学位論文要旨



No 212607
著者(漢字) 川崎,秀紀
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,ヒデキ
標題(和) 染色体工学の酵母への利用に関する研究
標題(洋)
報告番号 212607
報告番号 乙12607
学位授与日 1995.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12607号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 児玉,徹
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 助教授 北本,勝ひこ
 東京大学 助教授 五十嵐,泰夫
内容要旨

 酵母、Saccharomyces cerevisiaeには、真核生物のモデル生物として細胞周期などの研究に用いられている研究室株と酒類醸造などの産業分野で用いられている実用株が存在する。これらは、同じS.cerevisiaeでありながら、性質を異にしている。研究室株は、遺伝解析が容易な株として特別に育種された株であり、不十分な実用性能しか示さない。一方、実用株は、良くアルコール発酵をする等といった実用性能に優れた株として長い年月をかけて育種された株であり、遺伝解析が困難な場合が多い。また、実用形質の多くは、複数の遺伝子が関与することなどからも、従来の遺伝学あるいは遺伝子工学を用いた解析は困難である。我々は、この問題を解決するため、多くの遺伝子を同時に取り扱える染色体工学を応用した実用形質解析を検討した。実用形質の解析では、実用形質を持つ株(実用株)と持たない株(例えば研究室株)の実用性能の差を支配する遺伝子を明らかにするという方法が考えられる。この場合、染色体工学を用いると以下のような解析戦略が考えられる。(i)まず、実用株と研究室株の雑種二倍体から、各染色体対を実用株あるいは研究室株由来のホモの染色体対に置換した株(染色体置換株)を作成する、(ii)得られた各染色体置換株について実用形質の評価を行い、染色体が置換されたことによって実用形質に変化の現われる染色体を特定する。染色体置換株は、置換された染色体以外は元の雑種二倍体と同じであり、実用形質の変化の原因は置換した染色体にあると考えられる、(iii)特定された染色体について、適当な位置での染色体分断、あるいは、染色体内での組換えを用いた適当な領域の欠失を行う、(iv)分断された染色体の一方を消去した株、あるいは、染色体内の適当な領域が欠失した株について、実用形質の評価を行なう、染色体の分断-消去あるいは欠失により実用性能に変化が現われたとすると、その部分に重要な遺伝子が乗っていると考えられる、(v)絞り込まれた染色体部分について(iv)の解析をさらに詳細に進め、遺伝子工学で取り扱えるレベルまで領域を限定し、その後は遺伝子工学を用いて目的遺伝子のクローニングを行う。我々は、この解析戦略に利用するための、染色体工学を応用した新たな技術の開発と、それを利用した実用形質解析の検討を行った。

 染色体工学を応用した新たな技術として開発した染色体置換技術は、二倍体での任意の一本の染色体の消去と、消去された染色体と対をなしていた染色体の倍化という2つのステップで構成される。任意の染色体の消去は、Zygosaccharomyces rouxiiから分離されたpSR1プラスミドのR-RS部位特異的組換え系を用いて行った。R-RS部位特異的組換え系は、特異的組換え部位RSおよび、RS間での組換えを触媒する組換え酵素Rから構成されている。また、今回用いたR遺伝子は、GAL1プロモータ下流に連結してあるため、その発現を培地中の炭素源の種類によりコントロールすることができる。我々の構築した染色体消去の方法では、初めに、消去したい染色体に、基本プラスミドpHK66を基に作成した各染色体を消去するためのプラスミドを導入する。このプラスミドは、一組の逆向きに配置されたRS、それに働くR遺伝子、マーカーとしてのURA3遺伝子を持っている。この株を別の株と交配し二倍体株(2n)とする。この二倍体株をR遺伝子が発現する条件で培養する。栄養増殖中染色体が複製された時に、姉妹染色体分体上のRS間で部位特異的組換えが不等に起こると、複製終了後、セントロメアを2個持つ染色体とセントロメアを持たない染色体が生じる。このような異常な染色体は、染色体の分配時に正常に分配されず、結果として目的の染色体を失った株(2n-1株)が取得される。この方法で、各染色体の消去を検討したところ、いずれの染色体でも40%以上の高頻度で、2n-1株が取得できた。この時、2n-1株は、2n株に比べ増殖速度が低下し、プレート上では小さいコロニーとして観察された。増殖速度の低下は、消去された染色体が長いほど、大きい傾向が見られた。細胞が染色体あるいは遺伝子の不足量を認識して、細胞周期の進行を遅らせていると考えられた。2n-1株が、増殖が遅い(プレート上で小さなコロニーを形成する)ことを指標にすると、染色体消去誘導後70%以上の頻度で2n-1株を分離することが可能であった。また、2n-1株を栄養培地で継代培養すると、増殖の回復した株が出現した。これらの株は、染色体消去で失われた染色体と対を成していた染色体が倍化して染色体数が2nに戻った株(染色体置換株)であった。この選択も、コロニーの大きさを指標にすることにより効率的に行うことができた。このような単純な操作と容易な選択方法で目的の染色体置換株を取得できることは、実用酵母を扱う上で、大きなメリットと考えられる。

 染色体工学を応用した新たな技術として開発した染色体分断技術には、分断したい染色体と人工染色体(YAC)の間で転座を起こすという方法を用いた。分断には、R-RS部位特異的組換え系を利用した。この方法では、まず、染色体の分断したい位置に、YIpベクターを用いてRSを導入する。次に、RSおよびRを持ったYACを形質転換し、R遺伝子が発現する条件で培養することによりRS間での転座を誘導する。そして、R遺伝子の発現しない培地でコロニーを形成させ、目的の位置で染色体が分断された株を分離する。研究室株を用いた試験では、約10%の頻度で染色体が分断された株を分離することができた。また、部位特異的組換えの可逆性を利用すると、分断された染色体の再結合を行うことも可能であった。さらに、二倍体を用いると、分断された染色体の一方を消去することもできた。従来の相同組換えを用いた染色体分断に比べ効率が非常に良いこと、分断された染色体の再連結が可能なことから、この染色体分断技術は、酵母実用形質の解析あるいは育種への応用も可能と考えられた。

 染色体工学の応用として遺伝子のマッピングと酵母実用形質の解析を行った。遺伝子のマッピングは、従来、四分子解析によって行われてきた。この方法では、減数分裂時における組換えの頻度から、遺伝子間の距離を求める。従って、近接した遺伝子間の解析など、細かい解析には不向きである。また、胞子形成性および胞子の発芽率の低い実用酵母の場合、四分子解析を行うこと自体が困難である。そこで、部位特異的組換え系を用いた遺伝子のマッピングを検討した。対象として第XV番染色体のセントロメア近傍の右腕側にマッピングされている遺伝子PHO80を選び、同じ第XV番染色体の右腕にマッピングされているHIS3遺伝子との間での組換えによるDNAの欠失および転座を検討した。その結果、欠失および転座のパターンが予想とは異なっており、PHO80が、第XV番染色体の左腕側にあることが示唆された。これを確認するために、PHO80と第V番染色体の左腕側にマッピングされているURA3遺伝子との間で、転座を検討した。各種プローブを用いたサザン解析などの結果から、PHO80は第XV番染色体の左腕側にあることが明らかとなった。以上の結果は、染色体工学を応用した遺伝子マッピングの有効性を示していると考えられる。

 また、実用形質の解析を、今回開発した染色体置換技術を利用して検討した。モデルとして、アルコール酵母YOY655auと研究室株X2180-1Buを対象とし、糖蜜培地でのアルコール生産性を比較した。YOY655auとX2180-1Buを交配した雑種二倍体から、第IV番、第V番、第IX番、第XI番、第XII番あるいは第XV番染色体対をYOY655au由来あるいはX2180-1Bu由来のホモの染色体対に置換した一連の染色体置換株を作成した。このような染色体操作そのものが、アルコール生産性に影響しないことを確認した上で、各染色体置換株と元の雑種二倍体のアルコール発酵を比較したところ、第IV番染色体を除く各染色体置換株でアルコール発酵に変化が見られた。これらの染色体には、YOY655auとX2180-1Buのアルコール生産性の差を与えている遺伝子(群)が乗っているものと考えられる。また、各染色体置換株のアルコール発酵の変化のパターンは異なっており、第V番染色体の場合はYOY655au由来のホモの染色体対に置換した時にアルコール生産性の向上が観察されたのに対し、第IX番、第XI番、第XII番染色体の場合は、X2180-1Bu由来に置換した時にアルコール生産性の低下が観察された。また、アルコール生産性の低下の程度は、第IX番で大きく、第XI番および第XII番染色体では小さかった。第XV番染色体では、YOY655au由来に置換した時にアルコール発酵の低下が観察された。これらのことから、YOY655auとX2180-1Buのアルコール生産性の差を与えている遺伝子は複数存在し、各染色体に不均一に分布し(重要な遺伝子が乗っている染色体と乗っていない染色体がある)ているものと考えられた。今後、全ての染色体について解析を行うことにより、アルコール生産性に関与する重要な遺伝子(群)の乗っている染色体を明らかにできると考えている。

審査要旨

 酵母Saccharomyces cerevisiaeには、真核生物のモデル生物として細胞周期などの研究に用いられている研究室株と酒類醸造などの産業分野で用いられている実用株が存在し、これらは同じS.cerevisiaeでありながら、アルコール発酵などの実用性能において違いが見られる。本研究は、この実用性能の違いを明らかにし実用株を育種へ応用することを目的として、遺伝形質解析のための染色体工学技術の開発を行うとともに、それを応用して実際の解析を進めたもので6章よりなっている。

 第1章では、実用酵母の利用の現状と育種例について述べるとともに、実用形質の複雑さに伴う解析および育種上の問題点を指摘したうえで、本研究で利用した部位特異的組換え系および染色体工学について述べている。

 第2章では、酵母二倍体の任意の染色体対をホモの染色体対に置換する方法について検討し、染色体の置換は、任意の染色体の消去と消去された染色体と対をなしていた染色体の倍化によって行えることを示している。任意の染色体の消去のために、2マッピングで知られる染色体消去の原理に基づき新たなプラスミドを作成し、このプラスミドを用いて酵母二倍体の任意の染色体を効率良く消去できることを示すとともに、染色体が消去された酵母異数体株の増殖が消去される染色体の長さに相関して遅くなることを明らかにしている。また、染色体が消去された酵母異数体株を継代培養することにより消去された染色体と対をなしていた染色体が倍化した株(染色体が置換された株に相当する)が容易に分離できることを示している。

 第3章では、酵母の任意の染色体を分断する方法について検討している。染色体の分断は、染色体の分断したい位置に導入した特異的組換え部位(RS)と分断用に設計された人工染色体上のRSの間で組換えを誘導することによって行っており、第IV番染色体のセントロメア部位での分断が効率良く行えることならびに分断された染色体の再連結も可能であることを示している。また、酵母二倍体を用いて、分断した染色体の一方の消去が可能であることを示している。

 第4章では、染色体工学を応用した遺伝子のマッピングについて検討している。第XV番染色体のセントロメア近傍右腕側にマッピングされているPHO80遺伝子座にRSを導入し、第V番染色体上の左腕にマッピングされているURA3遺伝子座に導入したRSとの間で組換えを誘導し、そのパターンからPHO80遺伝子がこれまでの報告とは異なる左腕側にあることを明らかにしている。また、第IV番染色体のTRP1遺伝子座についても同様の解析を行いTRP1座がこれまでの報告通りセントロメア近傍右腕側にあることを確認するとともに、染色体工学を応用した遺伝子のマッピング法の有効性を確認している。

 第5章では、第2章で示された酵母二倍体の任意の染色体対をホモの染色体対に置換する方法を応用して酵母実用形質の染色体レベルでの解析を試みている。モデルとして糖濃度30%の糖蜜からのアルコール発酵能力の優れているアルコール酵母一倍体YOY655aとアルコール発酵能で劣っている研究室酵母一倍体X2180-1Bについて、その性能の差を支配する因子の解析を行っている。YOY655aとX2180-1Bを交雑した株の各染色体対をYOY655a由来あるいはX2180-1B由来のホモの染色体対に置換した株を作成し、糖蜜からのアルコール発酵性を比較して、その差から第IV番染色体には両菌株のアルコール発酵能に差を与えている遺伝子はないが、第V番、第IX番、第XI番、第XII番、第XV番染色体には、そのような遺伝子が乗っていることを明らかにしている。

 第6章では、本論文の内容を総括するとともに、染色体工学を応用した酵母実用形質の解析および実用酵母の育種について論じている。

 以上要するに、本研究は酵母の実用形質を解析する手段として染色体工学に着目し、その応用技術として染色体の置換および染色体の分断を行う技術を開発するとともに、染色体工学を応用した遺伝子のマッピングおよびアルコール発酵に関する実用形質の解析を行ったもので学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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