学位論文要旨



No 212569
著者(漢字) 谷,隆一郎
著者(英字)
著者(カナ) タニ,リュウイチロウ
標題(和) アウグスティヌスの哲学 : 神の似像の探究
標題(洋)
報告番号 212569
報告番号 乙12569
学位授与日 1995.12.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第12569号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱井,修
 東京大学 教授 佐藤,正英
 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 片山,英男
内容要旨

 本論文(本書)はアウグスティヌスの全体としての探究を,そしてとくにその要を為している『三位一体論』の中心的位相を,「キリスト教」や「神学」の何らか一般的かつ教義的枠組を超えて,まさに哲学・倫理学(すなわち愛智の道)として問い直し解明しようとするものである。考察の素材としては主に,初期の幾つかの著作,『告白』,『創世記逐語註解』,そしてとりわけ『三位一体論』を取り上げるが,その際思想史的な事柄についての言及は最小限に留め,アウグスティヌスの言葉の内側から吟味し解釈することを旨とする。

 ところで本論文全体の基調を為しているのは,一言で言えば,「教父の哲学」をいわば「存在論的ダイナミズム」として解釈する方向である。この点は,たとえばギリシア教父の伝統の一方の代表者ニュッサのグレゴリオスにおいてより顕著に見出される特徴であるが,東方西方の異なりを超えてアウグスティヌスにあっても根源を同じうしていると考えられる。すなわち誤解を恐れずに言えば,教父たちはヘブライの動性ないし動的な存在把握とも呼ぶべきものを,それとは或る意味で対極的な言語構造を有するギリシア語やラテン語を通して何らか本質的緊張を保持しつつ,新たに捉え直し言語・ロゴス化したのである。それはまた,古代ギリシアに発した愛智(ピロソピア)の原型の,或る決定的な変容と突破,再生でもあったと考えられよう。

 さて本論文は,大別して二つの部分から成る。第一部では,アウグスティヌスの初期の著作及び『告白』を中心として,「魂・自己の探究」をめぐる幾つかの基本的主題を扱う。その具体的順序として,本論文では愛智の動的な構造を重視するという観点から,まず「探究の端緒たる信fides」と,その成立の一つのかたちたる「回心」conversioとに注目する。ただし,それは必ずしも伝記的興味から為されるのではなくて,むしろ回心(還帰・転回)という働きが,より普遍的に人間という存在者の本来的な成立そのものを指し示しているからであった。つまり信ないし信仰という「魂・精神のかたち」(或る先取的な知)は,決してそれ自身に閉じられたものではありえず,必ずや自らを超え出て,自らの成立根拠を自己還帰的に志向し愛しゆく何ものかなのである(第一章)。

 だがそのことは改めて,当時の懐疑論に抗して,真理探究の可能根拠たる確実性への反省を促してくる(第二章)。そしてさらに,信がいわば志向的に孕むところの根源的な知は,魂の本来的な記憶と想起という広がりのうちで,様々な角度から吟味されねばならない(第三章)。そうした探究はまた,おのずと創造creatioの場に接しており,「神の言葉・ロゴスによる創造」の問題に入ってゆかざるをえない。時間tempusの本質は,そこにあって「魂・精神の自己超出的なかたち」として見出されてくるのである(第四章)。

 ただしかし,人間精神は直接に神(=我在り)の直視に達しうるものではありえず,必ずやその都度いわば世界に還帰し,生の具体的な場,他者との関わりの場における意志と欲求との浄化・否定を介して,またそうした間接的否定的なかたちで,真実の知・ロゴスに何らか与かってゆくほかないであろう。が,それゆえにこそ,「神の言葉・ロゴスの受肉」incarnatio Verbiということが,人間・自己成立の可能根拠として,ほかならぬわれわれ自身の根底に何らか普遍的な仕方で見出されねばならないと予想される。しかしそのことは,自由と悪との険しい問題に己を晒すことを要求してくるのである(第五章)。

 第二部においては,主著『三位一体論』のとくに後半部分をその前人未踏とも言うべき展開過程に即して解釈する。それは内実としては第一部で扱われた諸々の問題を,『三位一体論』という大きな文脈において捉え直し吟味することでもある。

 その作品の前半にあってアウグスティヌスは,先行のギリシア教父たちの探究を直接間接に継承し,父,子,聖霊という三つのペルソナに関する議論を展開している。それはもとより,根底においては「人間とは,そしてその自然・本性naturaとは何か」ということの普遍的意味に深く関わってくるのであって,決して単に特殊な宗教の教義論の枠内にあるのではない。だがアウグスティヌスは自らのそこでの議論に或る限界を認め,第八巻以降の後半において全く新しい方式で人間の精神mensそのものの探究に着手する。しかし,そのことは探究の対象が神の三位一体から人間の精神に移ったということを意味しない。注目すべきは,魂・精神とはまさに,そこにおいて「神の似像」imago Deiが最も勝義に現前しうる場・かたちであろうということである。

 なぜならば,神は確かにあらゆる事物,あらゆる自然・本性のうちにそれぞれの限定された存在様式において見出されるとはいえ,勝義にはむしろ,それらの対象を知りかつ自己知に何らか与かっているところの精神そのものにおいてこそ,よりよく見出されると考えられるからである。それゆえ,「魂・精神の探究」が取りも直さず,「神(=我在りEgo sumたる存在そのもの)の現成のかたちの探究」を具体的に担うものとなりうるのだ。ただしかし,そのことが語られうるのは,様々な欲望や執着によって多かれ少なかれ悪・罪の姿に頽落している限りでのわれわれの精神においてではない。つまり,魂・精神の本然のかたちにおいて,否むしろ,そうした本然のかたちの成立・再形成transformatioという事態においてこそ,神の,そして存在の探究が為されねばならないのである。神的三位一体探究の端緒として,「信という志向的かたち」が語られるゆえんである。

 そこで本論文第二部においては,まず「知を求める信」の基本構造が見定められる。すなわち信という自己超出的なかたちにおいてこそ,終極の目的(=善)たる神が,極めて不完全な姿としてであれ何らか宿り現出していると考えられるが,それゆえに信という魂のかたち,愛のかたちこそが,神的三位一体探究の場であり対象なのである(第六章)。そしてその探究は,精神の三一性や自己知の諸相を自己還帰的に吟味するという仕方で,より具体的に展開されてゆくことになる。しかし有限な身体的存在たる人間にあって,自己知とは完結したものではなく,或る種のアポリアを含んだものとして見出されるほかはない(第七章)。そのためアウグスティヌスは,いわば探究の眼差しがより身近な局面に突き返されたのごとく,時間的感覚的なものに関わる「外なる人間の三一性」の吟味に取りかかる。だが,その考察はまた,ものの記憶と知解とを結合する意志・愛の働きが,超越的なものへと開かれた構造のもとにあることを明らかにすることでもあった(第八章)。ところで人間は自由に行為する存在であって,神からの背反(=罪peccatum)の可能性を原初的に孕んでいると言わざるをえない。それゆえ人間が「神の似像」に即して,またそれに向かって創られたという定め(自然・本性)は,生身のわれわれにとっては「既に,かつ未だ」という緊張した意味合いを有する。いわゆる原罪の問題がここに,神の似像の成立構造への問いにとって不可避のものとなる(第九章)。そのことはまた,キリストの受肉,死,復活に関する信を改めて吟味し,その普遍的根底にまで透過することを要求してくるのであった(第十章)。

 かくして本論文第二部における各章,すなわち「知を求める信」,「自己知の探究」,「外なる人間の三一性――結合力としての意志――」,「創造と原罪との問題――知の成立の意味と根底――」,「信の構造」といった一連の考察はすべて,「神の似像の知と再形成をめぐって――存在の現成のかたち――」に関わる動的なかたちの探究に定位されている(第十一章)。それは,諸々の存在物も,精神・自己の何らか実体的存在すらもひと度び無化されるかのような境位において,神(=存在)の現成・受肉のかたちを自らの根底に問いゆくことである。そこにはいわば存在論的ダイナミズムとも呼ぶべき構造が見出されよう。つまり「神(=存在)の現成のかたち」としての「神の似像」は,われわれにとって既に成立した事実ではなくて,「罪という頽落からの再生,再形成」という動的かたちにおいて生起してくるのであり,そこに「絶えざる生成」ないし「不断の創造」という基本性格が認められる。それは,存在の問題において時間性,身体性が主題化してくることでもあった。だがそうした「神の似像」の顕現・受肉は,罪のかたちが否定され浄化されるという否定の契機を,何らか不可欠の媒介として含んでいる。それゆえにまた,神の似像の成立とは,決して個人としての個人の自己完成といったことに留まらず,われわれが自己否定を介して自らを捧げつつ,「神の全一的な交わり(エクレシア)」に参与してゆくこととして語られていた。ともあれ,ことの帰するところを望見して言うとすれば,アウグスティヌスの愛智のすべての営みは,恐らくは最も単純なひとつのこと,すなわち人間・自己成立の普遍的な意味に,そしてつまりは,歴史におけるロゴスの宿り,存在の言祝ぎの謎・神秘に向けられているのである。

審査要旨

 谷氏の学位請求論文は、アウグスティヌスの哲学を存在論的ダイナミズムとして解釈し、その愛智の道行きの中心的かたちを、主に『告白』、『三位一体論』などの主要著作に即して明らかにしようとしたものである。全体は二つの部分から成るが、第一部は「自己存在」の問題を探求し、第二部は氏が同根源的な問題と捉える「神の似像」の問題を、より大きな文脈において捉え直し吟味している。

 「教父の哲学」を「存在論的ダイナミズム」として解釈することは、例えばギリシア教父の伝統の一方の代表者ニュッサのグレゴリオスの場合になされてきたが、氏はアウグスティヌスにあっても、東方と西方の異なりを超えて、根源的にそのことが見出されるとする。「神の似像」、すなわち「存在(=神)の現成のかたち」としての「人間たること」の勝義の意味は、知性的被造物性等、何か固定した実体に存するのではなく、むしろ「超越的な存在(=善性)へと無限に自己を超出してゆくこと」、その「動的なかたち」そのものだということ、「人間という動的かたち」の成立・現出の中心には、超越的な善への自己超越的かつ再帰的な構造が見出されるということ、そのことを本論文は精緻な客観的文献学的考証に基づきつつ、かつその客観性をも超えて、解釈者自らの主体的な愛智の歩みと緊密に呼応させて論じているのである。

 アウグスティヌスは『三位一体論』の最終巻において聖霊の働きについて論じているが、『三位一体論』の厳密な註解を目指している本論文第二部においても、その点は論じ残されている。また氏とテクストとの対話、その根源的な呼応に眼差しが集まる分、研究史への言及は最小限に押さえられている。しかしこれらは取り立てて瑕疵とすべき点ではなく、考察が、「ロゴス(神的な言葉)の宿り」、「存在の言祝ぎ」に開かれたものとして人間を哲学的に問うことへと集中した結果にすぎないとも考えられる。全体としてアウグスティヌスの哲学を存在論的ダイナミズムとして解釈し思索した優れた労作として、博士論文として十分な評価に値すると判定する。

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