本論文は、1945年から83年までの日本における生活保護制度の社会史の研究成果をとりまとめたものである。その社会史は、つぎのように時期区分される。 制度形成期 1 制度準備期 1945-49年 2 制度草創期 1950-53年 3 水準抑圧期 1954-60年 制度展開期 4 水準向上期 1961-64年 5 体系整備期 1965-73年 6 格差縮小期 1974-83年 これらの各時期のうち、1、2、3を第一論文が、4を第二論文が、5、6を第三論文がとりあげ、それら三論文がゆるやかに連って、本論文を構成している。それらの研究でえられた主要な発見を、各時期ごとにあげるとつぎのとおりである。 制度準備期 1945年、敗戦直後、国民生活は総じていえば絶望的な窮状に追いこまれていた。敗戦後の実質的・体系的救貧政策は46年9月に公布された旧生活保護法(以下、旧法という)によってはじまる。その性格が形成される過程では、GHQ(連合軍総司令部)のPHW(公衆衛生福祉局)が主導的役割をはたした。PHWの有力成員にはニューディール期の救済行政に従事した経験をもつ者がおり、これによって、ニューディールの理念が戦後日本の救貧行政に投影している。旧法による施策は30億円の予算によっておこなわれることになるが、この予算が決定されるまでのいきさつをみると、厚生省が大蔵省と対抗関係にあり、GHQが前者を擁護してその意向を通させていたことがわかる。48年5月、社会局保護課は小山進次郎を戦後四代目の課長として迎えた。かれは3年あまりその職位にあって、旧法をできるかぎり熟させ、そこからの発展と飛躍の結果として現行の生活保護法を形成する仕事の中核となった。その仕事の主要な発端のひとつとして、旧法末期の不服申立て制度の創設がある。 制度草創期 旧法末期の被保護階層には大別して二つのタイプがふくまれていた。ひとつは、それまで1、2年のあいだに労働者階級、中間階級から失業、倒産などをつうじて下降してきた人びとであり、いまひとつはそれ以前から一般的であった戦没兵士の遺家族である母子世帯、老人たち、戦傷病者などである。前者のタイプは生活保護を権利として要求する傾向がつよく、旧法では充分に対応しきれなかった。社会保障制度審議会の勧告をうけ、厚生省は49年末から生活保護法案の本格的準備に入り、国会審議、GHQの審査をへて、50年5月、同法は公布、施行された。この法の基本的特徴はつぎの六つである。(1)救貧の国家責任、(2)最低限度の生活保障、(3)無差別平等、(4)生活保護をうける権利(不服申立て制度)、(5)欠格条項の除外、(6)有給の専門職の担当。これは民主主義の観点からみて非常に進歩的な法律であった。厚生官僚たちがこれをつくることができた条件としては、権力の意向にしたがう官僚制の本来的性格、内務省社会局以来の民主主義的・自由主義的伝統があり、さらにGHQとの折衝、旧法による業務の体験、被保護階層の質的変化、それらをつつんで進行する日本社会の民主化、近代化などが考えられる。生活保護の実施機構としては福祉事務所と社会福祉主事の制度がつくられたが、後者は専門職にはほど遠かった。生活扶助基準の現実の低さはすさまじいもので、国民一般の消費水準の半分程度であった。 水準抑圧期 この時期のなによりもの特徴は、生活扶助基準の据えおきがくりかえされ、ときにおこなわれた改定では引き上げが小幅で、物価の上昇はつづいているのであるから、実際上は扶助基準の劣悪化が進んだことである。この事態は、講和条約が成立し、厚生省がGHQという後だてを失い、それを大蔵省がはげしく巻き返したことから生じた。そのうえ濫救の事実の報道がつづき、世論は被保護階層にたいしてがならずしも同情的ではなかった。厚生省は基準の改定をおこなわせるために、適正化対策に踏み切り、医療扶助の適性化、在日外国人の保護の適正化、不正受給の取り締まりをおこなった。それらは一定の効果をあげたが、在日外国人への差別意識が働いたり、警察主導型の福祉行政になった例があったことも否めない。そうして、適正化対策をおこなっても、大蔵省は基準の改定に応じず、生活保護行政に焦燥感がただよった。1957年、朝日訴訟がおこされる。この裁判の本質は生活保護基準が低すぎて、生活保護法は目的でいう憲法第25条の生存権を保障することができないでいるとして、生活保護行政を告発するものであった。厚生官僚たちは表面上は生活保護行政の合法性を主張しながら、内心はこの訴訟はおこされるべくして、おこされたものと考えていた。60年10月、判決で朝日側の勝訴、厚生大臣側の敗訴となった。この判決によって、厚生官僚たちが構想した生存権保障の理念はひろく社会に知られるようになった。 水準向上期 この時期は、毎年度、大幅な保護基準の引き上げがおこなわれた。これは日本経済の高度成長にともなう国民生活の水準の向上と池田内閣の社会保障の拡充をめざす政治姿勢によっていた。経済官庁はこれに抵抗したが、国民所得倍増計画が内閣の基本政策となって各省庁の意向対立は一応そこに収斂した。前記計画は相対的貧困観の採用、保護基準の大幅引き上げを主張して、制度展開期をつうじて生活保護制度のありかたに大きい影響をおよぼした。保護課は生活扶助基準の算定のために相対的貧困観にもとづくエンゲル方式を案出し、61年には基準の16.0%引き上げを実現した。先進資本主義国の貧困理論は60年代に絶対的貧困観から相対的貧困観に移行するが、厚生官僚たちの工夫はその先頭を走るものであった。ただし被保護階層の生活水準は、この時期、国民一般の生活水準との格差を縮小したが、ボーダーライン階層のそれとの格差を縮小しなかった。保護率は63年に18.1‰と展開期の最高を記録し、以後は下降をつづける。産炭地の生活保護では、きわだって高い保護率、苛烈な要求運動、一部地域の深刻な頽廃現象があった。朝日訴訟の第一審判決が61年度の基準の大幅引き上げをもたらしたという社会福祉学の通説にたいしては、それを実証的に否定し、その引き上げは内閣の所得倍増計画と厚生官僚の宿願の合作であり、判決は二義的契機にとどまるとした。 体系整備期 厚生省は相対的貧困概念をかかげて、生活保護基準の引き上げを主張し、一般世帯の消費水準の約60%にまで基準を引き上げるべきだと提言した。この厚生官僚たちの主張は、大蔵官僚たちの絶対的貧困観にもとづき基準の引き上げをより小幅にするべきだという主張と対抗していた。この時期の最初に社会保障制度の主要なものは出そろっており、のち9年間でそれぞれの水準は急速に引き上げられていった。そのため、生活保護制度の相対的地位は所得保障のなかでも、社会福祉事業のなかでも低下した。生活保護基準の算定方法は、65年、格差縮小方式にあらためられた。この方式により、体系整備期を通じて毎年13、4%の基準の引き上げがおこなわれたが、一般国民の生活水準との格差の縮小はほとんどおこらなかった。保護率はこの時期に16.3‰から12.4‰にまで低下した。被保護階層の状態では、世帯数の増加と小人数世帯の比率の増大、非稼働世帯の比率の増大、傷病・障害者世帯、高齢者世帯の増大などがめだつ動向であった。この動向にもとづき生活保護制度を対象世帯別に分化させる構想が厚生省周辺でつくられ、発表されたが激しい批判をうけた。稼働世帯の構成比の減少については、政府文書は高度成長の波及効果のひとつとしており、運動論的立場にたつ研究者は稼働能力者対策のせいだとして、見解の対立があった。 格差縮小期 1973年から74年にかけて物価の急上昇がおこり、厚生省は生活扶助基準を年度内で再改訂したり、特別一時金を支給したりして、めまぐるしい対応をつづけねばならなかった。しかし、以後、一般国民の消費水準と生活扶助基準の格差は縮小しはじめ、83年、前者にたいして後者は、東京で62.3%に達した。その基本的原因は、基準の決定につかわれる政府の経済見通しでの消費支出の伸びが実際のそれより高かったこと、不況のなかで国民が消費を手控えがちであったこと、である。この年、厚生省は、基準がほぼ妥当な水準まで上昇したと判断した。この時期の制度の主要な手直しとしては、老齢加算の方式の変更がある。高齢者への生活扶助に老齢福祉年金の同額を加算する方式は、同年金額のあいつぐ大幅引き上げによって、最低生活費を保障する生活保護制度にふさわしくなくなっていた。この変更は困難視されたが、76年、ロッキード事件によって国会審議を実質上うけないまま実現されてしまった。生活保護制度において批判的に検討されるべき最大の問題は膨大な漏救者の存在である。この時期におこなわれた信頼しうる推計によれば、生活保護制度の捕捉率は24.3%、漏救率は75.7%になる。高い漏救率の基本的原因は、厚生省と地方自治体が保護の申請が活発におこなわれるように、積極的に政策努力をおこなわないからである。この時期、保護率は12‰台前半で経過した。 なお、論文末尾に附章をつけ、本論文の研究対象としての生活保護制度を特定し、84年から93年までの制度の基礎的データを提示し、研究方法の検討をおこなった。 |