微生物を用いて釀造や物質生産をする場合、生産にこれから用いようとする微生物の「活性」を予め掴んでおく事は重要なことである。なぜならば、その発酵の成否を握っている重要な因子の一つがこれから使用する微生物の活性であり、低い活性の微生物を用いては高品質の製品を安定して造っていく事が困難であるからである。回分式のビール醸造では、酵母は数段階の培養過程を経て、発酵に用いられるが、主発酵終了後はタンク底(下面酵母)または発酵液上面(上面酵母)から回収され、再び次の発酵に供せられる。このため回収酵母の生理状態(発酵力)は次の発酵経過およびビール品質に大きな影響を与える重要なファクターとなっておりこれを推定することは重要である。これまでに、ビール酵母の発酵力を推定する方法として、染色法、培養法、代謝活性に着目した研究がなされているが、測定感度や結果を得る迄の時間の問題が存在していた。 近年、細胞内pHやプロトン排出能は、酵母の代謝生理で重要な役割を演じていることが明らかとなってきている。即ち、細胞内pHは酵母の解糖・糖新生の制御に於いて重要な役割を担っており、また一方で細胞内pHを制御するplasma membrane ATPaseは、酵母の増殖に必須であり、plasma membrane ATPaseによって形成された膜間のプロトン勾配が、これらマルトースやアミノ酸取り込みの駆動力となっている事が考察されている。そこで本研究では、細胞のプロトン排出能とビール酵母の発酵力とに密接な関係があることを想定して、細胞内pH(プロトン排出能)に着目した新しい方法の開発を行った。また、その実用性を解析すると共に、ビール酵母の発酵力と細胞質膜に存在するplasma membrane ATPaseとの関係について解析を行った。 酵母の細胞内pHと発酵力との詳細な検討を進めていくために、顕微鏡画像処理技術による酵母細胞内pHの測定法の開発を行った。pH感受性の蛍光試薬(5(6)-カルボキシフルオレセイン)を取り込ませたビール酵母の細胞内pHを、通常の蛍光顕微鏡下で測定する事を基本とし、SITカメラ、ビデオ、デジタル画像処理を組み合わせたシステムを考えた。検討した結果、シャッター開放時間と撮像のタイミングと適当なアルゴリズムにより、動物細胞よりも低pHを示す可能性がある酵母細胞内pHの測定が可能となった。アルゴリズムとしては、これまで常識的に用いられてきた積分画像処理を用いずに、ある微分時間の画像を正確に撮像する事により測定者が知らない間に生じてしまうエラーを画像処理的に除外できるようにする事を考えた。この方法を用いて、従来の測定法では測定が不可能であった、一般的な培養条件下で増殖している酵母の細胞内pHの解析を行った。その結果、細胞外pHを一定にした場合でも、細胞内pHは増殖過程中で大きく変化していることが見出された。即ち、誘導期で低かったpHが、対数増殖期で急速に上昇し、定常期で再び下がる事が観察され、細胞増殖時にプロトン排出能が上昇する様子が映像として認められた。 次に、ビール酵母の新しい発酵力測定法の開発を行った。この方法は、冒頭で述べた様に細胞内pH(プロトン排出能)に着目したものである。細胞のプロトン排出能を簡単に見るために、低pH下における細胞内pHを捉えることを考えた。即ち、酵母懸濁液にpH感受性蛍光物質である5(6)-カルポキシフルオレセインのエステル化物(無蛍光性)を添加し、低温下で本蛍光物質を細胞に取り込ませる。この蛍光物質は、他の膜系や細胞外にでにくい構造になっている。ここまでは、従来の蛍光染色法であるフルオレセインジアセテート法と同等であるが、本法ではもう1ステップ入る。即ちpH感受性蛍光物質を取り込んだ細胞を低pHバッファーに平衡化後、蛍光測定を行うものである。この最後の蛍光強度の分析を蛍光光度計を用いて行えば、細胞集団としての計測ができる。また、ここで開発した蛍光顕微鏡画像処理法を応用すれば、細胞単位での解析も可能となる。実験室での麦汁発酵試験とともに、実製造において約1年間に渡るデータ取りを行ったところ、この方法により実製造現場で出現する微妙な酵母活性の差を捉えられる事が判明した。また、アシディフイケーションパワー法(酵母懸濁液にグルコースを添加後、酸の生成量を溶液のpHを測ることにより発酵力を推定する方法)等の従来法には、実用上限界があることが、本研究に於いて初めて見出されるた。 更に、細胞内pHと細胞の増殖活性との解析を行った。まず、これまで実験系に用いられてきた、熱などで完全に死滅させた酵母細胞を用いずに、低温保存によりマイルドに活性低下させた酵母細胞に対して、スライド培養、平板培養、蛍光染色法であるフルオレセインジアセテート法(蛍光物質の膜の透過性や細胞内エステラーゼ活性の強弱に着目した方法)を行うとともに、細胞内pHを顕微鏡画像処理法もしくは蛍光分光光度計を用いて測定し、細胞個々並びに細胞集団の解析を行った。その結果、この様なマイルドな処理をした酵母に於いては、従来法である蛍光染色法による細胞の染色程度が必ずしも細胞の増殖活性を反映するものではない事が判明した。一方、細胞内pHと細胞の増殖活性とには、この様なマイルドな処理をした細胞であっても、関係が見出された。更に、低温保存以外に、熱処理、エタノール処理条件で酵母細胞を処理し、viability測定法としてATP濃度測定を取り上げ、細胞内pHとの関係を調べた。viability測定法としてのATP濃度測定に関しては、ATP濃度がその細胞の培養条件で色々と異なるので、その値によって絶対的な評価はできないが、相対評価が可能な条件でテストしたところ、低温保存、熱処理、エタノール処理において、相対的なATP濃度の変化によって観察された酵母活性の低下を細胞内pHによって捉えられることも認められた。 低pH条件下に於ける細胞内pHとビール酵母の発酵力とに関係が見出されたことから、低温保存によるビール酵母発酵力変化に伴う、plasma membrane ATPaseの活性変化と酵母細胞内pHの変化との関係を速度論的に調べた。その結果、Km値が変化したのではなく、Vm値が変化したことが判明した。この原因を解明するために、ビール酵母のplasma membrane ATPaseの詳細な解析を実施することにした。まず、ビール酵母から本蛋白の取得を行い、SDS-PAGE上、分子量100,000の蛋白として精製された。本蛋白は、ATPに対して高い基質特異性を示し、Mgイオンを反応に要求した。また、plasma membraneに結合している状態での反応至適pHは、6.0であったが、精製蛋白のそれは6.5と若干アルカリ性にシフトしていた。本酵素は、活性発現のために強いリン脂質要求性を示し、C18:0,C18:1で構成されているphosphatidyl serineでは活性を示すが、C18:1,C18:2で構成されているものでは活性をほとんど示さないという興味深い性質を有していた。更に、この精製蛋白をリポゾームに再構成したところプロトン輸送がされたことから、本蛋白が、ビール酵母においてもプロトンポンプとして機能していることが確認された。マウスで本蛋白の抗体を作製し、細胞染色を行ったところ本蛋白が細胞膜に局在していることも確認された。さて、ビール酵母発酵力変化に伴う、plasma membrane ATPaseのVm値変化の原因を解明するために、低温保存によって発酵力の変化した酵母のplasma membrane中のリン脂質組成、並びに本蛋白活性、蛋白量の解析を行った。その結果、plasma membrane中のリン脂質には、大きな変化は観察されなかったが、本蛋白の蛋白量が変化していることが認められた。以上のことより、ビール醸造で用いられる酵母の低温保存工程における、plasma membrane ATPase活性の変化は、plasma membrane ATPase蛋白の分解によるものである事、また細胞内pHによって高感度に酵母の発酵力を推定する事ができた理由は、plasma membrane ATPaseが細胞生理上きわめて重要な蛋白であるにもかかわらず、不安定な蛋白であった事に起因していた事が明らかとなった。ビール醸造における酵母の発酵力変化と細胞内pH及び細胞内蛋白であるplasma membrane ATPaseとの関係については、本研究によって初めて明らかにされたことである。 |