明らかにされている。その一方でそうした国家的な体制のもとでも、新たな教育エリートおよびフランス人行政官にとってジェリヤは歴史研究のインフォーマントとして新たな位置を占めるに到ったと述べている。また後半では、独立後のマリ共和国におけるジェリヤの存続に重大な影響を持つ国家と教育およびコミュニケーションの状況が克明に記述されている。

 第四部では以上の論述を踏まえて、マリ共和国のキタ地方社会におけるより具体的な事例を取り上げてジェリヤの現状を記述・分析したもので、著者自身の現地調査がもっとも生かされている部分である。初めに19世紀のカフ以降のこの地方社会の生業と住民の変遷、独立以降の行政と教育を述べたあと、出自による階層的な社会体制がいかなる形で相続しているのかを自由民、特殊職能者、奴隷のそれぞれについて論じており、結論として前二者については出自は組織としては存在せず理念として存続すること、奴隷出自については理念としても否定されているとする。特に、現在のジェリ出自についてはその自己認識の多様な在り方を克明に観察・記述しており、現在のジェリヤの行動とパフォーマンスの柔軟性が出自理念に関する動揺と関連していることが記述をとおして浮かび上がる。最後にジェリの中でも最も正統とされるンガラによる、キタ地方の一つの自由民のリニージの歴史に関する語り「タリク」を紹介し、そのテキストの分析を通して、語られている「過去」と「現在」の互いに喚起し合う関係、言及されるほとんどがリニージの男子成員であること、名誉として語られる内容は自由民出自の理念に対応すること、語られる系譜関係にはマリ帝国の崩壊と氏族の拡散が反映されていること、戦争国家時代の西スーダンの動態とくに王族リニージの動きが反映されていること、名誉の中に植民地行政から与えられた名誉も含まれていることから「語り」が植民地体制のもとでもこれに適応してきたこと、などが明らかにされている。最後に、ジェリヤの最後の語り手が現在置かれている状況について論じており、それは調査者自身の関与にも留意することによって顕在化していることを明らかにしている。

 結論の章は、ジェリヤの歴史的変遷と国家体制およびコミュニケーション様式の変遷との関係のまとめに当てられている。

 本論文の高く評価すべき点としては、先ず第一に、人類学の現地調査による自身の観察・記述と歴史学および民族学の先行研究を併用して、両者の長所を充分に生かしていることと、きわめて長い歴史的視野を踏まえながらも、一方では現場での語りのテキスト採録の過程を省察しながら、現在のジェリヤの状況についても具体的に論じている点があげられる。

 具体的には、19世紀以後の時代の社会変化、つまり17〜18世紀の「戦争国家」の交易の発展と政治的混乱の同居した時代を克服しようとしたイスラム神権国家形成の動きと、これと同時に進行したフランスの軍事的侵攻、植民地化、そして1960年の植民地からのマリ共和国の独立後現在にいたるまでの社会変化についての歴史認識は大変優れている。その中で、政治権力がどのように根本的に変わり、それに語り部・楽師(ジェリ)がどのように対応していったかについての分析は独創的であり秀逸である。自由民、内婚的職能民、奴隷の三階層に分かれた「出自階層社会」の中で、特に自由民や奴隷民の社会的位置が、権力者の変化とともに現実には変動しながらも、理念としては三階層が残存するような状態の中でのジェリの位置づけは、この領域の研究でも初めての試みとして高く評価できる。

 また、口頭による対面的コミュニケーションから、電気機械や文字を媒介とするコミュニケーションへの移行の中で、ジェリのパフォーマンスが変質し、伝統に基づく真正のジェリを自認する者が消滅に瀕している現状の中で、外来の調査者のために歴史伝承を朗唱するジェリと、それを記録・分析する筆者との関係が覚めた眼で捉えられており、現代における文化人類学的認識のあり方についての考察としても重要な事例研究となっている。

 要約すれば、1)課題を取り上げるにあたってきわめて長い歴史的視野による考察が優れていること、2)特に近現代の分析の独創性、3)現在の文化人類学的認識への貢献、が高く評価される。

 ただし本論文には考察が不十分な点や細部の誤りも指摘できる。たとえば、広域交易国家消滅のあとの奴隷貿易の重要性に着目するあまり、金の交易についての17世紀以後の考察が脱落していること、全体を通じて、北アフリカの政治的変動(14〜15世紀のエジプトを中心とするマムルーク朝との関係、16世紀末のサード朝モロッコの軍事征服以後のモロッコの政治的混乱、16世紀以後のチュニジア以東の北アフリカへのオスマン朝の進出など)との関係の考察が充分でないこと、西アフリカ内陸のマンデ系以外の国家的組織をもった社会との関係が充分に視野に収められていないこと、などである。しかし、これらはいずれも本論文がきわめて長い歴史を視野に入れ、広い地域にわたる対象を扱おうとした意欲的な研究であることから派生したものであり、無いものねだりともいうべきものであって、むしろ今後の研究の発展が一層期待されるというべきであろう。また、たとえば楽器の記述、栽培植物の名称などにいくつかの誤りが認められる。

 以上細部において補正すべき点はあるが、全体として文献研究、現地調査の成果ともにきわめて精緻に行われており、そこから独創性に富む貴重な学問的貢献がなされていることは上述したとおりである。全体として、完成度の高い最高グレードの評価に値するすぐれた論文である。

 以上のような判断から、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位に相応しいものと判定する。

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