酵母Saccharomyces cerevisiaeには、真核生物のモデル生物として細胞周期などの研究に用いられている研究室株と酒類醸造などの産業分野で用いられている実用株が存在し、これらは同じS.cerevisiaeでありながら、アルコール発酵などの実用性能において違いが見られる。本研究は、この実用性能の違いを明らかにし実用株を育種へ応用することを目的として、遺伝形質解析のための染色体工学技術の開発を行うとともに、それを応用して実際の解析を進めたもので6章よりなっている。 第1章では、実用酵母の利用の現状と育種例について述べるとともに、実用形質の複雑さに伴う解析および育種上の問題点を指摘したうえで、本研究で利用した部位特異的組換え系および染色体工学について述べている。 第2章では、酵母二倍体の任意の染色体対をホモの染色体対に置換する方法について検討し、染色体の置換は、任意の染色体の消去と消去された染色体と対をなしていた染色体の倍化によって行えることを示している。任意の染色体の消去のために、2マッピングで知られる染色体消去の原理に基づき新たなプラスミドを作成し、このプラスミドを用いて酵母二倍体の任意の染色体を効率良く消去できることを示すとともに、染色体が消去された酵母異数体株の増殖が消去される染色体の長さに相関して遅くなることを明らかにしている。また、染色体が消去された酵母異数体株を継代培養することにより消去された染色体と対をなしていた染色体が倍化した株(染色体が置換された株に相当する)が容易に分離できることを示している。 第3章では、酵母の任意の染色体を分断する方法について検討している。染色体の分断は、染色体の分断したい位置に導入した特異的組換え部位(RS)と分断用に設計された人工染色体上のRSの間で組換えを誘導することによって行っており、第IV番染色体のセントロメア部位での分断が効率良く行えることならびに分断された染色体の再連結も可能であることを示している。また、酵母二倍体を用いて、分断した染色体の一方の消去が可能であることを示している。 第4章では、染色体工学を応用した遺伝子のマッピングについて検討している。第XV番染色体のセントロメア近傍右腕側にマッピングされているPHO80遺伝子座にRSを導入し、第V番染色体上の左腕にマッピングされているURA3遺伝子座に導入したRSとの間で組換えを誘導し、そのパターンからPHO80遺伝子がこれまでの報告とは異なる左腕側にあることを明らかにしている。また、第IV番染色体のTRP1遺伝子座についても同様の解析を行いTRP1座がこれまでの報告通りセントロメア近傍右腕側にあることを確認するとともに、染色体工学を応用した遺伝子のマッピング法の有効性を確認している。 第5章では、第2章で示された酵母二倍体の任意の染色体対をホモの染色体対に置換する方法を応用して酵母実用形質の染色体レベルでの解析を試みている。モデルとして糖濃度30%の糖蜜からのアルコール発酵能力の優れているアルコール酵母一倍体YOY655aとアルコール発酵能で劣っている研究室酵母一倍体X2180-1Bについて、その性能の差を支配する因子の解析を行っている。YOY655aとX2180-1Bを交雑した株の各染色体対をYOY655a由来あるいはX2180-1B由来のホモの染色体対に置換した株を作成し、糖蜜からのアルコール発酵性を比較して、その差から第IV番染色体には両菌株のアルコール発酵能に差を与えている遺伝子はないが、第V番、第IX番、第XI番、第XII番、第XV番染色体には、そのような遺伝子が乗っていることを明らかにしている。 第6章では、本論文の内容を総括するとともに、染色体工学を応用した酵母実用形質の解析および実用酵母の育種について論じている。 以上要するに、本研究は酵母の実用形質を解析する手段として染色体工学に着目し、その応用技術として染色体の置換および染色体の分断を行う技術を開発するとともに、染色体工学を応用した遺伝子のマッピングおよびアルコール発酵に関する実用形質の解析を行ったもので学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |