学位論文要旨



No 212577
著者(漢字) 若井,正一
著者(英字)
著者(カナ) ワカイ,ショウイチ
標題(和) 身体を指標としたアキ寸法の計測に関する研究
標題(洋)
報告番号 212577
報告番号 乙12577
学位授与日 1995.12.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12577号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,鷹志
 東京大学 教授 香山,寿夫
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 藤井,明
 東京大学 助教授 大野,秀敏
内容要旨

 本研究は、人間の様々な生活場面の中で自己の目的行為を完遂するために、自然な動作によって対象者の身体周囲に意識的あるいは無意識的に構成される非接触の空間的領域、いわゆる身体動作に基づく「アキ寸法」に着目して、その具体的な計測から寸法的特性を明らかにすることを目的に、建築人間工学的な観点から論じたものである。

 従来、日常生活行為における身体周囲に必要なアキの寸法の判断は、身体動作に必要な付加的寸法についての体系的な概念や具体的な計測資料の不足などから、自ずから設計者個々の経験や勘に頼ることとなり、目的行為に対応しない寸法が策定されることも稀ではなかった。それは、建築、室内、設備寸法などの設計を意図して提供された身体計測値の多くが、静的な骨計測の域をなかなか脱皮できなかったことにも起因する。その後、身体計測の手法は、自然な動作を阻害しないで採寸できる新たな計測器具類の導入によって、動的な身体条件における計測値の収録が可能となり、静的身体計測から動的身体計測へと急速に進展した。このような状況を背景に、1981年には日本建築学会建築計画委員会の中に建築人間工学小委員会が発足し、身体の動的条件を加味した実験研究や事例研究が顕著となった。この動的身体計測の進展は、身体固有の物理的寸法を把握するだけではなく、身体動作に関わる物的環境と人間の内面に潜在する心理的諸要因との相互作用を明らかにすることが、設計寸法を策定する上で有用であることを示唆した。人間の活動領域を空間的な広がりとして捉えた場合、本論文で扱う身体寸法を指標としたアキの寸法の計測は、身体を座標軸とした物理的尺度と心理的尺度との間に介在する相互領域としての空白域を埋める目安になるものと考えられる。本論文の全体構成は、序論、四章、結語および付録からなっている。

 序論では、建築人間工学系の分野における身体計測や動作領域に関連する国内外の既往研究の流れの中で、本論文が身体周囲のアキの寸法を特定するに至った研究上の背景をまとめた。これまで日常生活場面における身体動作の姿勢分類や、動作に必要な機能寸法の計測は断片的に試みられてきたが、必ずしも最近の居住形態の変容に対応したものであるとは言えない。むしろ建築的な設計資料として身体寸法を扱う場合には、身体周囲に構成されるアキの寸法を含めた方が自然である。しかし現状では、この身体周囲のアキの寸法に関する体系的な考え方や計測資料の不足が明らかで、本論ではこの空白の部分に焦点を絞って、本研究の特色、研究範囲、計測の意義を明確にした。

 第一章の「身体を指標としたアキ寸法の概念」では、本研究の目的について論述した。これまで静的な身体計測によって得られた計測値は、被験者が一定の姿勢条件を保持した状態をマルチンなどの身体計測器具類によって物理的に採寸されたものである。しかし、人間は生体である限り、日常生活の中で目的行為のために様々な身体動作を連続的に繰り返す。立位、いす座位、ゆか座位、臥位といった代表的な姿勢をもとに、類似した姿勢のパターンとして細分化してきた従来の姿勢分類は、身体動作を集約して把握する上で効果的であったが、類型化された姿勢の断面を整合するための計測手法が欠落している限り、連続した動作に適合した計測値を得ようとすると、自ずから限界が生じる。建築の内部空間が多様な身体動作を包む器であるとするならば、個々の姿勢パターンを繋ぐための移行動作などに関する計測資料が必要となる。さらに、従来の身体計測の範囲は、身体固有の測定点間の距離寸法や、接触領域内にある身体寸法の把握が主流であった。この建築人間工学的な身体計測の流れに対して、環境心理学などの分野では、以前から身体周囲に構成される目に見えない非接触の空間領域の存在が指摘されていた。本論は、この両面の考え方をもとに日常的な生活動作の中で身体周囲に構成されるアキの寸法の存在を、個人の身体を指標とした具体的な生活場面の計測によって寸法的に明らかにしたものである。

 第二章の「静的状況下の身体計測とアキ寸法の関係」では、まず身体計測値を設計寸法として適用する上での個人差の問題について論じ、身体の支持点が移動しない静的条件下において考慮すべき付加的寸法について計測を試みた。その具体的な場面として、人間が生体である限り意識的あるいは無意識的に身体を動揺させている状態に着目し、代表的な姿勢ごとに身体の揺れの量を短時間露出による写真計測法によって明らかにした。また、着衣の違いによる身体の増加寸法に関する建築の分野からの計測値は、昭和10年代に発表された藤井厚二・横山尊雄らによる資料以来、長年の間補足されることがなかった。本論では、その後の着衣の変容に適合させるために、新規に着衣の違いによる身体の増加寸法を計測した。これらの身体に密着した増加寸法は、建築的な寸法体系からするとやや微小な範囲であるが、静的身体計測値に付加すべき寸法として明確にされなければならない。

 ここで、人間は自己の目的行為のために「移動」と「停留(または静止)」を繰り返すという二つの様相から、身体周囲にアキが構成される場面を動的状況と静的状況に分けて考察した。その理由は、歩行動作のように身体の支持点を連続して移動する状況と、立ち止まりや着座のように身体の支持点が静止した状況の身体的条件が異なると判断したからである。本章では、まず立位時に体幹や上肢の振りによって身体周囲に構成される対物のアキ寸法と、着座時に行為者の身体周囲に構成される対人、対物のアキ寸法などについて実験的に計測し、その寸法特性を明らかにした。

 第三章の「動的状況下に構成されるアキ寸法の計測」では、個人の歩行動作を対象に、日常生活場面を想定した対人・対物の関係の中で歩行者の身体周囲に構成されるアキ寸法について実験的に計測し、その寸法特性を明らかにした。その歩行対象場面は、まず水平方向のアキ寸法を特定するために、静止対象者(物)の周囲で歩行動作を繰り返した場合に構成されるアキ寸法と、室内の様々な条件の通路の間を歩行する場合に構成されるアキ寸法について検討した。特に、超音披センサーによって解析された静止対象者と歩行者の間に構成されたアキ寸法の結果からは、ホールらによって指摘されてきた身体周囲の目に見えない空間領域の存在を定量的に確認できる資料が得られた。同様に、垂直方向のアキ寸法については、日常的な行動場面の中で歩行者の頭上に構成されるアキ寸法を考察するものとし、開口部のくぐり高さ、階段の昇降動作と頭上のアキ寸法の関係について計測を行なった。これらの解析には、歩行者の自然な動作状況を非接触の方法でリアルタイムに画像処理できる移動位置検出装置などを使用した。その結果、計測された頭上のアキ寸法が歩行者の静的身長とかなり高い相関を示したことから、静的身長を基準とした歩行動作に必要な頭上のアキ寸法に関するスライディングスケールなどを新規に作成し、設計寸法との対応をより明確にした。

 第四章の「身体周囲のアキの領域を特定する試みと展望」では、前章までに述べてきた建築人間工学の分野における身体計測研究に関する一連の流れをもとに、実際の生活行動場面を対象としたいくつかの事例研究から身体領域と物的環境との関わりを論じ、今後の本研究の展望をまとめた。個人の身体を指標としたアキ寸法については、新たな動的計測手法の導入によって具体的な計測値を得られる目安がついたが、特定あるいは不特定多数が利用する生活場面の中で構成される対人、対物のアキの領域の把握はこれからの課題である。本章では、既往の事例研究の中から、主に立ち止まりや着座によって身体領域が特定される場面として、公衆トイレの男子小便行為に関する実験、学生食堂や電車内の着座傾向に関する調査を取り上げて身体位置と周辺状況との関係などを考察した。また、限定された空間内で移動と停留が繰り返される場面として、公衆浴場、立食パーティーなどの調査を取り上げて対人、対物の行動特性などについて考察を加えた。これらの事例研究の考察によって得られた知見は、必ずしも機能的な身体尺度として設計寸法を意図したものではないが、人間の身体領域と周辺環境との関わりを把握する上で意味があると考える。また、本論は人間の知覚的尺度に言及するものではないが、視覚的な側面から自己の身体を指標としたアキ寸法の判別精度を実験的に検討した結果、水平方向(幅)よりも垂直方向(高さ)に対する寸法精度が高いことが考察された。

 以上、建築人間工学的な観点から静的身体計測、動的身体計測、そして身体周囲のアキ寸法の計測へと順次考察してきたが、本研究の特色は、これまでその存在と計測の必要性を指摘されながらやや定性的に扱われてきた身体周囲のアキ寸法が、具体的な生活場面との関わりから身体を指標とした計測値として定量的に捉えられることを明らかにし、その体系化を試みた点にある。今後、本研究の内容は、最近の居住形態の変容に対応した身体周囲の「ゆとり」寸法の把握へと派生することが展望される。

 最後に、「付録」では、本研究に関連する主要な計測データ、実験装置の概要と手順、および文献資料などについて記録した。

審査要旨

 本論文は、人びとの日常生活動作の為に身体のまわりに必要とされる「アキ(ゆとり)」を計測し、その基礎資料を基に室や建築構成部位におけるアキの所要規模を体系的に整理したものである。ここで開発した身体の動きを含んだアキの計測手法が、建築空間の構成部位の寸法を合理的に計画するための有効な手段であることを数多くの実験研究を通して実証している。

 本論文は序論とそれに続く4章および結語からなっている。

 序論では人体寸法に端を発する身体まわりの「アキ」に関する諸研究の国内および国外のレビューをし、本論文の流れを(1)静的身体計測、(2)準動的身体計測、(3)動的身体計測、(4)アキ寸法の計測の4段階に整理し、人びとが「ゆとり」をもって動作できる建築空間を実現するための「アキ」の意義を明らかにしている。

 第一章では、古典的な解剖学的人体計測の研究を整理した上で、動的身体計測の意義を述べ、日常生活動作の空間の原単位としての動作空間の計測値をまとめている。更に「アキ」寸法計測の準備段階として静的・動的身体計測手法の国際的比較を行っている。

 第二章では、基本的な準動的「アキ」寸法として(1)身体の揺れ、(2)着衣時の身体寸法の増加、(3)壁面と身体部位との所要アキの三つに着目し、それぞれの計測を実施している。(1)に関して閉眼時に開眼時と比較して揺れの量の増加を実証し、(2)については1970年の藤井、横山の計測値との比較から、洋服についての着膨れ量の増加を指摘している。(3)に関してはイスに着座したときの隣の人および側面壁との所要アキが何れも11〜13cmであり、これ以上のアキで他人や壁が<気にならない>と評価されることを明らかにしている。これは乗り物、公共的着座における所要寸法の根拠を与える資料となりうる成果である。

 第三章では、身体移動に伴う動的状況下におけるアキ寸法の実験的計測の実施・分析・考察が述べられている。動的アキ寸法の計測には種々の方法が存在するが、ここでは被験者に超音波発信機を装着させ、アキを可視化し計測する方法を考案し、ビデオ等による方法より簡便かつ正確なデータを得ることに成功している。身体移勤と空間場面について4つの場面を対象に実験を行って結果を述べている。

 第一に歩行者が着座(又は立位)者や椅子の脇を通り過ぎる際のアキについて、身体正面にややふくらんだ卵型のアキ領域の存在を確認し、既往の歩行動作の研究成果を検証するものであることを示している。

 第二に、壁と机、机と机の間の通過歩行に必要なアキの考察を行っている。その結果、所要アキを通路幅で除したアキ率が30〜35%の間に収まることを明らかにしている。

 第三に、ドアの開口部のくぐり高さと頭上のアキ寸法との関係を分析している。静的身長に25〜20cmのアキ寸法をもったくぐり高さであれば<気にしない>という評価を得られるとしている。

 第四は、階段昇降時の頭上のアキ寸法の考察に当てられている。昇降でのアキは後者の方が頭頂点が高く、よりアキを必要とすると、その具体的寸法変化を可視的表現にまとめている。

 第四章は、前章までの室内の特定部分に必要とされるアキを更に他の生活場面(公共トイレ、学生食堂、地下鉄車両-ロンドン、公衆浴場、立食パーティー)における実験、フィールドサーベィに基づく分析・考察に当てられている。立食パーティーのように離合集散の激しく、かつ近さ(アキのなさ)も必要とされる場面では、アキに関する異なった見方が必要であることを示唆している。

 本章の後半では、対象物のスケール判断における視認、触認との差に関する実験研究、イス座・ユカ座に食卓における「ゆとり」感、更には「ゆとり」に関する語彙を用いた感覚調査の結果を述べている。その結果、アキ領域を数量的に特定するためには、生活場面における人間関係、時間的移行の要因を加味する必要性を指摘している。

 結語では、多岐に亘る実験研究を空間時間の次元と対人・対物との関係からアキの体系化の分類軸のなかに位置付け、アキ寸法による空間の質の向上の手掛かりを与えている。

 以上要するに本論文は、多様な日常生活動作に必要とされる「アキ(ゆとり)」を具体的に計測し、そのデータを基に室や建築構成部位の適正な規模計画を行うための基礎的研究であり、建築空間を人間の使いやすいものにするという、基本的要請への実験的方法を提示したところに意義が認められ、またここで得られた種々の計測データは実際の建築設計に直接的に応用でき、建築計画研究にも寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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