内容要旨 | | マイワシは日本の水産業を支える重要な魚種であるが,その資源量は数十年単位で大きく変動することが知られている.一般に,魚類の資源量は成魚の資源量に,毎年どれくらいの仔魚が加入するかによって決定される.そして卵稚仔期は成魚期に比べて死亡率が高いことから,仔魚の加入量は産卵場付近の環境度化の影響を強く受けていると考えられている.卵稚仔には遊泳能力がほとんど無いため,産卵場付近の流れによって好環境の海域に輸送されるか否かが,加入量を決定する上で重要な問題となる.つまり,マイワシの資源量変動には卵稚仔輸送が関与している可能性が大きいと思われる. この様な論点から,Kasai et al.(1992)はマイワシ卵稚仔の輸送・生残に関する数値実験を行い,産卵後20日までの稚仔魚の生残に卵稚仔輸送が大きく影響することを示した.ところが最近の研究で,産卵後1ヶ月程度までの稚仔魚の生残状況と年級群の強さは必ずしも対応しないということが分かってきた.つまり,産卵後20日までの卵稚仔輸送モデルでは,年級群の強さを予測できるとは限らない.そこで本研究では,黒潮続流域及び黒潮親潮混合域における稚仔魚の死亡を考慮に入れた卵稚仔輸送モデルを作成し,産卵後90日までの計算を行うことにより,黒潮による卵稚仔輸送と続流域での生残がマイワシの加入量に与える影響を総合的に明らかにした. 一方,日本南岸海域においては,比較的大規模な水平スケールを持った黒潮系暖水が遠州灘等の沿岸域に流入することが知られている.また,黒潮フロント域における低次生産のメカニズムにも近年注目が集まっている。しかし,これらのメソスケールの現象についての物理構造やその卵稚仔輸送・生残に及ぼす影響については知見がまだ少なく,Kasai et al.(1992)を含めこれまでのモデル研究ではこれらの効果は十分に評価されていない.そこで本研究では,現場観測を行うことによって,遠州灘に流入する黒潮系暖水及び黒潮フロント域の時空間構造とそれに対応した低次生産のメカニズムを明らかにした.そして数値モデルによってこれらの物理現象が卵稚仔の輸送・生残に及ぼす影響度を評価した. 研究結果の大要は以下のとおりである. 1.遠州灘に流入する黒潮系暖水の時空間構造 フェリーに取り付けた水温計によって,遠州灘から熊野灘にかけて海面水温観測を行った.本研究では1987年4月から1992年3月までの観測結果を解析した.その結果,黒潮が遠州灘で蛇行し伊豆海嶺の西側で接岸する流路(B型)をとる時期は,遠州灘から熊野灘までの広い範囲で2〜3℃水温が上昇し,高水温が1ヶ月程度持続するという現象がしばしば見られた.しかしこの様な大規模な上昇は,黒潮が直進流路(N型)や伊豆海嶺の東側を通る流路(C型)をとる時にはあまり見られなかった.衛星画像から判断すると,この水温上昇は黒潮から波及する暖水舌が遠州灘に流入し,熊野灘に向けて西進することによって起こると考えられる.そしてこの暖水舌は70〜100kmの幅を持ち,400m以深にまで達していることが分かった.また,海面水温の時系列をフーリエ解析した結果から,暖水は40〜50日周期で流入し,約20cm s-1で西進することが明らかとなった. 次に伊豆諸島及び遠州灘沿岸域での潮位データを解析した結果,黒潮がB型流路をとる時黒潮は伊豆半島沖でしばしばS字型に小蛇行しており,その蛇行が約50日周期で黒潮に沿って下流に伝播していることが明らかとなった.そしてその小蛇行の山が遠州灘の左旋環流に捉えられることにより,暖水が沿岸域に流入することが分かった.過去の黒潮大蛇行(A型)期やC型期にも日本南岸域での潮位が約40日周期で変動していたことから,黒潮が蛇行している時期には40〜50日周期で暖水が流入している可能性が高い.しかしC型の時には黒潮は伊豆海嶺よりも東側を流れ,しかも暖水が400m以上の厚さを持っているために伊豆海嶺を越えられず,一般に遠州灘に暖水は流入できない.S字型の小蛇行によって黒潮が一時的に三宅島の西側を通る時には流入することもあるが,その頻度は低い. 黒潮がAまたはB型をとる期間のうち,暖水が遠州灘に流入する期間の割合は約60%であった.このことから後述の輸送モデルでは,それらの期間に産卵された卵稚仔のうち,フロント域に運ばれた卵稚仔の約60%が沿岸域に輸送されると仮定した. 2.黒潮フロントにおける低気圧性渦の構造と低次生産 遠州灘の黒潮フロント域における物理環境と栄養塩及びクロロフィル濃度を,1994年5月18日から23日にかけて白鳳丸KH94-2次航海で観測した.衛星画像によると,観測期間中,黒潮フロントには波長150〜200kmの擾乱があり,約60cm s-1の位相速度で東進していた.この擾乱に伴う低気圧性渦の中心を南北に縦断したと考えられる観測線では,沿岸起源の低温・低塩分水の下に,黒潮から波及した厚さ約100〜150mの高温・高塩分の暖水舌が捉えられていた.そして暖水舌と黒潮との間に直径約80kmの低気圧性渦が発達していた.このフロントの低気圧性循環に伴う二次流として下層水の上昇も観測された. また,この黒潮フロントの低気圧性渦に対応して,栄養塩とクロロフィル濃度の高い海域がコア状に存在していることが分かった.これらの時間変化を見ると,栄養塩濃度が下がるにつれてクロロフィル濃度が上昇していた.これは,低気圧性渦によって下層から補給された栄養塩を消費することによって,一次生産が高まったことを示唆している.一方,周囲の沿岸域や黒潮本流域でのクロロフィル濃度は低いことから,黒潮フロント域における低気圧性渦が,一次生産を高める上で重要な役割を果たしていると考えられる.この観測から得られた栄養塩,クロロフィル濃度及び渦度の時間変化から,低気圧性渦による基礎生産量を見積もると0.1gCm2d-1程度であり,周辺海域よりもかなり高い.さらに低気圧性渦域ではコペポーダのノープリウスの密度も高いことから,黒潮フロント域は稚仔魚にとって餌料環境の良い海域となっていると考えられる. 3.マイワシ卵稚仔の輸送・生残モデル まず,Kasai et al.(1992)によって卵稚仔の生残に強く影響を及ぼすと示唆された冬季季節風による沖出し流や黒潮に対する産卵場の位置,そして黒潮フロントなどのパラメータを組み込んだ一次元モデルを作成した.最初にKasai et al.(1992)と同じ条件で卵稚仔の生残を計算したところ,モデルの結果と観測値による生残率の年変化の傾向がよく一致し,産卵後20日までの生残を考える上では,一次元モデルでも卵稚仔輸送・拡散問題が扱えることが分かった.そこで一次元モデルを用いて,観測から得られたフロント域での生産性の高さが卵稚仔の生残に与える影響を調べた.その結果,フロント域で最も生残率が良いとした場合と沿岸域全体で良いとした場合で年変化の傾向に大きな差はなかった.これはフロント域の幅が沿岸域や外洋域に比べ狭いことによる.つまり,モデル上では沿岸域全体で生残が良いと仮定すればよいということが分かった.また,沖出し流や産卵場の位置等のパラメータを評価したところ,産卵後20日までの生残には黒潮フロントにおける擾乱よりも季節風や産卵場の位置の効果が重要であることが明らかになった. 次に親潮域まで含めた水平二次元モデルによって,卵稚仔輸送がマイワシの年級群の強さにどれくらい寄与しているかを検討した.このモデルには,黒潮がAまたはB型をとる年には,遠州灘に波及する暖水によって卵稚仔が沿岸域に輸送される効果が組み込まれている.また過去の研究結果に基づき,親潮の南限位置によって本州東方の生残率を年毎に変えた場合と,年によらず一定とした場合の実験を行った.計算結果によると,生残している稚仔魚のうち,続流域にまで輸送されてしまう稚仔と日本の南岸に留まる稚仔の量が最終的には同程度となった.これは,続流域にまで輸送される稚仔も生き残り,再生産に寄与している可能性があることを示唆している.また,実測に基づいて求めた道東に来遊する1歳魚の量とモデルによって計算した仔魚の生残量を比較したところ,黒潮・親潮混合域での生残を親潮の南下位置によって変えたケースのみ,それらの年変化の傾向が良く一致した.これは,黒潮・親潮混合域での生残が親潮の南下度合に依存しており,しかも再生産に大きく関わっていることを示している. 以上のように本研究では,黒潮から沿岸域に波及する暖水やフロント域での低気圧性渦等のメソスケールの物理過程について,その時空間構造と低次生産及び卵稚仔輸送に果たす役割を現場観測により明らかにした.さらに,それらを考慮にいれた卵稚仔輸送モデルによって稚仔魚の生残を計算することにより,マイワシの加入量には卵稚仔輸送効果に加えて,親潮の南下位置の年々の変動に伴う生残率の変化が大きく寄与していることが分かった. |