学位論文要旨



No 212580
著者(漢字) 加藤,千幸
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,チサチ
標題(和) 低マッハ数の乱流中に置かれた物体から放射される流体音の数値解析に関する研究
標題(洋)
報告番号 212580
報告番号 乙12580
学位授与日 1995.12.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12580号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,敏雄
 東京大学 教授 村上,周三
 東京大学 教授 吉識,晴夫
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 助教授 荒川,忠一
 東京大学 助教授 谷口,伸行
内容要旨 1.序論

 高速車両,高速エレベータ,空調用ファン等多くの流体関連機器において,流れから発生する音,即ち,流体音を低減することが重要な技術課題となっており,流体音の数値的予測手決の開発が強く望まれている.一方,最近の数値流体力学の進歩には目覚ましいものがあり,非定常流れ解析に基づいた流体音の予測も試みられているが,これらの予測技術は流体音スペクトルの定量的予測ができるレベルには至っていない.このような状況の中,本研究は,高精度な乱流解析手法である,Large Eddy Simulation(LES)に着目し,LESによる,流体音スペクトルの定量的予測手法を開発することを目的としたものである.特に,本研究では,機械工学上重要度の高い,比較的低マッハ数の物体周りの剥離乱流から放射される流体音の予測をその対象としている.

2.解析の基礎方程式

 代表的な流体音として,図1に示すような低マッハ数の一様流中に置かれた物体から放射される流体音の解析を考える.流体音は流れの中にある渦から発生し伝播する,密度・圧力の微小な変動である.従って,理論的には,圧縮性を考慮したナビエ・ストークス方程式を解くことにより,流体音を計算することができる.しかし,一般に低マッハ数の流れ場では,流体音源となる流れの渦スケールは,音を解析する場のスケールに較べてはるかに小さく,かつ,流体音として伝播する圧力変動の強度は,流れ場の圧力変勤よりはるかに小さいため,圧縮性ナビエ・ストークス方程式から流体音を計算することは極めて困難である.そこで,ここでは流体音の発生と伝播とを分離して取り扱うことにする.即ち,先ずLESにより,流体音源である流れの変動を求め,次いで,微小圧力変動に関する波動方程式により,流体音の伝播を計算することにする.ここに,流体音の伝播による流れ場の変化は低マッハ数の仮定の下に無視する.LESのサブグリッド・スケール・モデルとしては,実績の高いスマゴリンスキィ・モデルを用い,また、流体音の伝播はCurleの式により計算することにする.

 さて,円柱や二次元翼のような二次元物体から放射される流体音を予測する場合,放射される流体音の強度に大きな影響を与える,物体の表面圧力変動の相関を考慮することが重要である.本研究では,物体表面圧力変動のコヒーレンス関数を計算することにより,物体の一部分の圧力変動を用いて,物体全体から放射される流体音の強度を高精度に予測する手法を提案した.提案する流体音計算アルゴリズムを図2に示す.

3.数値解析方法

 前述のように,流体音の予測のためには,先ず,LES解析により物体周りの流れの変動を計算する必要がある.従来報告されているLES解析は,チャネル乱流等の単純形状流路の解析に限られており,数値解析方法としては,スペクトル法或いは直交差分法が用いられていた.これらの解析方法は,そのままでは工学的に重要な複雑流路のLES解析には適用出来ない.そこで,本研究では,形状適応性の優れた有限要素法によるLES解析を実現することにした.有限要素法によるLES解析を実現する上で最も問題となるのは数値粘性の混入である.即ち,従来の有限要素法スキームでは,本来計算しようとしている乱流渦の非定常運動が数値粘性により減衰してしまい,捕らえる事が出来ない.そこで,本研究では,数値粘性が比較的少なく,かつ,数値的安定性に優れた新しい上流化有限要素法スキームを提案した.本手法は,局所流速と積分の時間刻みとの積に比例した支配方程式の上流化を行うというものであり,従来しばしば問題となっていた数値粘性の影響をほぼ完全に除去できる.図3に,ローテーティング・コーン問題と呼ばれるベンチマーク・テストにより,提案するスキームの数値的安定性と計算精度を調べた結果を示す.

4.検証計算結果

 以上説明した流体音解析方法の有効性を検証する目的で,前述の図1に示す円柱周りの乱流から放射される流体音を計算し,低騒音風洞を用いて筆者等が行った実験値と比較した結果を以下に示す.円柱直径と一様流速に基づいて定義されるレイノルズ数は1×104であり,また,一様流のマッハ数は0.044である.比較の対象とした実験に用いた円柱のスパン長は直径の50倍であるが,ここでは,計算時間の短縮を図るために直径の4倍の解析領域によりLES計算を行い,前述の図2に示す方法により,円柱全体から放射される流体音を計算した.先ず,流体音源である流れの渦変動の予測精度を検討するために,円柱後流の流速変動スペクトルを実験値と比較した結果を図4に示す.流速変動スペクトルは,周波数の-5/3乗に比例する乱流スペクトルにカルマン渦放出に起因する,無次元周波数0.2のピークスペクトルが重量した分布となっている.LES解析により得られた流速変動スペクトルは実験値と良好に一致している.次いで,放射される流体音の強度に大きな影響を及ぼす,表面圧力変動のコヒーレンス関数の分布を実験値と比較した結果を図5に示す.ここに,300Hzという周波数は,カルマン渦放出に対応する周波数である.計算されたコヒーレンス関数は実験値と良く一致している.図5より,カルマン渦放出に対応する周波数に関してはスパン方向の相関が極めて高いのに対して,それ以外の周波数では殆どスパン方向に相関がないことが分る.つまり,カルマン渦以外の乱流渦はスパン方向にランダムな位相により放出されているものと考えられる.最後に,計算された流体音圧の時間変動並びに音圧変動のスペクトルを各々図6,図7に示す.LES解析ではメッシュサイズ以下の乱流渦の運動は直接計算されないため,高周波数域における計算値と実験値との一致は良くないが,この様な物体から放射される流体音の殆どのエネルギーを占める低周波数域においては,計算された流体音スペクトルは実験債と良く一致している.また,図8には,迎角15度,レイノルズ数1×105の二次元翼から放射される流体音を予測した結果を示す.流体音スペクトルのピーク周波数は実験値とやや異なるものの,スペクトルのレベルは実験値と概ね一致している.計算された流体音のピーク周波数が実験値と一致しない原因としては,メッシュ解像度の不足とサブグリッド・スケールモデルの欠点が考えられる.この様な薄翼周りの流れの非定常変動を解析するためには,翼前縁近傍の境界層剥離,及び,剥離境界層の乱流への遷移を精度良く捕らえる必要があり,このためには,翼面近傍に極めて細かいメッシュを用い,かつ,層流から乱流への遷移が扱えるサブグリッド・スケールモデルを用いた,LES解析を実現する必要がある.

図表図1.流体音計算モデル / 図2.流体音計算アルゴリズム / 図3.数値解析法の検証結果 / 図4.流速変動スペクトルの比較 / 図5.コヒーレンス関数の比較 / 図6.流体音圧の時間変動 / 図7.円柱からの放射音の予測結果 / 図8.二次元翼からの放射音の予測結果

 以上のように,いくつかの課題はあるものの,提案する方法は低マッハ数の物体周りの乱流から放射される流体音の予測に対して有効であることが示された.

5.結論

 機械工学上重要度の高い,比較的低マッハ数の物体周りの乱流から放射される流体音の数値的予測に関して,本研究により得られた結論を以下にまとめる.

 (1)Large Eddy Simulation(LES)により計算された物体表面の圧力変動,及び,そのコヒーレンス関数から計算される等価相関長とを用いて流体音スペクトルを計算する手法を提案した.本手法を用いれば,特に二次元物体から放射される流体音スペクトルを,比較的狭い解析領域による計算でも,高精度に予測できる.

 (2)任意形状物体から放射される流体音の予測を可能とするために,新しい有限要素法スキームを提案した.提案するスキームでは,局所流速と計算時間刻みとの積に比例した支配方程式の上流化を行う事により,従来の有限要素法解析でしばしば問題となっていた,数値粘性の影響をほぼ完全に除去することを可能とした.

 (3)提案した流体音解析方法の有効性を検証することを目的として,典型的な流体音である,一様流中に置かれた円柱,及び,二次元翼から放射される流体音の予測を試み,実験値との詳細な比較・検討を行った.計算された流体音スペクトルは実験値と定量的に一致し,本手法が物体周りの乱流から放射される流体音の予測に対して有効である事が確認された.

審査要旨

 本論文は、「低マッハ数の乱流中に置かれた物体から放射される流体音の数値解析に関する研究」と題し、比較的低速の流れの中に置かれた物体周りの乱流から放射される流体音の音圧スペクトルを流体数値解析と音の伝播解析とにより予測する手法の提案を行なったものである。

 第1章では、まず序論として流体音低減の重要性、並びに、流体数値解析に基づいた流体音予測の現状が説明された後、本研究の目的が述べられている。最近、高速車両、高速エレベータ、空調機等多くの流体関連機器において、流れから発生する音、即ち、流体音を低減することが重要な技術課題となっており、流体音の数値的予測手法の開発が強く望まれている。この様な状況の中、従来より、非定常流体数値解析に基づく流体音の予測が試みられている。従来の予測手法は、主として高次風上差分法による非定常流体解析によるものであるが、流体解析の精度が十分とは言えず、これらの予測技術は流体音スペクトルの定量的予測ができるレベルには至っていない。本研究は、高精度な乱流解析手法として注目されいてる、Large Eddy Simulation(LES)に着目し、これを任意形状流路の非定常流れ解析に展開することにより、流れの中に置かれた任意形状物体から放射される流体音スペクトルを定量的に予測する手法を開発することを目的としたものである。

 第2章では、物体周りの乱流から放射される流体音スペクトルを計算する方法として、LESおよびCurleの式に基づいた、流体音の計算方法を説明している。特に、本研究ではLESにより計算された物体表面の圧力変動及びそのコヒーレンス関数から計算される等価相関長とを用いて遠距離場における流体音スペクトルを計算するという独自な手法が提案されている。本手法に依れば、特に、二次元形状物体から放射される流体音のスペクトルを比較的狭い領域におけるLES計算によっても高精度に予測できることが説明されている。

 第3章では、LESの数値解析方法として、新しい上流化有限要素法スキームが提案されている。従来、LESの応用は主として一様等方性乱流やチャンネル乱流等の単純流路の解析に限られており、工学的に重要な複雑流路のLES解析は殆んど行われていない。そこで、本研究では、任意形状流路のLES解析を実現することを目的として、新しい陽的有限要素法スキームを提唱している。提唱されているスキームは、局所流速と計算時間刻みとの積に比例した支配方程式の上流化を行うことに特徴があり、従来の要素寸法に基づいた上流化有限要素法においてしばしば問題となっていた数値粘性の影響をほぼ完全に除去できることが、数々の検証例により示されている。また、実際の応用計算では特に重要な計算の高速化に関しても、有限要素法特有な再帰演算の排除等種々の工夫が施された結果、スーパーコンピュータにおいて加速率40倍という高速演算が実現されている。

 第4章では、本研究で提案されている流体音解析方法の有効性を検証することを目的として、一様流中に置かれた円柱周りの乱流、及び、NACA0012翼周りの乱流から放射される流体音の予測を試み、実験値と詳細な比較・検討を行った結果が報告されている。この結果、流体音圧のピーク・スペクトル及び音圧レベルの周波数依存性とも実測値と良く一致する計算結果が得られており、提案する流体音解析方法の有効性が確認されている。

 第5章では、全体のまとめを行なっており、本研究による成果と今後の課題が総括されている。

 以上を要約するに、本研究では、安定でかつ数値的粘性効果が少い新しい上流化有限要素法スキームを開発することにより、任意形状流路のLES解析を可能にすると共に物体表面の圧力変動の相関を考慮して流体音スペクトルを計算するという独自な方法を提案しており、これらにより、物体周りの乱流から放射される流体音スペクトルを定量的に予測することに成功している。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53930