本論文の目的は、第一に近代日本社会における天皇制と教育との関わりをどう考えるかという問題を、第二に満州事変から太平洋戦争に至る、戦時体制の積極的な担い手たちはいかなる存在であったのかという問題を考察することである.その目的のために、本論文は、天皇制イデオロギーによる最も徹底した社会化を受けた集団であり、また戦時体制の最も積極的な担い手集団の一つであった陸軍将校を主たる分析対象としてとりあげ、彼らの選抜と社会化のさまざまな側面を社会学的に考察した. 序論では、近代日本の教育が社会移動と社会化の両側面から統一的に分析されるべきこと、〈天皇制と教育〉をめぐる従来の研究が、「〈自動的内面化〉論」「〈中核価値-行動〉論」という―連の背後仮説(「内面化」図式)を前提としてきていること、またそのことが問題点をはらんでいることを明らかにし、本論文で採用する視点の意義と、対象の性格とについて論じた. 具体的な分析は、まず第I部では、陸軍将校の社会集団としての特質を明らかにするために、陸軍将校を目指す競争や彼らの社会的背景の問題を考察した.第1章では、陸軍士官学校と陸軍幼年学校の召募-選抜に関わる制度的側面を検討するとともに、志願者による競争の歴史的変化を概観した.第2章では、明治前半期に存在した、下士や下士生徒から将校に進む道が、次第に閉じられていく様子をたどった.また同時に、それが大正後半期に顕在化する昇進ルートの閉塞の一要因となったことを指摘した.第3章では、旧制高校への進学者と比較しながら、陸軍士官学校への進学の社会的評価の変化を考察した.最後に第4章では、将校の出身背景に関する欧米の研究から導かれた分析枠組に依拠しながら、将校生徒の出身背景データを統計的に分析し、日本の将校の社会的背景に特徴的な点を明らかにした. その結果、明らかになったのは、一方で、日本の将校のリクルートは、当初は学歴による受験資格制限もなく、官費制や下士からの昇進など、多様なキャリアを経て将校になることが可能であったが、明治中期からは陸幼が将校の子弟等を除いて自費制になり、陸士の受験資格が中学卒業以上になることによって、また、下士からの昇進の道が閉ざされることによって、社会の中層以上の階層でなければ、ほとんど将校になることは不可能であるようなリクルート構造となったことである.他方で、日本の場合、将校への進学ルートの威信の低下が急速に進行していき、都市部のエリート中学生たちは、高校-帝大への進学ルートに集中して、軍人への道は望ましいとは思わなくなっていき、社会階層的にも上層よりもむしろ中層の子弟を集めるようになっていたことが明らかになった.貴旅的伝統の強かったイギリスやドイツの軍隊とは異なり、日本の将校の輩出基盤は、当初は経済的基盤を失った旧特権身分層―士族―を主たる母体とし、まもなく開発途上国型のモデルに近い、経済的な不安定要素を抱えた社会の中層部分と結びついたものになっていったのである. 第II部では、イデオロギーの教え込みと受容の実態に焦点を当てて、陸軍士官学校・幼年学校に入校した生徒の教育過程を分析した.本論文では、先行研究では必ずしも画然と区別して分析されることのなかった、(1)フォーマルな教育目標やカリキュラム(教則レベル)、(2)日常的な教育・学習行為(相互行為レベル)、(3)生徒の意識(内面レベル)という三層の分析レベルを明確に区別しながら、それぞれの次元でのイデオロギーと私的欲求の関係、三つの次元の間のズレや歪みについて考察した. まず第1章では、どういうイデオロギーが、どういうカリキュラムの形をとって教え込まれるべく定められていたのか、という問題を教育綱領やカリキュラム・教科書の分析を通して考察した.第2章では、精神教育を目的とした訓示・訓話や、生徒が学校に提出した作文を手掛かりにし、第3章では生徒の自治や生徒文化の側面を検討して、相互行為レベルでのイデオロギーの教え込みと受容の諸相を明らかにした.第4章では、自伝と日記を手掛かりにして、二人の将校生徒の事例から、生徒の意識の次元をより具体的に考察した.第5章では、視点を一般兵卒の精神教育に移して、イデオロギーの内面化を目指した教育がどの程度、個々の兵卒の世界観の次元に侵入することができたのか、また内面化とは別の意味で精神教育がいかなる機能を果たしていたのかについて考察した. この第II部での考察の結果、上記三つの次元の間にズレや歪みが存在していたこと、陸士・陸幼の教育は生徒の立身出世の野心を冷却するものではなかったことが明らかになった.個人の野心を家・共同体への貢献、さらには国家や天皇への貢献へと水路づけるカリキュラムが、逆に貢献の結果としての個人の野心の実現を正当化する役割を果たしていた.このことは、もっとも強力なイデオロギーの教え込みの場においても、必ずしも純粋に無報酬の「滅私奉公」の心情を養成したわけではなかったことを示している(結論第2節参照). 第III部では、陸軍将校も含めて、昭和戦時体制の担い手たちがいかなる社会的状況や社会意識を抱いていたのかについて検討した.第1章では、大正・昭和初期に一つの社会集団としての陸軍将校が置かれていた状況を考察した.昇進やそれをめざす競争の様態の変容や俸給水準の変化、退職後の生活不安の醸成、それらの背後にあった、彼らの保身や昇進を動機づける構造的な要因を明らかにするとともに、当時の陸軍将校の意識構造の側面に焦点を当てて、第II部で描きだしたような将校生徒の意識の在り方が、基本的にはその後も存続していたことを明らかにした.ここでは陸軍将校(生徒)に特徴的に見られた意識の在り方を、「欲望自然主義」という概念を用いて表現し、戦前・戦中期の陸軍に見られたさまざまな組織や行動上の問題点とつながりがあったのではないかという仮説を提示した. 続く第2章では、戦時体制を積極的に支えていった別のさまざまなカテゴリーの人々を考察の対象に据えた.とりあげたのは憲兵、兵士、在「満支」邦人と教員である.戦時期における彼らの意識構造を立身出世アスピレーション(欲求)と献身イデオロギーとの関連に着目して分析し、戦時にも立身出世アスピレーションが生き続けており、それは献身イデオロギーとは矛盾していなかったこと、自己の行動に関してはしばしばイデオロギーが十分作動していなかったにもかかわらず、他者に対してはそれが作動していたことなどを明らかにした.つまり陸軍将校の場合と同じく、必ずしも純粋な〈滅私奉公〉像とは異なる意識構造が、戦時体制を積極的に担った別の集団でも共通して見られたのである. 結論では、以上の分析を踏まえて、まず第1節では、陸軍将校を具体的な対象とした考察のまとめを行ない、昭和戦時期の将校の意識の集団的な特徴と彼らの行動の背景的な要因について、いくつかの仮説を提出した.具体的には、行政官僚や政治家と陸軍将校との政治的・社会的分節化や、従来「日本の軍隊の封建的性格」といわれたものは、彼らの社会階層的特徴から説明されうること、彼ら陸軍将校は現実の社会・経済的地位と、心理的帰属感との間にズレが生じていた可能性があること、昭和期の軍事的拡大を支えた将校の意識が、狂信的な天皇崇拝などからではなく、保身や栄達を希求する立身出世的関心から説明されるべきことなどである. 次いで、第2節では、「天皇制教育」に関して従来指摘されてこなかった点を、本論文第II部から得られた、イデオロギーの教え込みに見出された知見をもとに三点にまとめて指摘した.第一は、フォーマルな教育目標に掲げられたイデオロギーが、効果的に、また、そのままの内容で、生徒たちに伝達されたとはかぎらないこと―すなわち、イデオロギー教化の現場でのゆらぎである.第二は、将校生徒の場合、約束された将来に向けて自らを社会化していったという側面―主体的契機がある「内面化」過程であったということである.そこから、逆に、主体的契機が存在しないときには、イデオロギーは内面化されにくかったのではないかという、従来見落とされてきた点を指摘した.第三に、徹底した献身の教え込みによっても、生徒の私的欲求は冷却されず、立身出世が家族への献身(孝行)―国への献身(奉公)と同値化されることで、彼らの立身出世の野心が、毎日の努力と勤勉の源泉であり続けたということ―私的欲求と献身の予定調和である. 結局のところ、イデオロギーの教え込みは「〈自動的内面化〉論」「〈中核価値-行動〉論」が仮定してきたような作用を及ぼしたのではない.それゆえ、第3節において、教え込みの効果や戦時期の人々の行動を、それら「内面化」図式を用いないで説明しうるような理論枠組を仮説的に提示した. |