学位論文要旨



No 212603
著者(漢字) 茂野,隆一
著者(英字)
著者(カナ) シゲノ,リュウイチ
標題(和) 農家世帯員の就業行動に関する研究
標題(洋)
報告番号 212603
報告番号 乙12603
学位授与日 1995.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12603号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荏開津,典生
 東京大学 教授 藤田,夏樹
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 原,洋之介
 東京大学 助教授 生源寺,眞一
内容要旨

 日本の農家の就業構造は、戦後きわめて大きな変貌を遂げた。急速な経済発展による労働市場の拡大は、農業セクターから非農業セクターへの労働力の移動を促し、農作業の機械化による農業労働時間の大幅な短縮、モータリゼーションによる移動手段の発達はそれらの傾向を加速させた。その結果、高度成長時代には「地滑り的」とも称された農業労働力の急激な減少が生起し、近年では青壮年男子に加えて女子労働力の急速な減少が続いている。

 このような就業構造の変化は、外部環境の変化に呼応する形で農家世帯員の就業行動が変化してきたことに起因する。ではその背後にある農家世帯員の労働供給メカニズムはいったいどの様なものなのか。本論文の課題は、近年における農家世帯員の就業行動の特質を明らかにし、同時にその労働供給メカニズムについて実証的に分析を行うことにある。

 上記の課題について、本論文では次の3つの視角から接近を試みた。

 まず第一に、農家世帯員各人が属する世代の違いが、就業行動に及ぼす影響を考慮するということである。現在の日本の農家の場合、農業労働力としてもつとも厚い層を形成する昭和一ケタ生まれを中心に、大正、昭和二ケタ、戦後生まれといった多様な世代によって構成されており、またそれぞれの世代が通過してきた経済環境は大きく異なる。こうした世代間の相違は、その就業行動に大きな影響をもたらすと考えられる。

 第二に、非核労働力の就業行動に特に着目するということである。現在の農業生産活動においては非核労働力、とりわけ高齢者の占める位置がきわめて大きくなりつつある。にもかかわらず、農家高齢者の就業行動について分析を行った研究はごくわずかである。また、農家の非核労働力には、非農家世帯の非核労働力には見られない就業行動が観察されるが、これは農家独特の労働供給メカニズムによるものと考えられる。非核労働力の就業行動の特色を明らかにし、それを規定している要因について分析をすることは、農家の労働供給メカニズムへの理解を深める上で重要だと考える。

 第三に、労働供給における農家の世帯員間の相互関係の分析に重点を置くということである。労働供給における世帯員間の関係に着目した分析は従来からあるが、それらのほとんどは、夫と妻の関係に限定されたものであった。しかし現在もなお直系3世代同居を基本とする日本の農家においては、高齢者とその他の世帯員との関係を等閑視することはできない。

 以下、本論文の各章で得られた結果を要約する。

 第1章では、課題、分析方法について述べた。

 第2章では、主にセンサス等の集計データを用いて農家世帯員の近年における就業行動の特質を指摘した。まず戦後における労働力の農業から他産業への流出経路の変化について分析し、同時に農業労働力の減少過程について時期区分を行った。それによれば、農業労働力の減少速度や減少経路は決して一様ではなく、とりわけ高度成長期を挟んでそれらは大きく変化している。

 これらの変化は現在の農家の核労働力を形成する男子世帯員の就業構造に、世代間の格差を形成する要因となった。特にいったん農業に就業しその後に他産業に流出した者の割合が多い昭和一ケタ、10年代生まれ世代と、新規学卒時の就業形態がそのまま継続し、就業構造が比較的安定している昭和20年代以降生まれ世代との違いは大きい。

 また、核労働力の他産業への流出は、非核労働力の就業形態にも大きな影響を及ぼしていると考えられる。ただし、高齢者と女性ではその反応の仕方は対照的であり、高齢者は減少した核労働力に代替する形でその就農率を上昇させたのに対して、女性は近年では核労働力を上回る早さで就農率を低下させていることが明らかになった。

 第3章では、まず、労働供給モデル作成のための前提となる農家高齢者の就業行動の特質について、(1)「生きがい」としての就業、(2)縁辺労働力、(3)労働市場からの隔離、の3点を指摘した。

 このような特質を踏まえ、農家高齢者の労働供給モデルを、就業-非就業の二者択一モデルとして作成し、『農家経済調査』の個表を用いて計測を行った。その結果、高齢者が「恒常的に農業に従事するか否か」という選択においては、農業のshadow-wage、他の世帯員の所得といった経済的要因が大きく影響していることが明らかになった。また、高齢者の就農率は地域間、経営規模間で大きな差があるが、これらの格差は労働供給モデルの計測結果から説明することができた。

 第4章では、まず『農家経済調査』の個票を用いて、各世帯員の農業労働時間の相関関係を考察した。それによれば、青壮年夫婦間、高齢者夫婦間の農業労働時間は極めて高い相関を示すこと、青壮年男女と高齢者男女の農業労働時間は逆に負の相関を示すことが明らかになった。

 これらの考察を踏まえて、農家世帯員間の相互関係を考慮した労働供給モデルを構築し、農家世帯員の労働供給を規定している要因を分析した。その結果、経営規模、資本装備といった当該世帯員の農業経営を取り巻く状況が、労働供給を規定していると同時に、他の世帯員の労働供給行動が相互に関係し合っていることが明らかになった。このような農家世帯員間の労働供給における密接な関係は、農家独特の柔軟な労働供給メカニズムを形成し、戦後における青壮年男子の農業からの急速な離脱の一定部分を補ってきたと考えられる。

審査要旨

 日本の農業労働力は、戦後の過剰時代から現在の不足時代に至るまで、大きな変化をとげた。この変化は、外的条件の変化に対する農家世帯員の就業面での対応と考えることができる。従って、この変化を経済学的に理解するためには、農家世帯員の就業行動の分析が必要となる。本研究は、このような問題領域においていくつかの点で新しい知見を得たものである。

 第1章は、課題と分析方法に関するイントロダクションである。農家世帯員の経済活動に関する主体均衡論的研究は、中嶋千尋京都大学名誉教授等の手によって世界にさきがけて我国で開発された分野である。中嶋教授等を中心とする初期の研究は、効用関数を用いたもっばら理論的な研究であったが、その後計算手段の発展によってその理論を実証することが可能となり、またさまざまの現実的条件を加味して理論・実証両面における精密化が進んだ。本研究は、農家主体均衡論の労働供給面における最新の実証分析であると評価することができる。

 第2章は、本論に入る準備として、農業労働力の時系列統計によるマクロ的考察を試みたものであるが、考察に当って、成年男子を中心とする核労働力と、高齢者および女子を中心とする非核労働力という区別の他に、世代による就農経験の相違を重要な要因として取り上げている。これは効用関数論における習慣形成仮説のバリエーションであるともみることができ、今後更に発展の見込まれる知見を提示したものといえる。

 第3章は第4章とともに本論分の中心をなす成果を示している。主要なデータは『農家経済調査』の個票(昭和60年、約3,000標本)である。まず第3章では、農家高齢者の就業行動に関して労働供給モデルを計測したものである。基本となる理論モデルは、余暇と消費を変数とする効用関数モデルであり、利潤関数を含む制約条件のもとで、生産関数に一次同次の仮定をおくことによってモデルの最適解を求める。これがすなわち農家高齢者の労働供給関数を与えることになる。

 計測結果は、計量経済学上の要件を充分にクリアしているものと認められる。農家高齢者の就業状態には地域間・経営規模間に大きな差が見られるが、計測された方程式はこの分散を充分に説明するものであり、モデルの妥当性が示された。

 計測結果によると、高齢者の恒常的農業就業の規定要因としては、農業労働のシャドウ・ウエイジと他の世帯員の所得水準とが最も重要であることが明らかになった。

 第4章では、同じく『農家経済調査』の個票を用いて、農家世帯員の相互の影響を考慮した就業行動の分析が示されている。典型的な家族構成として、青壮年夫婦と高齢者夫婦とからなる二世代の労働可能家族員を含むモデルをもとに、まずその就業行動の相関を観察したのち、第3章と類似の農家効用関数を、それぞれのタイプの世帯員の余暇-就業選択を明示的にとり込んだ形で定式化し、かつそれに伴う所得制約式も同様に定式化して計測を行ったものである。計測結果によれば、農家世帯員相互間の代替・補完関係が農家世帯員の就業行動を規定している実態が明らかに分析されている。

 以上を要するに、本研究は日本の農業経済学会が世界の研究をリードして来た農家主体均衡論の分野における最新の実証的成果であり、学術および応用の両面において貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、博士(農学)の学位を授与するべきものと判定した。

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